第二十五話 そして願いは蹂躙される
施設を飛び出した後、少年の暮らしは過酷を極めた。
そもそも彼に常識なんてものはなく、己が何を食べて生きていけばいいのかも碌に知らなかったのだ。
少年は棲み処を求め、色々な場所へ旅をした。
森や海、街や村も幾つも回った。
しかし彼に手を差し伸べる者は誰一人として居なかった。
むしろその逆で、少年は力が無いことを理由に散々毟り取られていた。
力を使えば報復も出来ただろう。
奪われることもなかっただろう。
だが少年には、最早人を傷つけるだけの気力はなかった。
あれだけのことをして、更に他人を傷つける勇気なぞ、当時の彼にはなかったのだ。
故に少年は己の見た目を偽った。
魔法を使って如何にも屈強な兵士に見立てた。
声だって、擦り切れた声帯から発せられるしゃがれ声が功を奏し、少し低く発音するだけで凄みが出るようになっていた。
しかしそうしたからと言って、彼が身を置く環境が劇的に変わる筈もない。
失われる物こそ減ったが、同時に得られる物も限られるようになったからだ。
そうして食料も底を突き、いよいよ行き倒れるであろうというその時。
──少年は"彼女"に出会ったのだ。
♢
「ふう、なんでもやってみるモンだな」
燃え盛る劫火の中、その男は悠然と佇んでいた。
力なく伏せた姿勢のまま、少年は驚愕に両目を見開く。
あの男は確かに今、イグニスの最大火力を以て焼き焦がした筈だ。
死んだ筈だ。
死ななければならない筈だ──ッ!!
「サラ、調子はどうだ?」
再び一人ぼそぼそと呟く記録者の男。
その前身は先とは比にならない程に朱く、紅く燃え盛っていた。その身には焦げ跡一つすら無く、無造作に立つその姿は魔法の直撃を受ける前より明らかに気迫が増していた。
吹き荒れ、轟々と揺蕩う炎尾はやがて、とある生物の形を帯び始める。
(……あれは、龍? 龍の……翼?)
男の魔力が一気に膨張した。
その魔力を感じた瞬間、少年はあの男が今の一瞬で何を行ったのかを全て理解した。
理解してしまった。
男は吸収したのだ。あろうことか、イグニスの最大火力の魔法の全てを喰らい、己の力へと変換したのだ。
魔法を喰らう能力。龍種を思わせる青年の造形。それらは混乱に飲まれる少年の記憶を掘り起こす。
龍は数種類存在すると言われているが、その中で最も有名で危険と恐れられていた種が在った。
その名を『祖龍』と言い、別名『精霊殺し』と呼ばれている幻想の種だった。
その能力は、外敵の魔力の一切を喰らい、己の力として変換するという人間にとっても、精霊にとっても天敵と言える龍種だった。
特に精霊は魔力の塊だ。
祖龍は創世の時代、その主食を精霊で賄っていたという言い伝えがある。そこから取られた忌み名が『精霊殺し』と言うわけだ。
だがそれは、大昔に討伐された筈だ。何故なら、それは口に出すのも悍ましいあの英雄の伝記で最も有名な逸話だったから。
だから、そんな出鱈目な存在が在っていい筈がない。
だが幾ら目を凝らしてみても、男が今取った行動はその性質に酷似している。
「んなこと……どうでもいいんだよ……ッ!!」
今目の前に、その絶望は悠々と立っているのだ。
その現実から目を背けては、残る道が己の死以外なくなってしまう。
少年は今回の目標を復讐の達成から生き永らえることに設定し直し、今出来る全ての術を使って記録者の観察を始めた。
背部から伸びる強大な二枚の翼。臀部から伸びる長大な尾。腕部から伸びる鋭利な双爪。
炎が模すのは正しく幻想の種、その頂点に君臨する龍の姿に他ならない。
信じられなかった。
龍はそもそも数が少ないく、現代に至ってはその姿が目撃されることすら極々稀な生物だ。
それが、その力が人間に宿るだって?
しかし動揺する裏で、少年は一つの事実を想起させていた。
それはある噂。まるでお伽噺のような、とある記録者の存在だった。
今から約八年前に突如として現れたその記録者は、C級の身でありながら幾体もの幻想の種、悪性精霊を打倒したと言う。
その特徴は踝まで伸びる白髪と、双肩から伸びる龍の翼。
巷ではその記録者は、『龍翼の記録者』と呼ばれていた。
「ふざけんな……ふざけんなふざけんなふざけんなァ──!!」
少年の復讐劇は始まったばかりだった。
何年も何年も何年も耐え忍び、そうして築き上げた苦肉の策だ。
土台は完璧だった。
あと一歩、あと一歩で彼の復讐劇は完遂されたのだ。
血を流し、泥を啜り、そうやって生き永らえた末に得た最高の好機が今この瞬間だったのだ。
それをそれをたった一人の、それも誰とも知れない者の手によって、すべてが無に来そうとしている。
許されない、許してはならない。
少年は心の内で、有りっ丈の思いで呪詛を唱えた。しかしどれだけ心が猛ろうとも、その身体は微塵も動く気配を見せない。
記録者の圧倒的な魔力量、そして殺気に、生物的に己が死を悟った少年の五体は完全にその制御を放棄していた。
涙でぼやける視界で、辛うじて奮戦するイグニスを捉える。その劣勢さは見るに明らかで、眼前に広がるの光景は最早蹂躙劇にすら等しかった。
男が蹴り上げればその巨体は高く舞い、男が殴り付ければその業火は地へ沈んだ。イグニスも奮戦するが、その攻撃の悉くを吸い取られ、男の力へと変換される。
今すぐ助けに飛び込みたかった。少年にとってイグニスは、何年もの間苦楽を共にした盟友だったから。
(動け……動けよォ──ッ!!)
必死に己が四肢を鼓舞した。
奥歯が砕ける程に苦渋を噛み締めた。
しかし、身体は動かない。
『キュウ──ァァァアアアアア!!』
暗闇を劈く悲鳴が轟いた。
なけなしの力で面を上げる。そうして少年が捉えたのは、男の右腕が巨孤の胸を引き裂いたその事後だった。
大きく開いたその胸からは大量の炎、霊力が零れる。
疲弊したイグニスに、もうそれを再生するだけの力は残されていない。つまりそれはイグニスの敗北を決定付ける一撃であり、それは宿主である少年自身が一番よく理解していた。
だから叫んだ。
だから吠えた。
だから哭いた。
「記録者ァァァああああ──ッ! 殺す……殺す殺す殺す殺す……殺してやる──ッ!!」
慟哭が木霊する。
しかし記録者の男はその声に一切の耳も貸さず、力なく横たわるイグニスに執拗に追い打ちを仕掛けている。イグニスの巨体がボロ雑巾のように宙を舞い、その導線にはまるで鮮血のように火の粉が尾を引いて流れ出ていた。
「中々しぶとい……が、次で最後だ」
地に伏す巨体に無造作に乗り、記録者は空高く右手を掲げた。
その動作に導かれるようにして男の五体から炎が収束し、その手の内が一際強く輝く。
現れたのは劫火の剣。
赤黒く輝くその刀身は、その高熱故に辺り一帯から水分という水分を奪う。
こんなに離れているのに喉が焼ける。
こんなに離れているのに瞳が窪む。
流れ落ちる涙でさえ、瞳から零れた直後には大気に霧散していた。
男の言葉通り、あれは万物を屠る必殺の一撃だ。
恐らく同じ炎の属性を持つイグニスでさえ、あれに触れれば触れた場所から崩壊を始めるだろう。
「それなりに楽しかったぜ。じゃあな、イグニス」
「────ッ!!」
少年の力は余りにも無力で、余りにも非力だった。
やめろと叫んだつもりだった。
だが、干上がった喉からは擦れた声にもならない音が漏れるだけだ。
せめてもの抵抗にと、地を這い、遣る瀬無さにキツく握り拳を固める。
熱気に霞む視界の奥で、高く掲げられたその剣は一切の静止もなくイグニスに振り下ろされ──
「ぐっ……なんだ……?」
男の驚愕を示す疑問の声と共に、火の粉となって霧散した。




