第三十三話 卓越者の世界
手近な岩に腰を掛け、アイラはジークの用意した朝食を食べていた。
口いっぱいに広がる魚の甘みと、油分をたっぷり含んだ調味料が出すほのかな酸味に舌を鳴らす。一緒に挟んである葉物野菜と細切れにされた生タマネギが脂っぽさを中和しており、非常に食べやすい。
表面を軽くトーストされたパンが発する香ばしい匂いも加わって、バケットに伸びる手は一向に止まらない。
チビチビと大事そうにサンドウィッチを頬張る様子に、見兼ねたように少女が、いや。極小少女が問う。
「のうアイラよ。食に現を抜かして良いのか? お主はあやつらのようになりたいのだろう?」
極小少女、もとい手乗りサイズに身体を縮小させたイーレが問う。
「ンムッ……ふう。いやだって、あれを見たって全然分からないんだもん」
口に詰めたものを飲み込みながら、アイラは先ほどから登り続ける砂塵を半眼で見やる。
ジークとノーグが闘いを始めてから数分が経過した。初めの方は嬉々として観戦をしていたアイラだったが、今となってはご覧の通り。完全に彼らの殴り合いに興味を失っている。
理由は単純にして、故にどうにも出来ない事象だった。そう、アイラの動体視力では彼らの動作に全く付いていけなかったのである。
アイラの視界に映るのは時折砂を巻き上げて起こる爆発と、たまに地に伏しては立ち上がるノーグの爛漫に輝く相貌だけ。
そこだけ切り取れば劇的なのだが、それが既に数分間永遠と繰り返されている。なにが起こっているかもよく分からない光景を見続けていられるほど、アイラはまだ強くなることに執着がなかったのだ。
余りにも力の差が在りすぎて、意識と一緒に現実感まで他所へやったという方が正しいかもしれない。
「それより今はこっち。なんかこれ、ちょっと変なんだよね。いや、いつも通りすっごく美味しいんだけどさ。イーレも食べてみてよ」
自らの肩に乗る妹に、アイラはサンドウィッチを千切って渡した。
先ほどからせっせと食べているアイラだが、それは先日とは違う理由、その味に少なからぬ違和感を覚えていたからだ。
現在ジークの料理はアイラの味覚に合わせて作られている。これは彼女がいちいち文句を付けたわけではなく、ジークが食べる順番や頬張る表情を見極めて調整したものだ。
しかしこのサンドウィッチからはそれをあまり感じなかった。
美味しいのは間違いない。それでも、これではないという感覚。
(まるで私じゃない、他の誰かのために作られてるような……)
「ふむ……吾輩はなにも可笑しなものは感じぬが……というかこれ、もの凄く旨いな! アイラ、もう一切れくれ!」
「はいはい。あんまり食べ過ぎないでよ?」
苦笑気味に返しながら、アイラは先より少し大きくサンドウィッチを千切り、イーレの元へと運ぶ。それを両手いっぱいに抱えながら、偉大なる大精霊様は満面の笑みでそれを頬張った。
「くうぅううう! 少し、いやかなり癪だが、小僧の作る飯は旨いな! よし、アイラよ。昼餉の礼に良いものを見せてやろう」
言うが早いか、イーレは魔力を起こして魔法を行使した。
途端にアイラの身体に黄緑の輝きが宿り、やがてその光源は疑問に揺れる彼女の双眸へと収束する。
「えっ……ええ!? なにこれ凄い!!」
我が身に起きた異変に気付くと同時に、アイラは我を忘れて立ち上がった。反動で零れ落ちそうになるサンドウィッチをイーレがなんとか拾い上げる。
「魔力を通して視力を強化してやったのだ。これは高度な技術が求められるものだが、行く行くは其方も自分で出来るようになる筈だ」
それは上級記録者の間で良く好まれる、『身体強化』と呼ばれる高等技術だった。魔力はただ魔法を発動するだけではなく、自らの身体機能の強化に充てることが出来る。
ただしこれらは自らの魔力の流れ、その制御、そして開放を動きながら、それを永続的に発動させなくてはならない。難度の割に高等と扱われる理由はこの辺りにあった。
そんな高等な技を息をするように扱うこのイーレだが。見てくれこそ愛らしいものの、やはりどんな姿でも彼女は風の大精霊、シルフィードなのだ。
それがこのような愛らしい姿に成った理由。それは至って単純な理由からだ。
幾らアイラが大切だからと言って、それで村人全員を捨ててアイラと旅に出掛けられる程、イーレも薄情者ではない。現在の彼女は村人たちの元に力の大半を使っており、そこから余った魔力を利用してアイラの旅に同行している、というわけだ。
それに当たって衣装もそれとなく変わっている。真っ白なワンピースに背中から生える小さな羽。それはまるでおとぎ話に登場する妖精のようで、彼女が如何にこの旅を楽しんでいるかがそこにありありと現れていた。
余談はさておき。力を分散させているが故に、彼女が行使出来る力は精々強風を幾度か発生させられる程度だった。しかしそんなイーレの微量な魔力でも、視力に限定して強化を施すのは容易なことだった。
この消費量の少なさも、『身体強化』が多くの上級記録者に好まれる理由の一つである。
「うわあ凄い! 凄い……けど……」
(見なかった方がマシだったかも……)
その言葉をグッと堪え、アイラは砂塵の中に半ば無理やり意識を向けた。
そこに映るのは戦闘等ではなかった。これを形容するならそう、これは一方的な試合だった。
風を切るノーグの拳を左手で払い潜り抜け、すかさずジークが半身で踏み込んで彼女のつま先を踵で踏み砕く。
前進の勢いを存分に乗せた肘鉄が、ノーグの鳩尾を深々と抉った。
苦悶の顔を浮かべるノーグの身体がくの字に折れ曲がった瞬間を見逃さず、ジークは打ち出した肘を支点に拳を跳ね上げ鼻頭を殴打。
たまらず仰け反るノーグの頭を抱えるように両手で抑え、同じく顔面へ膝蹴りを見舞う。
それで終わりかと思いきや、ジークはトドメに両拳を合わせてノーグの後頭部に叩き落した。
再び爆発地味た轟音と共に砂塵が舞い、ノーグは若干陥没した地面にその肢体をめり込ませていた。
と、このように。ノーグが打ち出す大振りの拳は全て空を切り、それによって生じた隙を逃さず、ジークが容赦のない流れるような連撃を繰り出している。
いやはや。幾ら彼が怒っていたとしても、これは些かやり過ぎではないだろうか。仮にも相手は女の子。それをここまで執拗に攻め立てるのは、流石のアイラも引き気味だった。
しかしそれでもアイラが止めに入らないのは、やはり闘いを挑んだノーグにあった。
「くあぁああ! 今のは効いたぜマスター! っしゃ、ほんならもういっちょ……行くぜッ!」
先の連撃で再起不能になったかと思いきや、なんとノーグは初めの頃と変わらず意気揚々と構えを取っていた。
そして再びジークに殴り掛かるも、敢え無く買えりうちに合い轟沈。かと思いきやまたもひょっこり立ち上がり、意気揚々とジークに挑みかかる。
見えて初めて分かったが、先からこれを永遠と繰り返していたのだ。
確かにノーグの怪力は目を見張るものがあるが、そのどれもが見易い大振りのモノ。そんな隙を逃すはずもなく、一刻も早く眠りに就きたいジークは一回の攻防で必殺の連撃を見舞っている。
その度ノーグはボコボコに攻撃を受けて地に沈んでいるのだが……一体どんなタフネスをしているのか、彼女には一向にダメージを負った気配がない。
それは彼女が実態を持たない精霊だからと結論付けるには、アイラは経験を積み過ぎていた。
アイラがイグニスと戦った時、そこには確かに"感触"があった。迫る炎爪も、切り付けた肉も、確かにアイラの両腕に抵抗感を残していた。
故にこれはただ単純に、ノーグがめちゃくちゃ堅いという結論になる。その答えに行き着いた時、アイラは自然と先の右手の感触を思い出していた。
握手を交わした時のあの岩を掴んだような硬質な感覚。
それは正しく、強靭に鍛えられた"筋肉の鎧"だった。
「なあノーグ。いい加減負けを認めたらどうだ。このまま続けてもお前が痛いだけだろ」
「ハッ! まだまだ、こんなんじゃワシは満足せんぞ。ようやく滾ってきたんじゃ、もう少し相手をせい」
アイラが視認できるようになってから、これで六回目の仕切り直し。
欠伸交じりのジークは、この攻防にもう楽しみを見出せなくなっているようだ。しかし、一度条件を飲んだらそれを中断できないのが、ジークの変に真面目な部分だった。
地に伏す度闘気を増すノーグに構えを取って、この間で初めてジークから攻撃を仕掛けた。
踏み出した地面を抉りながらノーグへ向かって猛進し、それに触発されたようにノーグも地を蹴る。
拳を振り翳した両者が次にどのような攻防を繰り広げるのか、アイラがそう身構えた直後。唐突に二人ともが同時に攻撃の手を止めた。
「なあマスター。あれ、ワシが取っても良いか?」
「ダメに決まってんだろ。あれはどう見たって俺宛だろうが」
これまでと全く関係のない会話が繰り広げられ、アイラは何事かと首を傾げる。すると、先程まで残りのサンドウィッチを夢中で食べていたイーレがアイラの目の前へ飛び上がり、やや誇張した声音で発言する。
「座れ、アイラ。そして両耳を塞げ。巻き込まれるぞ」
呆れ交じりのその声はかなり緊張感に乏しかったが、アイラはそれを即座に忠告であると読み取った。
訓練された動きで両耳を塞ぎ、アイラは即座にその場にしゃがみ込んだ。
そして避難が完了したのを見計らったかのように、棒立ちするジークとノーグの下に黄金に輝く一条の光が降り下りた。
「……ッ!?」
咄嗟に両腕で顔を守ったのは、これまでそれなりに死線を潜った故の判断だったのかもしれない。礫のように全身を殴り付ける砂の雨と、鼓膜が吹き飛ぶような轟音を聞き、アイラは競り上がる悲鳴を飲み下す。
そうしてやっと、アイラはそれを何者かによる攻撃であると理解した。
「ノーグ! ジーク──ッ!!」
突如戦場と化した平原に、少女の悲痛な叫びが木霊した。




