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ナムフォン皇后——王朝の終焉を見つめた女  作者: はまゆう


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第一章 南から来た娘

一九一三年十一月十四日、フランス領インドシナ南部の空は、いつもより少しだけ高いところに浮かんでいた。明け方から降り続いていたスコールがようやく上がり、湿った風がバナナの葉を揺らす、蒸し暑い午後だった。そんな時刻に、一人の女児が産声を上げた。名を、マリー=テレーズ・グエン・フー・ティ・ランという。


その小さな肺が初めて吸い込んだ空気は、魚醤とジャスミン、そして土の匂いに満ちていた。のちに彼女は阮朝最後の皇后ナムフォンとして歴史に名を刻むことになる。だが、あの産湯を使った朝、家族が腕に抱いたのは、王朝の運命を背負う子ではなかった。ただの、南部の富裕なカトリック家庭に生まれた、静かで、よく目を開く娘だった。彼女の瞳は、生まれたその日から異様に澄んでいて、乳母はそれを見て「この子は何かを見ている」と呟いたという。誰も、その言葉の意味を深く考えなかった。


父のグエン・フー・ハオは、商才に恵まれた自信家だった。若い頃は決して恵まれた身分ではなく、指の一本さえ汚して働いた日々がある。だが、カトリック教会が持つ人脈と、フランス人商人との取引で培った交渉術を武器に、一歩一歩地歩を築き上げた。やがて彼は南部でも屈指の資産家へとのぼり詰め、その名を知らぬ者はいなくなった。母のレー・ティ・ビンは、教会とフランス文化に深く親しんだ家に生まれ、優雅で控えめな、しかし芯の通った女性だった。彼女は家の中でほとんど声を上げず、その代わりに、目線とわずかな微笑みで全てを伝えた。


この一家には、富だけではなく、もう一つの宝物があった。当時のベトナムではまだ珍しい、二つの世界が同居する家だった。


家の中ではベトナム語が絶え間なく響き渡った。台所からは魚醤の濃厚な香りが立ち上り、年季の入った土鍋がコトコトと音を立てる。召使いたちは小さな声で祖先や季節の移り変わりを語り合い、時折、遠くの村で起きた噂話に花を咲かせた。けれども食卓が整うと、空気が一変した。フランス語の会話が交わされ、銀製のナイフとフォークが皿の上で軽やかな音を立てる。祈りはカトリックの形式で厳かに唱えられ、客間にはパリから船で運ばれたアンティークの家具が並べられていた。週に一度はフランスから届く新聞や雑誌を広げ、遠いヨーロッパの流行や政情が家族の話題に上る。ランは、その二つの世界を少しも矛盾とは思わなかった。


まだ幼い彼女には、それは朝と夕方のようなものだった。太陽が昇ればベトナム語で目覚め、太陽が沈めばフランス語で眠りにつく。どちらか一方だけを選ぶ必要など、考えたこともなかった。彼女は両方の言葉を同じくらい自然に操り、両方の空気を同じくらい深く吸い込んだ。違和感よりも、むしろその豊かさに、彼女は幼いながらに密かな誇りを抱いていた。


だが、外の世界はそうではなかった。


この国はフランスの支配下にあり、その影はあらゆる場所に落ちていた。フランス語を話せることは、確かに多くの扉を開く鍵になった。しかし同時に、それは人々の視線を彼女に集める印でもあった。道を歩けば、人々は彼女の服を、髪型を、靴を、音を立てずに観察した。カトリックの娘であり、富裕な家に生まれたことも、彼女を守る盾にはならなかった。むしろ、周囲との間に透明な壁を作り、彼女をいつも少しだけ離れた場所に立たせた。ランは、自分の存在が誰かを遠ざけていることを、言葉では説明できないうちから感じ取っていた。


家の外では、人々は彼女を敬意と距離をこめて呼んだ。学校や教会では、同じ年頃の子どもたちが彼女の服や髪飾りに視線を注ぎ、ときに羨望と嫉妬の混じった口調で囁き合った。けれど彼女は、自分が「特別」だと言われるたび、胸の奥に小さな影が落ちるのを感じた。そのたびに、少しだけ黙った。無意識に唇を引き結び、何かを飲み込むようにうつむいた。特別であることは、ときに一人であることにあまりにも似ていたからだ。彼女はそのことを、誰にも話せなかった。話せば、ますます特別になってしまう気がしたから。


一九二六年、十二歳になったランは、フランスへ渡ることになる。両親が選んだのは、パリ近郊ヌイイ=シュル=セーヌにある女子寄宿学校、クヴァン・デ・ゾワゾーだった。裕福な家庭の娘たちが集う、カトリック系の由緒ある学校である。その知らせを聞いたとき、ランは一瞬、手に持っていた本を落としそうになった。胸の奥が熱くなり、同時に冷たくもなった。遠くへ行く喜びと、全てを置いていく怖さが、ちょうど同じだけの重さで彼女の心に乗った。


出航の日、南部の熱気は港の波止場までしっかりとついてきた。椰子の木が風に揺れ、湿った海風が肌に張り付く。家族は彼女を幾重にも囲み、何度も同じ言葉を繰り返した。身体を大切にすること。手紙を欠かさず書くこと。神に祈ることを忘れないこと。フランスでしっかり学ぶこと。そして、いつか必ず戻ってくること。


ランは何度も何度も頷いた。そのたびに、母の指が彼女の頬を撫で、父の大きな手が肩を押さえた。妹たちは泣きじゃくり、乳母は後ろで声を殺して嗚咽した。それでも、ランは泣かなかった。


唇を噛みしめ、涙を奥に押し込んだ。泣けば、ここを離れることが本当になってしまう気がした。泣けば、もう戻れない決断のように思えてしまった。彼女はただ、白いハンカチをぎゅっと握りしめ、波止場に立つ家族の姿を目に焼き付けた。その瞳は乾いていたが、心は津波のように荒れていた。


船が岸を離れると、見慣れた土地はゆっくりと遠ざかっていった。椰子の木の並木も、低い家並みも、教会の尖塔も、やがては全てが水平線の向こうに沈んでいった。ランは甲板の端に立ち、風の中で目を細めた。潮の香りと、遠くの汽笛の音が混ざり合って、何かが終わり、何かが始まる予感を運んでくる。


これから行く場所を、彼女はまだ知らない。パリの街並みも、学校の教室も、そこで出会う人々の顔も、何ひとつ想像できなかった。そこで何を学ぶのかも、自分がどんな女性に変わるのかも、まったく見当がつかなかった。ただ一つだけ、はっきりと確かなことがあった。


戻ってくる時には、今までの自分のままではいられない。その言葉が、彼女の心の中で何度も何度も反響した。不安と期待が同じくらいの強さで渦巻き、それが彼女をこれからの航路へと押し出していた。


マリー=テレーズ・グエン・フー・ティ・ランは、南から海を越えた。それは、皇后になるための旅ではなかった。誰かに仕えるための旅でも、誰かを支配するための旅でもなかった。それはただ、自分が何者なのかを知るための、最初の旅だった。嵐が来ようと、道が暗かろうと、彼女はもう引き返せない。そして彼女は、そのことに密かに、震えるほどの期待を抱いていた。

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