「俺と浮気するか?」桔梗の欲しい言葉は
彼女は口を尖らせながら、この口上がファンから紡がれるようになった理由を氷室へ話し始める。
「きーちゃんに、アイドルとは何たるかを熱弁しすぎたの。アイドルたるもの、どんなに嫌なことがあったとしても常に笑顔でいるべし。最年少を売りにしていくなら、愛嬌はあった方がいい──」
桔梗の代わりを務めた吉更は、握手会などの接近イベントで「天使スマイル」を炸裂させた。
ファンに向けて天使スマイルを炸裂させた吉更扮する桔梗の姿を間近で見たファンたちは、桔梗をもっと好きになり、神対応と大騒ぎ。
そうして桔梗は、天使とファンから呼ばれるようになったらしい。
「きーちゃんはいつもそう。笑顔でいればみんなから天使だと喜ばれる。私が笑うと、悪魔の子として嫌がられるのに」
吉更が笑えば桔梗も笑う。
吉更は天使と褒め称えられるのに、桔梗は悪魔呼ばわり。
桔梗が嫌な思いをすると気づいた吉更は、いつしか桔梗の前では笑顔を見せなくなった。
「氷室先生はきーちゃんを天使であると褒め称えたり、私を悪魔であるとは言わなかった」
「天使だの悪魔だの……それほど重要なことか。お前らは人間だろ」
「そう。私達は人間。悪魔でなければ天使でもない。あの人たちは社会の常識とは異なる常識を持っていた。私を悪魔だと呼んで迫害する大人としか会ったことがなかったから……。焔華さんと氷室先生は、私にとってとても大事な人なの」
桔梗の大事な人に、美月が入っていないのが気がかりだ。
桔梗を悪魔と称することがなかった大人は氷室と焔華だけだと桔梗は告げたが、美月だって命の危機に晒された桔梗に手を差し伸べている。
美月は桔梗を、悪魔と称することはないはずなのに除外されているのはなぜか。
(こいつの中では、美月こそが俺を奪った悪魔なのか)
氷室は怖いもの見たさで桔梗へ問いかけてみたくなったが踏み留まる。
この場で桔梗へ問いかけようものなら、命を賭けてでも氷室を自らのものにしようと大騒ぎしかねないからだ。
氷室は桔梗の出方を、注意深く窺うことにした。
「アイドル時代は苦しかったな……。みんなが大好きなのはきーちゃんが演じた愛知桔梗。私は必要とされていない」
桔梗は「アイドルを卒業するまでは苦しかった」と、胸の内を吐露する。
アイドルを卒業してからは大人っぽい妖艶さを醸し出すようになった桔梗は、純粋無垢な天使から男を拐かす堕天使として評判は上々だ。
その評判は、桔梗が死にものぐるいで手に入れた称号だった。
「氷室先生が私を。側でずっと見守ってくれたとしたら……。どんな言葉を掛けてくれるのか、考えていたの」
桔梗は「答えが出なかった」と、寂しそうに微笑む。
氷室の気持ちは、氷室にしかわからないからだ。
それでも桔梗は、何度も。
声を掛けてほしい理想の言葉を想像し、自らを鼓舞してきた。
「私が世界で一番ほしい言葉。なにかわかる?」
桔梗は正解したら、「氷室への想いを断ち切る」と豪語してみせた。
氷室がたとえ正解の言葉を口にしたとしても、桔梗は氷室を諦めることなどないだろう。
桔梗にとって氷室の存在は生きる原動力だ。
今更簡単に断ち切れる思いであるならば、6年間も思い焦がれてなどいない。
「氷室先生は私のことが嫌いでしょう。早く思いを断ち切り、他の男へ目を向けてほしいなら──私が欲しい言葉を当てて」
桔梗が縁石の終点まで歩みを進めるまで、後5歩ほど。
終点に辿り着くまで、氷室には短い猶予が与えられた。
(シンキングタイム、か……)
桔梗の未来を左右する、重大な問いかけに氷室はごくりと生唾を飲み込みながら、足を動かす桔梗を見つめる。
──あと4歩。
好きや愛していると言った告白だろうか。
──あと3歩。
プロポーズしてほしいと。
彼女が考えているのならば、たとえその気がなくとも口にすることなどできないだろう。
──あと2歩。
言質を取られて身動きが取れなくなることは避けたい。
──あと1歩。
浮気を了承すればいいのだろうか?
そして、ついに桔梗が縁石の終点へと辿り着く。
「先生、答えをどうぞ」
氷室の発言権は一度だけだ。
桔梗の世界で一番欲しがっている言葉を口にすれば、二度と氷室の前に桔梗が現れることはない。
(俺が口にするのも憚れるようなことだろうな)
一か八か。
氷室は普段であれば絶対に口にしたくない言葉を、桔梗へ向けて呟いた。
「俺と、浮気するか」
「ふふ」
桔梗と目を合わせる為、縁石の上に立つ桔梗の方へ向いたのが悪かった。
くすりと妖艶な笑みを浮かべた桔梗に見下さた氷室が危険を察知し、後方へ一歩下がった時には取り返しのつかない出来事が起きていた。
「……っ!」
氷室の首元に括り付けられたネクタイを強引に引っ張った桔梗は、高い位置から身を屈ませ氷室を引き寄せると顔を近づける。
氷室は勢いよく締め付けられた首元に意識が集中し、桔梗を突き飛ばそうとした瞬間我に返った。
(くそ。やめろ。こいつを突き飛ばせば、頭を打って死ぬ可能性だってあるんだぞ)
縁石から桔梗を突き飛ばせば、彼女は背中からテトラポッドに勢いよく頭をぶつけ命を落とす危険性があった。
桔梗が何をしようとしているかなど容易に想像のついた氷室は、人殺しになるくらいだったらと彼女からの行為を無言で受け入れる。
「残念。不正解よ。名前を呼んでくれたら、正解だったのに」
氷室と桔梗の唇は、10秒ほど触れ合った後に離された。
ネクタイを器用に解き、腕に巻き付けた桔梗は縁石から勢いよく飛び降りると、氷室の首筋に飛びつく。
「絞め殺す気か!」
「きゃー。氷室先生が怒った」
「当たり前だろ。お前、俺が突き飛ばしたら死ぬ所だったんだぞ!」
「ふふ。やっぱり先生は、普段は冷静沈着なふりをしているだけの熱血漢ね。熱い男は好きよ」
「お前な……!」
何が熱血漢だ。
氷室が声を荒らげると、桔梗は唇に人差し指を当てた。
週刊誌の記者は明日まで目撃情報を聞きつけて沖縄に駆けつけてくることはないが、近隣住民のタレコミにより、桔梗の芸能人としての輝かしい道が絶たれてしまう可能性だってないわけではないのだ。
大人気なく声を荒らげたが氷室がバツの悪そうな顔をして押し黙れば、桔梗は満足そうに氷室の腕の中で微笑んだ。
「ふふ。氷室先生、帰ろう?私、お腹すいた」
まだ話は終わっていないのだが。
氷室は愛の巣に帰ろうと言いたそうにしているご機嫌な桔梗にベッタリと密着されたまま、時折すれ違う車から桔梗の姿が確認できないようにすっぽりとコートで覆い隠してやると、仕方なく桔梗を腕に抱いたまま帰路についた。




