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聖女の力を与えられた悪女は  作者: にゃみ3


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7/8

7 黒魔法


「旦那様、奥様。お医者様をお連れいたしました」


「入ってくれ」


 ルシアンの言葉と同時に扉が開かれ、そこから見慣れた顔のメイドと、何度か見かけたことのある公爵家の主治医が入ってきた。


 その後ろには、見慣れない若い青年が一人、静かに控えている。


 先ほどまでの出来事に、私の頭はまだ追いついていなかった。


 結婚式の日、儀式として口の端に軽く口づをされて以来。ルシアンに触れられたのは、これが初めてだった。


 あまりにも突然のことで、何が起こったのかさえ上手く理解できない。そんな私を一瞥したルシアンは、何事もなかったかのように主治医へ視線を向けた。


「彼女のことを頼む」


「かしこまりました、公爵様」


 主治医が慌てて頭を下げたのを確認する暇もなく、ルシアンは急いだ様子で部屋を出ていった。


「他の誰でもない、聖女様がお怪我をされたと聞いて驚きました」


「突然呼び出して悪いわね」


「とんでもない。いやはや、なんとも光栄なことです。まさか聖女様のお手当てをする日が来ようとは、夢にも思っておりませんでした」


 悪意があるのか、ないのか。


 一介の医師が治療するよりも、聖女の使う光魔法のほうが、よほど万能だもの。


 聖女の力を惜しみなく使うレティシアなら、きっとこの医師の手を煩わせることもなかったでしょうね。


 問題アリの私と違って。


「そう。ありがとう」


 胸の内に湧き上がった捻くれた考えを押し殺し、私は笑みを浮かべた。


「痛みはございますか?」


「見た目ほど痛くはないわ。少し、ひりひりするだけ……」


「さようですか。深い傷ではありませんので、きちんと処置すれば傷が残ることはないでしょう」


 そう言うと、主治医は持ってきた医療鞄を開き、慣れた手つきで処置を始めた。


 汚れを水で丁寧に洗い流し、消毒を済ませると、傷口を確かめながら包帯を巻いていく。


 長年、公爵家に仕えているだけあって、その腕は確かなものだった。


 最初こそ傷口に消毒液が染みて思わず眉を寄せたものの、手際よく処置が進むにつれて、刺すような痛みは次第に和らいでいった。


 けれど、痛みが引いても、先ほどから感じている不快感だけは消えない。


 身体の内側を何か得体の知れないものが這い回っているような、ぞわぞわとした感覚。まるで皮膚の下を無数の虫が這っているようで、じっとしていても気持ちが悪い。


 これが何なのか、自分でもよく分からなかった。


「それでは、私どもはこれで失礼いたします。痛み止めも置いておきますので、痛みがひどい場合は必ずお飲みください。また何かございましたら、いつでもお申し付けください」


「公爵夫人、少しよろしいでしょうか」


 主治医が医療道具を片付けながらそう告げたところで、突然背後から声がした。


 振り返れば、そこには一人の若い男が立っている。

 やけに目を引く銀色の髪に、何の感情も映していないような冷たい瞳。


 てっきり主治医の助手か何かだと思っていたけれど、処置をしている間も何をするでもなく、部屋の隅からじっとこちらを見つめていた男だ。


 先ほどから感じていた不信感が、再び胸の中で膨らんでいく。


「あなたは?」


「ノア・ランセルです。お初にお目にかかります、公爵夫人」


「……名前を聞いているわけじゃないんだけど?」


 思わず棘のある言い方になったが、目の前の男は気にした様子もなく、ただ淡々と私を見つめていた。


 私の苛立ちを察したのか、主治医が慌てたように説明を付け加える。


「彼は私の古くからの友人であり、魔塔出身の魔法使いです。聖女様がお怪我をされたと聞き、何か役に立つことがあるかと思って連れてきたのですが……幸い、軽いお怪我だったようで安心いたしました」


 主治医の古くからの友人だというのなら、それなりの年齢なのだろう。


 しかし、どう見ても私とそう変わらないほど若く見える。魔塔の魔法使いの中には長い年月を生きる者もいると聞いたことがあったけど、これほどだったとは。


「それで? 魔法使いが私に何の用なのかしら?」


 まだ警戒心を解くことはできず、私は少しばかり高圧的に問いかけた。


 すると、ノアは相変わらず何の表情も浮かべないまま、私の右腕へ視線を向ける。


「聖女様はすでにお気づきになられていると思っていたのですが……どうやら、無意識のものなのかと思いまして」


「あなたが何を言いたいのか、まるで理解できないのだけれど。もっと分かりやすく話せないわけ? 魔塔の人間は滅多に人と会わないから口下手だと聞いていたけれど、本当だったようね」


「そういう聖女様こそ、かなり気難しい方だという噂は本当だったのですね」


「なっ……!」


 あまりにも悪びれない返答に、思わず言葉を失う。

 初対面の相手に、よくもそんなことを平然と言えるものだ。


 今すぐ部屋から出ていけと怒鳴りつけようとした、その時だった。


「元からの性格なのか、それとも、それが原因となっているのか。そもそも、聖女に使われたという実例など私も初めて耳にしたというのに」


 ノアは顎に手を添え、私の言葉など気にも留めずに何やらぶつぶつと呟いている。


 何なのよ、この男は!


 胸の奥が怒りに湧き立つのを感じ、私は男を睨みつけた。しかし、そんな私の反応など気にも留めない様子で、彼は淡々と言葉を続ける。


「その腕にかけられた黒魔法についてです」


「……黒魔法?」


 彼の口から告げられた言葉に、頭の中が真っ白になった。

 先ほどまで胸の中を満たしていた怒りさえ、一瞬にして消えていく。


「はい。普通の人間であれば、黒魔法に侵されれば、やがて理性を失い、そのまま死へ向かっていたでしょう。聖女であったおかげで、命拾いしたと言ってもいいですね」


「どういうこと? 私に黒魔法がかけられているとでもいうの?」


「正確には、この腕を掠めた銃弾に黒魔法がかけられていたのでしょう。実際、聖女様の腕から確かに黒魔法の気配を感じます」


 ノアはそう言って、包帯の巻かれた私の右腕へ視線を向けた。


「私のような一介の魔法使いにも感じ取れるほどです。聖女様も、何か感じているのではありませんか?」


「……確かに、銃弾が腕に当たった時、痛みよりも全身を這うような何かに気分が悪くなったわ。でもまさか、あれが黒魔法だなんて」


 あの時に感じた、身体の内側を這い回るような不快感を思い出す。

 そして今も感じ続ける、謎の不快感。


「普通の人間であれば、その程度で済むことはまずありえないでしょう。ですが、あなたは聖女ですので。黒魔法に唯一対抗できるものは、この世でただ一つ。聖女が扱う光魔法だけです」


「……私が光魔法を使わないことを知っている魔法使いがいたとは、驚きだわ」


「当然、存じ上げております。ただ、聖女の力というものは、本人が意図せずとも勝手に発動することがあります。それは、あなたもよくご存じでしょう?」


「それなら、黒魔法に反応した私の身体が勝手に光魔法を発動させたというの?」


「おそらくは。傷が全快していないところを見る限り、完全に発動したとは考えにくいですが、死に至らない程度に微かな力が発動したのでしょう」


「そんなことが……」


「黒魔法には人間を死へ追い詰めるだけでなく、感情を過剰に昂らせる効果もあります。何か、普段と何か変化はありませんでしたか?」


 感情の起伏。

 私は無意識に唇に触れながら、先ほどの出来事を思い返した。


 もともと、私は自分の感情をそのまま相手にぶつけることが多い。夫として心を許しているルシアンの前では、特に。


 今日だって、彼が私を勝手に抱き上げたことや、怪我をしたことで大袈裟に心配することに苛立っていた。


 でも、さっきのは異常だった。

 まるで感情を覆っていた薄い膜を一気に破られたように、自分自身を制御できなかった。ほんの些細な苛立ちが、瞬く間に抑えきれないほどの怒りへ膨れ上がっていったのだ。


 もし、あれが残った黒魔法の影響だったというのなら納得がいくというもの。


 突然不安が押し寄せてくる。

 一体どこの誰がアルスハインの公爵に黒魔法を使おうとしたというのか。


 もし、当たっていたのが私でなければ、彼は……。


「それは傷が治れば、黒魔法も同時に消えるの?」


「いいえ。黒魔法は我々魔術師ですら禁じられている禁句の魔法です。黒魔法を打ち消すことができるのは光魔法のみ。この時代に黒魔法を使用するものが現れるなど、これは大きな問題となるでしょうね」


 不安を隠しきれずに尋ねた私に、ノアは落ち着いた口調で説明する。


「ですが、そう難しい話でもありません。あなたは、この世界に二人しかいない聖女でしょう? さっさと光魔法を全身に発動させれば、すぐに消え去るでしょう」


「お、おい、ノア! 聖女様は……」


 それまで驚いたように口を閉ざして話を聞いていた主治医が、慌てて止めに入る。


「はい? まさか、ご自身に黒魔法がかかっているというのに、それでも光魔法を使うのを拒まれるのですか?」


 あまりにも当然のことを尋ねるような口調に思わず眉をひそめる。

 先ほどまでなら腹立たしく感じていたこの男の無礼な物言いも、今はそれほど気にならなかった。


「あなたたち、もう下がっていいわ。それと、このことは夫には言わないで」


「ですが、奥様……」


「絶対にダメよ。ここにいる全員、このことを他言することは断固として禁じるわ。破った者は、何があってもこの私が許さない。もし他言すれば、神殿に命じてあなたたちを罰するわ」


 こんな時だけ神殿の名前を持ち出して脅す自分が嫌になる。

 それでも、そんなプライドすらへし折ってしまうほど、ルシアンにだけは知られたくなかった。


 彼に知られれば、何が何でも私に光魔法を使わせようとするだろう。


 もし私が拒めば、あのもう一人の聖女レティシアを連れてきて、無理やり治させようとするかもしれない。


 それだけは、絶対に避けたかった。


「死ぬことはないのでしょう?」


「ええ。聖女が死ぬのは、そう簡単ではありませんから」


「そう……だったらいいわ。あなたたちに命じられたのは、私の傷の手当てだけよ。他のことは考えなくていい。これは私の問題だから」


 腕を組み、できる限り冷たく言い放つと、メイドと主治医は深々と私に頭を下げた。


 一方、ノアと名乗った魔法使いは初めから「誰がそんな面倒なことを」とでも言いたげに、大きなあくびをしている。


 そんな彼らの反応を見て、ひとまず胸を撫で下ろす。

 しかし、安堵したのも束の間、今度は絶え間ない焦燥感と不安が波のように押し寄せてきた。


 ルシアンは、きっとアルセインの元へ戻ったのだわ。

 黒魔法を使った者のもとへ向かったというのに、本当に大丈夫なの? 

 もし彼が怪我を負ったら? もし、また黒魔法を使われたら……?


 次々と嫌な方向へ思考が進んでいき、私は下唇を噛み締めた。


 どこへも行かないで。私のそばにいてよ。

 私を、この世の誰よりも大切にすると誓ったのなら、こんなふうに不安にさせないで。


 普段の私なら、決して考えることのないような弱々しく愚かな感情だった。

 そんなことを考えてしまう自分が、どうしようもなく嫌になる。

 これが黒魔法の影響なのかと思うと、余計に。


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