第二十四話 アイラ・テンペスト
『眩さに視界が霞む。瞳に刺さる痛みを堪えて、私は薄く瞼を開けた。
気付けば私は、見渡す限り真っ白の世界に立っていた。
「ここは……夢の中?」
忘却していたその全てを思い出し、とうとう目が覚める。あのままウル達の元へと戻るのだと思っていたのだが……辺りの景色は夜闇の森とは程遠い。
「振り向かなくていいって言ったのに」
突然背後から拗ねたような声音がした。飛び上がるように振り返ると、あの時の少女がどこか怒ったような面持ちで立っていた。
──その懐かしい顔を見て、私はようやく彼女が何者たるかを理解した。
「……ごめんね。でも、やらなくちゃって思ったの」
「分かってるよ。だって、あなたは私なんだから」
やれやれと首を左右に振り、少女は……幼い私は呆れたように微笑んだ。
一昨日見たあの夢で、己の内に眠る少女は言った。
もう振り向く必要はないのだと。
再び笑えるようになったのだから、もうわたしのことを思い出さなくてよいのだと。
もう、前のように消えたりはしない。
だって今の私は、彼女を覚えているのだから。
「ずっとここを守ってきたけれど、あなたにはもう必要ないんだね」
彼女は、私の記憶だ。
私が忌み嫌い、追い出した記憶の一部だ。
私が……弱い私が置いてけぼりにした、私の心なんだ。
「思い出してどうするの? ここには、辛い思い出しかないのに」
幼い手を胸に当て、少女は皮肉めいた声音で言った。
「それでも、あなたは私の記憶なんだ。一番克服しなきゃいけない記憶で、私にとって一番大切な記憶なんだ」
「それで? 私を思い出したって、彼女に力を貰ったって、私はきっとまた繰り返すよ?」
少女は踊るようにくるりと回って言葉を続けた。
酷く歪んだ笑顔を、幼い容姿に浮かべながら。
「イーレが死んだのは、彼女の実力不足のせい。私たちが魔物に襲われたのは、壊れやすい場所に魔晶石を置いた大人たちのせい。そもそも、子供がそんなに危険な場所で遊ぶことを容認していた村長に非がある。そんな醜い言い訳ばかりして、結局肝心なところはぜーんぶ他人のせい」
迫り上がる言葉が、喉につかえて滑り落ちる。
心臓も、まるで壊れたように煩く跳ねる。
分かっていたつもりだった。
割り切っていたつもりだった。
だから、大丈夫だと思い込んでいた。
畳み掛ける少女の言葉が、鋭利な刃物となって立ち尽くす私の胸を深く抉っていく。
「私はなにも変わってないよ。あの時から、綺麗さっぱり忘れた今だって、あなたは、私は一度も自分の弱さを認めなかった……! 分かってない。分かってないよ! 自分を誤魔化して、偽って、嘯いて……ただの一度も自分を責めたことなんかないじゃない……!」
言葉の端々に熱が籠っていく。
言うまでもなく、これは私自身がずっと心の奥底で叫んでいた言葉だ。
幼いころから押さえつけ、ため込んだ鬱憤の濁流だ。
幼い面には深い、深い憎悪が張り付いている。
その矛先は他の誰でもない、私自身へと向けられているものだった。』
♢
「これは吾輩の予想だが、アイラは確かに己の過去を受け入れた。しかし、受け入れたのは"現在のアイラ"なのだ」
ゆっくりとした口調から、少しずつ言葉が繋がっていく。
イーレは指で砂に線を描きながら、己の考察を語る。
「恐らくアイラの中には、二人のアイラが存在している。一人は我々の知る、"現在のアイラ"。そしてもう一人が──"過去のアイラ"だ」
砂上に大きく円が描かれる。そしてその中央に、イーレの掌ほどの大きさの小さな円が描かれた。
「吾輩たちが魔法で閉じ込めた、幼いアイラ。それが自意識を獲得したのだ」
そんなことは有り得ないと、ウルは開きかけた口を噤む。
その証言を決定付ける証拠が、まさに目の前にあったのだから。
「そうだ、これは"精霊"だ。人間の深層意識が作り出した幻創の種。人間個人では吾輩達ほどの力は持たぬだろう。だが、個人が生み出した個人の精神世界の中であれば……充分に考えられることだ」
似たような現象で空想の友人というものがある。自問自答の具現化であり、それはその本人の中にのみ存在する架空の人物だと言われている。
弱った心を守るために生み出した別人格とも言えよう。
その人格が、大量に流し込まれた魔力に呼応して一つの個を確立したのだと、イーレは語る。
「若いの。其方も己をウンディーネではなく"ウル"と呼ぶのなら、身に覚えがあるのではないか?」
覚えがある、なんてものではない。
ウルがその時の出来事を忘れたことは、彼女が生まれた千年と少しの間でただの一度もなかった。
「原因ニツいては分カったワ。それで、アイラを助ケ出す方法はアるノ?」
「無い。先ほど試みたが、既にアイラへ干渉するための通路が全て閉じられていた。我輩が追い出される前であれば、なにか出来たやも知れぬが……」
俯いて被りを振る悲痛な姿。
ウルの記憶域の片隅で、それが懐古の友と重なった。
彼女らには守れる力があった。
守れる術があった。
それでも、守れなかったのだ。
それは彼女らの実力不足故の悲劇ではないとしても、対抗出来る力があるというだけで、後悔は深く募っていく。
そして、ウルとてその例外ではなかった。
「手を、握ッテあげて。大丈夫、アイラはトテモ強い子だモの。彼女ノ力で、絶対に帰ってコラれる」
「其方、なにを根拠にそのようなことを言うのだ」
投げ出されているアイラの手を、ウルは掬い上げるように手に取った。柔らかく握ったその冷えた細い手は、微細に脈打ち生命の鼓動を訴えている。
「アナタはドウして、アイラの前ニ姿を現しタノ?」
小さな肩が、微かに揺れた。
「アイラのトラウマと酷似した……いや、それ以上の過酷。封印の魔法が解けてもおかしくはなかった。故に吾輩は……」
「ソレなら、わザわザ実体化スル必要がない。違うワ。アナタは、アイラに会いたかったのヨ」
黄金の瞳が一際大きく見開かれた。
瞳から、大粒の雫がこぼれる。
「アイラは今、アナタを思い出すために戦ってる。それをアナタが信じないで、誰がアイラを信じてあげるの?」
ウルは静かに語る。
普段の溌溂としたものとは違う、諭すような、宥めるような、静かな口調。
その笑顔は絶えず、広大な湖の如くイーレの逆立つ心を静めていく。
「其方は、本当に水のような精霊だな」
ウルに習うように、イーレがもう片方の腕を取る。
「負けるでないぞ、アイラ」
その声に応えるように、アイラの冷えた掌が二人の掌を握り返した。
♢
『「一歩も……一歩も動けなかったんだ! 妹が勇敢に魔物の群れに飛び出して行った時も、村が怪物に襲われている時も、自分自身が殺されかけた時だって……私は最後にはいつも、指の一本だって動かせなかった! 呆けて見ているだけだった──っ!!」
擦れた怒声が、言葉を重ねるにつれて、強く、強く熱を帯びていく。
苦い記憶が幾つも脳裏に蘇える。
いつだってそうだ。幾ら果敢な台詞を並べ立てても、結局最後は他人頼みで、誰かが助けてくれるのを待っている。
臆病で、貧弱で、そのくせ傲慢で、他人に迷惑をかけてばっかりな木偶の棒。
それが私だった。
それがアイラ・テンペストという人間の本質だった。
「知ってる……知ってるよ。でも──」
それは自分でも驚くほどに、酷く落ち着いた声だった。
眼前の少女が我に返ったように俯いていた顔を上げた。
潤んだ瞳に映った私は、一体どんな顔をしているのだろう。
幼い私が脅えるように一歩後退った。
それほど恐ろしい形相だったのだろうか?
いや、違う。きっと、きっと私は……今。
「──それって、逃げる理由になる?」
いつかの誰かのように、不敵に胸を張って、笑ってるんだ。
「周りを見てみなよ。ジークに、ウルに、サラ……それとノーグさんだっけ。酷く弱ってるけど、イーレも何か作戦があるみたいだし。今の私は、あの頃とは違う。今の私には、こんなにも頼れる仲間がいる!」
「なにそれ……結局他人任せじゃない! 自分じゃ何もできないくせに、なにを偉そうに笑ってるの!?」
苛立ちの炎を瞳に湛え、硬直を抜け出した幼い私は再び私へと詰め寄った。
だから私も、負けじと彼女へ一歩踏み出した。
「そうだよ? だって私はまだ弱いんだから。強い人に頼らなきゃ、あんな化物に敵うわけないじゃん」
煽るような私の口調に、幼い私はとうとう我慢の限界を迎えた。
力の籠った歩調でズカズカと歩く。
未だ飄々と構える、私の直ぐ傍まで。
「いい加減にしてよ! そうやってヘラヘラしたって、そんなの強がりでしかない! 本当は今にも逃げ出したいほど怖がってるくせに!」
私を見上げる幼い私の身体は、怒りのあまり小刻みに震えていた。
「そんなの、当たり前じゃん。アレが怖くないっていう方がおかしいよ」
そんな少女の小さく震える方にそっと手を置いた。
ビクリと跳ねる双肩を優しく撫でると、少女の震えもそれになぞるように収まった。
何故ならその手を握った私の手のひらもまた、同じように震えていたから。
「私ってさ、聞けば聞く程どうしようもない大馬鹿だよね。出来もしないことを息巻いたり、やりたくもないことを言い訳に使ったりしてさ……」
私はジークに訓練を申し出たときに、皆を殺したあの化け物に復讐がしたいと言った。
だが、実際はどうだ。
魔物を一匹殺しただけで、私の足は竦み上がってしまったではないか。
ジークは言った。
私に、人が斬れるのかと。
そんなのは無理に決まっている。
あの黒服の男と対峙した時だって、私には戦うという選択肢はなかった。
どうやって逃げるか、どうやって身を守るかばかりを考えていた。
「今だって、あの炎の中に飛び込むのかと思ったらすごく怖い。でも、やっぱりそれじゃあ逃げる理由にはならないんだ……なってくれないんだよ」
私は少女をゆっくりと抱き締めた。
短く揃った震える桃髪を、宥めるように撫でていく。
「私はあの人を殺したいわけじゃない。あの魔物……精霊を殺したいわけじゃない。本当は戦いたくもないんだよ」
抱き締める両手に少しずつ力が籠もっていく。
「だけど……だからってあいつらを見過ごすことは、絶対に出来ない。私は殺すためじゃない──止めるために、戦うんだ」
勝てる保障はどこにもない。生き残ることを考えれば、ジークの言う通り逃げてしまえばいい。
でも。ここでまた逃げてしまったら、きっと私は一生変われない。例えおめおめ生き残ったとしても、きっとその先でまた同じことを繰り返してしまう。
だから、もう終わりにするんだ。
逃げてばかりで、言い訳ばかりの弱い私を……変えなきゃいけないんだ。
「さあ。早く私をここから出して! そもそも、私が起きないままだったらウルがジークのところに帰れないでしょ! あなたは……私は! また自分の弱さで大切な誰かを殺したいの……!?」
力なくうなだれる小さな肩が、一際大きく跳ねた。
幼い両手が恐る恐る私の背中に回り、キツく私を抱き返す。やがて少女は少し背伸びをし、私の耳元にその薄い唇を宛がって──
「ヴァアアアアアアカァアアアアアアアア──ッ!!」
「ぎゃぁぁあああああああああ!?」
驚きと痛みのあまり、私は少女を思いっきり突き飛ばしてしまった。
尻餅をついたまま数歩後ずさり、私は未だ痺れる右耳を両手で覆って少女に叫び返した。
「なっ……なに考えてるの!?」
吹き飛ばされた幼い私は、四肢を地面に投げ出してクツクツと笑っている。どうやら私の狼狽っぷりが彼女のツボに嵌ったのだろう。少女に小さく起こった笑いの波は次第に大きくなっていき、仕舞いには身体を"く"の字に曲げて笑い転げている。
暫く待ってようやく笑いが収まったのか、少女はゆるりと立ち上がり、溌剌とした足取りでこちらへ歩いてくる。てっぺんで愉快そうに揺れる小さなお下げの真ん中で、初めとは違う明朗な顔つきが覗いていた。
「なにが止めるために戦うよ。やっぱり、全然分かってないじゃない」
腰に手を当てて踏ん反り返り、少女はあの"不敵な笑い"を浮かべる。
「大した力もないくせに偉そうなこと言っちゃって。じゃあ確認! 今、命を狙われているのは誰だっけ?」
問いの意味が分からなかった。
「私……?」
返した言葉はたった一言。
だが、短く返した答えに満足するように頷いて、少女は再び私へと歩み寄る。
「じゃあ、次! あなたが、『私』が憧れた生き方って、なんだっけ?」
「……っ!?」
思考がふっと軽くなる。まるで今まで頭に刺さっていた杭が、すっぽりと抜けたように。
脳裏に響くのは、ずっと忘れていた幼い頃の誓い。
私が、イーレが、あれ程懸命に記録者を目指し訓練に励んだのは──
「物語に登場するような、英雄になりたいから──でしょ?」
それは、私がずっと考えないようにしていた、私の夢だった。
私の表情を受け、幼い私は安心したように笑った。
とうとう少女は私の膝元まで距離を詰め、ゆっくりと屈んで、尻餅をついたままのアイラに目線を合わせる。
幼い面に年相応の無邪気な笑顔を浮かべながら、"私"は続けて問いかけた。
「生きるってどういうこと?」
「……本懐を、遂げること」
記憶が想起する。
思い出したのは大好きな物語の一節。
ずっと憧れていた、彼女の言葉。
「その本懐から目を背けて、背中を丸めて過ごすのは……生きているって言えるの?」
「それは……」
銀の剣閃が視界を過る。
それは、生きているとは言えなかった。
起こる事象から目を背け、のうのうと逃げ道を歩く。
そんなものは命の消費でしかない。
そうじゃない。
私はもっと、必死に足掻いて生きていたい。
──大好きな物語の、英雄たちのように。
「じゃあやることは簡単じゃない? 私は、私が殺されないために……私が生き残るために戦う。惨めでも、かっこ悪くても、まだ生きていたいから立ち上がる。でしょ?」
返す言葉は見つからず、変わりに瞼に熱い、熱いなにかが籠もっていく。
「大層な正義感を掲げる前に、まずは生き残ることを考える。そう教わらなかった? そう教わったから、私はあの狼に勝てたんじゃなかったの?」
巨剣狼と対峙したとき、確かに私は"相手を殺してやろう"とか、"相手を止めてやろう"などとは一度も考えなかった。
ただ生きていたくて、ただ死にたくないという思いで戦っていた。それが分かっていたのに、今更格好をつける自分が情けなかった。
私が自分で言っていたばかりではないか。
私はまだ弱いから、誰かの助けがなきゃ生きていくのも難しいのだ、と。
「……ありがとう」
ただ一言の、零れ落ちたようなお礼の言葉。
でも、それで充分だと思った。
──だから私は、もう一度立ち上がる。
「出口はあそこ。ほら、分かったならもう行かなきゃ。やりたいことが、やらなきゃいけないことがあるんでしょ?」
小さな指が私の後方を指して止まる。
つられて見やると、空間ごと円形に切り取られたような暗い穴が現れていた。私はその言葉に背中を押されるように、その穴へと歩みを進める。
近くで見ると。それはただの闇ではなく、まるで大渦のように波打つ波紋が見て取れた。
ゴクリと生唾を飲み込み、私は思い切ってその渦へと背面から飛び込んだ。
ぬるりとした、まるで沼に沈んでいくような感触が身体を包み込む。
そしてまた、ここに落ちる時と同じような眠気が私を襲った。意識が、暗い渦へと沈んで行く。霞んでいく視界の奥で、小さな少女が愛らしく手を振っていた。
「皆によろしくね! 私は、結局最後まで……"ありがとう"も言えてなかったんだから──!」
「っ……!!」
彼女の言う皆が誰を指すのかは分からなかった。
だが、彼女の意図することは分かる。
私が全てを思い出すということは、必然的に彼女が消滅することを指しているのだと。
「……えっ? うわぁ──っ!?」
虚ろになって行く感覚を必死で繋ぎ止めて、私は少女の手を強く握って、自らの方へと思いっきり引っ張った。
「そういうことは……やっぱり自分で言わなきゃね!」
「ちょっ……なにしてるの!? 私を連れて行ったって外には……こら離せ! 離しなさ──」
慌てた悲鳴はプツリと途切れた。
恐らく顔から渦へと飛び込んでしまったのだろう。それと同時に、とうとう私の意識も虚ろになって行く。
引き込む渦の力が更に強まる。
抗えない程の倦怠感は飲み込むように全身を支配し始め、いよいよ身体の自由も効かなくなっていた。だから私は、幼手のひら掌を握る右手に一層の力を込めたのだ。
──今度は、絶対に離さないからね。
右手に握った仄かな温度が、そっとこちらを握り返す。
その感触に安堵するように、私はそっと瞳を閉じた。』




