紗雪から助けを求められても
「し、白雪先生!お、おはようございます……!」
診療所に顔を出した氷室は、ひときわ挙動不審な那須宮に声を掛けられた。
荷物をロッカーに押し込み白衣を羽織った氷室は那須宮へ挨拶を返すが、那須宮はだらだらと額から汗を流し続けている。
「どうした」
見かねた氷室が声をかければ、那須宮は待っていましたとばかりに氷室の腕を掴んで休憩室へと引きずり込む。
「あ……。白雪……先生……」
那須宮が休憩室のドアを素早い動作で閉めれば、休憩室のベッドに横たわる女がか細い声で氷室の名を呼んだ。
その顔色は青白く、氷室は無言で近くに置かれた丸椅子に座ると、何かを伝えようと必死に声を出す紗雪の言葉を聞き漏らさないように耳を傾ける。
「これが……本当の、はじまり……」
「はじまりだと」
「悪夢が……終わる。悪魔の子にとっては、はじまり……。被害者に、とっては……おわり……」
「何が言いたい」
氷室とうまくコミュニケーションが取れていない紗雪は、ゆっくりと瞼が閉じていく。
慌てて脈を測ったが、異常は見られない。
氷室にこの言葉を伝えるためだけに、眠いのを我慢していたのだろう。
「あま……か……びょ……の……じけ……おわ……ない……」
途切れ途切れの言葉を紡いだ紗雪の瞳が完全に閉じられる。
(どうなってんだ……)
数秒後に寝息が聞こえてきたことにホッとしながらも、穏やかではない言葉の数々に氷室は頭を悩ませる羽目になった。
「紗雪ちゃんのお父さんが逮捕されてから7年近く経って、落ち着いてきたように見えますけど……。まだ、あの件は……終わっていないみたいです」
那須宮の補足説明を受けて、氷室は紗雪の伝えたかった答えを導き出す。
『天門総合病院の事件は終わっていない』
それは紗雪が何者かによって銃で撃たれたことで明らかではあるが、天門総合病院の臓器売買事件はすでに解決しているはずだ。
関わっていた人間は全員逮捕され、何らかの罰を受けている。
それは当日幼い子どもが混ざっていた悪魔の子たちも同様のはずだ。
(移植手術を受ける前の子どもたちが書類送検されることこそなかったが、悪魔の子になる予定だった子どもたちも含め、天門総合病院以外での医療行為は禁じられている)
臓器提供を待つ人々は常にリスト化されている。
金で臓器を購入する約束をしたままあの事件が明らかになったことにより、臓器提供を受けられなかった悪魔の子たちは、永遠に臓器提供を受けることなど叶わない。
本来の順番が来たとしても、別の優先度が低い臓器希望者へ譲るべきだと法律で定められたからだ。
大金で規律を乱し、周りの人間を押しのけ、死ぬ必要のない人間から臓器を奪おうとしたその罪は重い。
天門総合病院の院長により移植手術を受けた悪魔の子は、本来死ぬべきではなかった人間の命を背負っている。
悪魔の子としての称号を背負わされたせいで、大怪我をすれば助からない。
紗雪を含めた天門総合病院の院長から移植手術を受けられなかった子どもたちは、自らの死を待つことしかできないのだ。
悪魔の子は十分罰を受けた。
あの事件は終わっていないと助けを求められたとしても、氷室には関係ないことだ。
「さ、紗雪ちゃんから……昨日の夜、ちょっとだけお話を聞いたのですが……。かなりごたついているみたいで……。そ、その。医療従事者としては……」
「関係ないだろ」
「で、でも……っ。こ、このままじゃ、さ、紗雪ちゃんが可哀想です……!」
那須宮だってこの件には一切関係ないはずなのだが、紗雪の悲痛な叫びを聞き、すっかり感情移入をしてしまったようだ。
「一介の医者に、何ができる。俺は武術の心得がないただの医者だぞ」
「ぶ、武術がなくたって!氷室先生には、頭脳があります!院長の件だって……!たくさんの証拠を集めていたんですよね……!?」
「あの証拠を集めて精査したのは俺ではない」
「はえ……?」
「頼むなら、美月に頼むんだな」
正確に言うなら、美月と鈴瑚が正解だ。
天門総合病院の院長を逮捕まで導いたのは、氷室一人の力ではない。
美月、鈴瑚、藤井──誰か一人でも欠けていれば、氷室は病院の闇を白日の元に晒せなかった。
(美月と桔梗が手の届く所にいるのに、俺が身を粉にして助ける理由がどこにある)
紗雪は桔梗の友人だ。
助けを求める紗雪の手を突っぱねたと知れば、桔梗は氷室を嫌いになるかもしれない。
氷室は桔梗に嫌われたとしても、構わなかった。
(俺ではなく警察に助けを求めろよ)
警察に助けを求めた所で、紗雪の訴えが受け入れられることがないと知っているからこそ。
彼女は氷室に助けを求めているのだろうが……。
(犯人の声は証拠がある。顔は美月と天門紗雪しか知らない。この状況でどうやって俺にこいつらを助けろと言うんだ)
助けを求めるならば、最低限のお膳たては済ませて貰わなければ、手を差し伸べる気にもならない。
休憩室を後にした氷室は、なにか話をしたそうにちょくちょく顔を出す患者たちの治療や氷室をサポートする那須宮を、何食わぬ顔で無視し続けた。
午前の診療を終えた氷室を待ち構えていた那須宮は、意を決して声を掛けてくる。
「あ、あの!白雪せ……っ」
「そろそろ美月が来る頃だ。言いたいことがあるなら、美月に言え」
「で、でもっ。紗雪ちゃんは氷室先生に──」
「俺にできることは何もない」
「し、白雪先生にしかできないことです!」
那須宮は何度氷室が否定しても諦めなかった。
那須宮らしからぬ態度に、氷室は思わず目を見張る。
「……お前にとって、天門紗雪はどんな人間だ」
ただの同情だけでは、それほど親身にはなれないだろう。
問いかけた氷室へ、那須宮は口をまごつかせてボソボソと呟く。
「さ、紗雪ちゃんは……わ、わたしと、同じです……か、可哀想で……見ていられません……っ!」
那須宮はぽろぽろと涙を流し、わんわんと泣き始めた。
(いい年した大人が、どいつもこいつも……)
下手に慰めて好かれても困る氷室が棒立ちで泣く那須宮を見つめていたときのことだ。
背後から、耳元で聞き覚えのある声に囁かれたのは。
「ふふ。氷室、桔梗ちゃんの次は深緑を泣かせたの?」
ボディガードとやらの姿は見えないが、裏口から堂々と診療所に侵入した部外者──美月を認識した氷室は、問いかけには答えず那須宮を泣き止ませるよう美月へ頼み、その場を後にした。




