震災
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1923年9月1日
おそらく、この日は日本史にくっきりと刻まれたことは間違いないだろう。1923年9月1日午前11時58分44秒・・・丁度、風の強いお昼のことだった。マグニチュード7.9の大地震が関東一円を襲った。死者10万5千385人、全潰全焼流出家屋と言った被害も293,387戸に達する。おそらく、日本史においてもこれほどの被害はそうそう無いだろう。 これだけの被害が出た理由としては、人口密集地帯において発生したと言うことと、家屋が未だその多くが木造であり、かつそれも阪神大震災当時よりもやわであったからである可能性が高い。なにしろ、この頃の東京をはじめとする日本の諸都市は、未だ江戸時代の残滓とも言うべき建物が数多く残っていた。煉瓦造りやコンクリートの建物は確かに増えてこそいたが、まだまだ現代に比べても少なかったし、そうした建物自体もまた、現代ほど強固なる耐震性を備えていたわけではない。
だが、実は地震発生時においては意外と死者は少なかったという。問題は、その後のことである。丁度昼頃であるが故に、あちこちで炊煙が上がっていた。しかしそれが、家屋の倒壊などによってがれきとなる木材などに引火してしまい、火災が各地で発生した。(ただ、その中には地震後の放火と思われるものも含まれていたと言われている。)そしてそれらが折からの強い風によって煽られ、巨大な火災旋風となって下町を襲った。中でも最大の被害を出したのが、多くの人々が避難した陸軍本所被服廠跡地(現在の横網町公園とその周辺部)であり、火災によってここだけでおおおよそ3万8千もの人々が焼死したという。結果的に、この一連の火災によっておおよそ9万人以上が死亡するという悲劇となった。
また、水道や鉄道、道路、電気といったインフラが壊滅状態となり、ついでに新聞社などもぶっ壊れたことで情報が錯綜し、巨大な津波がアカギ山に達したとか、三浦半島が陥没したとかいうデマが流れたり、憲兵が混乱に乗じて労働争議を指導した社会主義者をぶち殺そうという動きもあり、亀戸事件などのような混乱が発生し、ついでにデマか本当かは知らんが朝鮮人の暴動やら何やらがあったという話があり、各地で自警団が形成されるなど、非常に混乱した状態が続いていたという。現代でも、海外などでは災害が発生したときには暴動や略奪は日常茶飯事らしいし、日本においても空き巣などが発生しているのだから、そうした混乱も宜からぬ事である。
また、先に記したように、新聞社などの情報機関が損害を受けたこともあるが、地震発生の前にこうした時にトップであるべき行政の長たる内閣総理大臣だった加藤友三郎が急死しており、一応代行こそいたものの、殆どトップ不在の状態であったこともそうした混乱に拍車をかける要因の一つだったと思われる。それでも、地震発生の翌日には、正式なトップを必要としていたこともあって、山本権兵衛大将に二度目の組閣の大命が下るなど、可能な限り組織化が急がれた。
ちなみに、大連沖で訓練をしていた長門、伊勢、日向からなる第一戦隊が地震発生の第一報を聞きつけ、急遽物資を満載して東京湾を目指したのだが、その際に秘密であった全速力を出しているのが英国海軍の巡洋艦ホーキンスによってばれてしまったりするが、そんなことは当時の乗組員達にとっては些細なことでしかなかったのかもしれない。
とにかく、当時の帝都周辺部は非常事態であったことに変わりはない。情報は錯綜するわ、火災で帝都の半分近くが丸焼けになるわ、浅草の12階建てこと凌雲閣をはじめとする数多くの建物が倒壊するなどしていた。そのため、戒厳令が発令されたり、物資を確保するべくモラトリアムなどの緊急措置や復興の資金を得るべく膨大な外積が発行され、それらが原因でまたしても不況に陥ったりするのだが、それはまだ置いておこう。
さて、ではこの中で別府グループにおける東日本への営業拠点として建設中であった亀戸ビルはどうであったかというと・・・実はあんまり無事じゃなかったりする。実はこの辺り、昔は海だった。江戸は江戸時代以前から少しずつであるが埋め立てが行われていたという。ここも、かつてはそうした埋め立て地の一つであった。なので、地盤が緩いのだ。古地図などで地質を研究できていなかったのだ。まァ、こいつは地質学の知識なんて全くないし、そもそも液状化など頭に入っていなかったのだが・・・確かに義男は必死になってくいを何本も深くぶち込んでおいたことが功を奏し、被害はそれほど大きなものにはならなかった・・・ビル自体は。そう、この周辺部における液状化現象によって、周囲の地盤は沈下し、亀戸ビルは2センチほど浮き上がってしまう。これで傾いていたら下手すりゃたてなおしである。
だが、運用にはそれ以外に支障は殆ど無かった。何しろ既にドンガラはできあがっており、内部での工事になっていた。それも、一階二階部分は既に完成し、来週から入っている店が順次オープンしていく予定であったほどだ。既に商品も一部では蓄積が始まっていた。
同日 別府造船所本社
義男達が地震の第一報を聞いたのは、丁度昼の三時を回った頃のことであり、あと3時間もすればみんな揃って定時上がりだな~なんてぼんやりと考えていたときのことだった。突然電報を持った社員が突撃してきたのである。
「東京で大地震・・・その情報は確かなのかね?」
義男は電報を持ってきた社員を問いただした。
「はい、おそらくそれで間違いはないかと・・・」
「マジかよ・・・」
その言葉に義男は愕然とした。と言うのも、こいつは関東大震災が起こることは知っていてもそれが何時起こるかまでは知らなかったのだ(忘れていたとも言う。なにしろ前世と合わせても学校で習ったのは半世紀以上も昔の話である。それもサラッとだ)
「そうか・・・わかった。すぐ、会長と主立った役員を集めて欲しい。ああ、別府汽船の連中もだ。」
すぐに主立った役員達が会議室に集められた。
「君たちも知っての通り、東京でデカイ地震があった。被害についてはまだ分かっていないが結構な被害が出ているとのことだ」
「地震・・・ビルは、大丈夫なのでしょうか?」
宮部の疑問に後藤が答えた
「その辺はまだ良く分からんが、少なくとも倒壊したとか言う話は聞いておらん・・・ただ、何かしらの被害が発生している可能性はある」
「そうですか・・・」
宮部が安心したように椅子にもたれかかった。
「あんだけ金をかけたんだ。そう簡単に壊れてもらっては困る」
義男が言った
「それで、どうします?」
「ああ、兎に角今は非常時ってことになるからな・・・情報収集をして、ビルに問題がなければそのまま避難所として解放したい。こういうときには金とかをケチってはダメだ。・・・それと、救援物資を東京に送ろうと考えている。まァ、陸揚げは品川か千葉か横浜か静岡か・・・大体その辺になりそうだがな。桟橋の状況によって場所は判断する。その辺は、東京に行っている富樫君と協議する必要があるな」
「・・・確かに、すでに外面も殆ど完成状態ですから、避難所にすることや、救援物資を送ることには賛成ですが・・・規模は?」
後藤が尋ねた。
「数千人分のケンバス、食料、蝋燭など・・・大体そんなところだ」
「なかなか大規模ですね・・・」
一色がやや当惑気味に言った。
「ウチにある量産中の即席麺・・・アレもあるだけ送れ。たしか・・・2千食分以上はあったはずだ」
「赤字覚悟の量産中ですからね、もう千は行きますよ。それより問題は、物資の集積と買い付け、積み込み時間ですが・・・」
「積み込みは問題ないでしょう。物資の買い付け、集積を考慮しますと遅くとも5日以内には準備完了する見込みです。」
細川の懸念に宮部が応える
「金は余裕で何とかできるから、問題は集積と買い付けだな」
「流石に、九州ですからね。それほど値上げは起きないと思いたいものです」
一色が言った。
「船は・・・宝殿丸があったな。アレを転用しよう」
「ですな・・・しかし、コンテナ輸送は可能ですかな?」
「わからん・・・今は、木箱や米樽などの普通の貨物にするしかないかもしれんな。・・・そこは情報を判断してからだ。東京事業部に問い合わせを急げ」
「では、諸君。早速だが、情報収集と物資の買い付け、収集に当たるように。集積などにはウチの作業員の連中も召集しろ。できるだけ、急ぐように・・・ああ、分銀の成清さんには私から話を付けておく」
雷蔵の言葉を最後に、結論が出たようだった
「分かりました。では、我々はその他の準備にかかります」
社員達は慌ただしく動き出した。ちなみに義男はちょっと電話をする以外は基本見てるだけである。何度も言っているがこいつはデスクワークとかそういうのは苦手であり、簡単な書類の処理くらいしかできないため、いつも人任せである。社員達はそのことを良く理解していることもあって、いつものように動き出した。予算の準備と発案と結論は義男が。その準備は他の社員達が・・・これが今の別府造船の体制だった。
そして、その行動は思った以上に迅速であった。社員達が大分や博多など九州各地に散り、翌日のうちに大半の買い付け交渉が完了しつつあった。また、義男と雷蔵が大神村や近隣市町村を回って米倉を開いてもらい、船に積み込んでもいる(なお、その代わりに九州各地の衣料店や食料品店から安物の毛布や缶詰が消えた模様)そして、その数日後には集積と物資の積み込みが開始され、おおよそ8日には積み込みが完了した。それが可能だった背景には、コンテナによる輸送が可能であったことだ。日豊本線でも限定的ながら鉄道院がコンテナ輸送業務を行っており、その影響もあって比較的スムーズに輸送できたのだ。
また、この頃には亀戸のビルも無事だと言うことが分かり、すぐに本所区と連絡を取り合いビルの避難所としての開放をすることとなった。本所区としても、避難所は多い方がよい(管理できるかは問題だが)ということで即答することとなった。特に損害がないことを確認してからではあったが。避難所が開設されたのは地震発生の3日後。内一日は人員の無事の確認と集結と被害調査、避難所開設の交渉に費やされていたが、それ以前から無事な建物と言うことで、周辺の避難民がボチボチと集まっていたりする。そして三日後になってようやく準備がある程度完了したと言うことで、周辺から焼け出された市民が集まることとなった。食料品なども全てあるだけ解放されたが、元々の備蓄量がそんなに多くはなかったため、直ぐに底を突くことは明白であった。
1923年9月2日 亀戸ビル 東京事業部事務所
「もって1~2日か・・・もう少し、後になってくれたらこの状態も少しマシだったかも知れんな」
スッカリ満員になったビルを見つめながら東京事業部本部長の富樫はそう言って溜息をついた。現在彼は東日本における別府造船、汽船などの営業活動の全権を委ねられている。そのため、このビルの避難所開設の陣頭指揮を執ったのもまた彼であった。
「本社からすぐに救援物資を積んだ船を出すとのことですが・・・」
「それにしたって明日や明後日のことだ。港湾の被害や混雑そして積み込みや荷下ろしも計算せねばならん。この状態ではコンテナも使えんかもしれないしな!」
富樫の言葉は正鵠を射ていた。東京や横浜といった港では岸壁が破損したところもあるし、東海道線の寒ノ目山トンネルなど100近いトンネルが破損や崩落し、鉄道も麻痺してしまっていた。元々コンテナの利点とは積み込みと輸送を一貫して行えるというものだった。輸送は船と鉄道であったのだが、積み卸しをする際に必要な桟橋が使えないわ輸送を行うための鉄道網が使えないとあっては流石にお手上げであったのだ。北日本周りのルートもあるにはあるが、そちらはまだ十分でない。一応別府汽船は船をそちらの方面に回して新潟から北日本周りのルートを使用することも考えられていた。だがそれは第二陣での話であり、少なくとも第一陣の宝殿丸はコンテナ船として利用するために巨大なクレーンを有していたが、陸揚げできないとあっては通常の貨物輸送を行わざるを得ないと言うこともあり得た。下手に船を損傷している桟橋に近づけたら座礁したり、あるいはコンテナが海没したりする危険性もあった。
「ただまぁ、水が確保できたことと、非常電源設備を有しているだけマシとも言えるがな・・・」
亀戸ビルでは、非常電源設備として潜水艦用のディーゼルエンジンを用いた発電装置があった。あくまで非常用であるが、こちらにはまだ余裕が多少ではあるがあった。まぁ、それもフル稼働を続ければ数日で消えるようなものだが。それでも、夜間において光があるというのは幸せなことであった。なにしろ未だに各地では停電が続いていたりしているからだ。水もまた、少し遠いものの、何とか水源を確保できていた。
「当面は、ウチに残っているものだけじゃなく、持参したものなどで食いつないでいくしかないか・・・ローマイヤーさんにも後でお礼を言わんとな・・・」
ローマイヤーハムの創業者であるローマイヤーの工場も被災したのであるが、その際に「保存しているハムをそちらの避難所に輸送する。腐らせてしまうのは勿体ないからね」ということで在庫のハムをこちらに運んできてくれていたのだ。焼け石に水ではあったが無いよりは遙かにマシであった。
「しかし、あの麺の缶詰・・・アレがあって助かりました。」
ぽつりと、部下が言った。なるほど、確かにそこかしこに湯気の立っていた。そこでは、鍋で麺を煮込んでいたり、缶詰を器に麺を啜っている者達がいた。このビルの1Fの商業施設にある食品コーナーでは、目玉商品の一つとして、最近できた別府造船の子会社である日出食品の即席麺(所謂チキンラーメンのちょっとなんか変なバージョン)が売り出されることになっており、ある程度保存も利くため、早い内から備蓄が始まっていた。(結局保存容器などの問題があって、缶詰になっていたりするのだが、後に乾麺をもじって缶麺と呼ばれるようになる。義男はどうせならラーメン缶も作っちまおうと考えているらしい。が、それはあくまで蛇足である。)
「そうだな。確かに、最悪、湯さえあればどこでも食べられるのはいい・・・とはいっても今あるのは200食分・・・これだけだ。」
「ですが、あれはこれから必要になると思います」
「そうだな。が、今対応すべきは、1年2年先のことでなく、直近の1週間のことだ・・・」
富樫はそう言って部下をたしなめる。だが、彼の中にもこいつはこの後もっと売れる商品になるという考えはあったが、現状ではそのことを口に出すのははばかられたし、それを深く考える時間的、精神的余裕もまた、いささか不足しているようであった。
それ以上に、富樫にとって気になることは、本社からやってきた物資を送るという電報であった。それによると、東京湾に直接船を突入させるというものであった。だが、東京には5000トン級の船を横付けできるような埠頭は当時はなかった。
(しかし本社の連中、どうする気だ?ふ頭は無事だがそんなにでかい船は付けられないぞ?・・・まぁいい。取り敢えず大八車やリヤカーそして、人足を用意するしかないか。どのみち、物資が来ないとクビが回らないのだから・・・)
富樫の疑問が氷解するのはもう暫くかかることになる。今の富樫にとってはこれから先どうすべきかと言うことだけであった。少なくとも現状の自分の手には余る。だが、やるしかなかった。
1923年9月6日 品川沖
この日、東京湾はごった返していた。各地から東京救援のために救援物資を満載した船が大挙してやってきたからだ。その多くは海軍の艦艇であった。丁度この前日、戦艦長門が佐世保で救援物資を積み込んで到着していたし、連合艦隊司令部は、中央と連絡を密にすべく陸に上がり、海軍省の建物に入っていた。この日は金剛以下第二艦隊が到着する予定だった。
船達でごったがえする中、一隻の船が入港してきた。2000トンにも満たない小さな船ではあったが、船には鋼鉄製の箱が山積みされていた。周囲の海軍や商船のりたちはなんか変わった船が来たな~と思いつつ眺めていた。言うまでもなく、宝殿丸である。コンテナを詰めるだけ積んだ後、可能な限りの速力で東京を目指したのだ。そんな宝殿丸の船橋では、船長の秋田信彦が指揮を執っていた。10年ほど前に商船学校を卒業し、以来あちこちの船で航海士を務めていたのだが、ついこの間、宝殿丸の初代船長に任命された男だった。
「海軍のカッターや伝馬船に衝突しないように気をつけろ!」
「こいつはなかなかハードですな」
ふと後には、副長の安西清がいった。
「全くだ。ここで衝突してみろ。どっちかが悲惨な目に遭う・・・それに、座礁もゴメンだからな。」
「しかしこう多くては、船を横付けできるところがありませんぜ?」
「だよなぁ・・・全く、帝国の首都だって言うのにまともな埠頭もないとは・・・」
意外なことかも知れないが、この時代はまだ東京にある代表的な埠頭である晴海埠頭や品川のコンテナ基地などは影も形も存在しない。唯一あると言えば芝浦の小さな埠頭だったらしい。後は、日の出ふ頭の前身たる日の出物揚場くらいだった。それにしても水深は3,7メートルほどしかなかった。現在の東京港は有数の港ではあるが、この頃関東近辺で優秀な港と言えば幕末以来の国際港たる横浜くらいのものでしかなかった。東京港の開港計画自体は昔からあったのだが、法律や地域の利権などによって何度も潰されてきた。竹柴埠頭などの開発など本格的に港が開発されたのは関東大震災以降のことであり、今日のような国際港として開港するのは1941年まで待たねばならない。
「どうしても、海軍が優先することになるわけだが・・・」
「奴さん達、岸壁に接岸できないくらいでかい船できたもんだから、カッターや内火艇で積み卸ししているみたいですぜ?」
「まぁ、そうだろうな。他の貨物船も似たり寄ったりみたいだが・・・」
秋田はカッターを必死にこぐ水兵達やどっしりと構える軍艦をみやりながらふと思った。
(確かに、傍目から見たら勇ましい光景かもしれんが、これだとかえって支障が大きくならないのだろうか?自分たちがすべきなのは軍拡以上に、でかい軍艦でも簡単に横付けできる埠頭を整備することなんじゃないか?)
そんな思いを飲み込むと、秋田は安西に対し、まぁ、ここまで来たんだ。富樫本部長に船は到着したが、船を着けるのに暫くかかりそうだと伝えて欲しいと命じた。命令を受けた安西は、数名の船員と幾ばくかの物資を持って船を下りていった。結局、宝殿丸が芝浦の埠頭に船を着けることができたのは、東京湾到着の翌日の夕刻のことだった。
「船長、こりゃ直ぐに荷下ろしは・・・」
「できませんな。一応、ライトで照らすこともできますが、コンテナを降ろすことは難しいかと」
宝殿丸が到着したという連絡を聞いた富樫は直ぐに日の出物揚場にかき集めた人即や大八車を率いてやってきた。とはいえ、既に日は落ちていた。
「なんとか、日が落ちる前に2~3個降ろすことはできましたが・・・」
「じゃあ、そいつを全部持って行ってしまおう!」
「わかりました。うちの船員達にも手伝わせましょう・・・本格的な作業は明日ですな」
「ああ。うちじゃ物資の備蓄が少ないからな・・・しかし、神戸~日出航路の最新鋭の船を投入するなんて社長もやる気だな」
「まぁ、変わり者の社長ですがね・・・そういう所だけ仕事するんだから、困った物です」
「普段もこんな感じなら俺も大分楽になるんだがな・・・」
二人は顔を見合わせ、苦笑いを浮かべた。
さて、翌日から本格的に荷役作業が始まった。港湾労働者達に混じってと富樫が物資の載せ替えと輸送の陣頭指揮を執り、秋田はクレーンを用いた降ろしを指揮した。船自体の積載量が元々それほど大きいというわけでもなかったが、それでもその効果は目を見張る物だった。従来のように、一度網にいれてまた降ろして~なんて繁雑な作業が行われず、取り敢えず急いでコンテナをつり上げて降ろす。これを繰り返すだけだったからだ。とは言っても、コンテナの効果はかなり落ちていたと言える。元々コンテナとは港に降ろしてそのまま貨物車に積み替えることなく輸送すると言うことでこそ初めてその効果を発揮する。だが、今はそんなデカイ物を輸送できる能力はなかった。日出~東京までの輸送効率では効果を発揮したが、大損害を受けた歳の港湾に物資を陸揚げするという観点から考えるならば、 あまり賢い選択であったとも言い難い。
また、問題も発生した。そう、今度は空になったコンテナが次の船の荷役作業の邪魔になるため、片付けなければならなくなってしまったのだ。現在ではコンテナハウスというものも割とあるのだが、それができるのは、それを輸送することができるからである。そしてこの時代でそうした輸送業務に携わる鉄道が麻痺しているのだからはっきり言って無理である。結局それに時間が食われてしまい、出港はその日の夕刻前となってしまった。それでも物資の搬出作業に半日もかからなかったと言うことを見たら無いよりはマシとだけは言えたかもしれない。
また、この一連の作業によって手に入れた物資ではあったが、その多くは江東区の他の避難所などに持って行かれてしまい、結局富樫は追加の物資を手に入れるために各地を奔走する羽目となった。少なくともそれは、海軍や民間の艦船が品川沖に集結し、埠頭に積み上げられた物資に余裕ができる21日頃まで続くこととなる。
そして蛇足ながら、後に、この関東大震災に置けるコンテナ輸送は軍の興味を引くこととなる。特に鉄道部隊や兵站士官や工兵が「これ、上手く使えば上陸作戦とか緊急展開とかで活躍できるんじゃないか?」と考えたのだ。それがやがて別府グループを軍需に関わらせる要因の一つとなるのだが、今はそれを置いておこう。
また、この救援活動によって別府グループの名が東京に知れ渡ったりはしたが、その他にも思わぬ幸運が舞い込んだ。日出食品(義男が作った即席麺メーカー)が救援物資として持ち込んだ即席麺3千食は、おおよそ数日で全て底を着いたのだが、被災者が食べているシーンが偶然取材に来た新聞記者の目にとまり、写真に納められ、超有名になったのだ。丁度、浅間山荘事件の時のカップヌードルを警官達が啜っていた写真のように。後に、軍などからも問い合わせが来るなどし、以降別府グループの主要な稼ぎの一つとなる。
やがて、こうした首都周辺の大騒ぎも、20日を過ぎたあたりには一通り収束することとなり、21日には、海軍も部隊の撤収をほぼ完了させており、ぼつぼつバラックなどの仮設住宅ができるようになった。この頃、帝都復興院のトップとなった後藤新平による新たな東京の都市プランが計画されていたが、それは与野党の政争の具とされ、結局中途半端なままで終わってしまうなど残念なこともあった。
そして、開設されていた亀戸の避難所も、おおよそ1ヶ月後には仮設住宅などもボチボチできたり、他の避難所も余裕ができたりしたと言うことで、閉鎖され、内装工事が再開されることとなる。といっても、地震によるゴタゴタや復興のための部材の高騰などから、工事は遅れてしまい、商業施設のオープンは翌年の2月。東京営業所の正式稼働にはさらに3ヶ月を要することとなる。
ただ、別府グループ(特に義男)としては今回の地震はある意味幸運であった。これによって八八艦隊計画の中止以来、低下が続いていた鋼材価格が再びある程度だが持ち直し、神戸製鋼所が抱えていた不良在庫を幾ばくかであるが処分できたこと。もう一つが、亀戸ビルの避難所として開設したことで、少なくとも周辺住民には好意的に捉えられることとなったことなどが挙げられる。
そして、最も良かったことが、これによって別府造船の溶接問題・・・これが大々的に表沙汰にならなかったことである。新聞社が被災したことによってこれを挙げてしまう前に資料を損失してしまったらしく、これによって少なくとも直ぐに記事にすることができなくなってしまったのだ。尤も、こんな記事を書かなくても目の前には滅茶苦茶になった都市とそこで生活する人々というブンヤなどのマスメディアにとっては格好の目標があったわけであるが・・・
皆様お久しぶりです。
まずはじめに、熊本地震に遭われた方にはお悔やみと共に早く復興するようお祈りいたします。
そして、長いこと更新を途切れさせて申し訳ありませんでした。
大体三ヶ月ぶりくらいでしょうか?
今回はちょっと長めです。
ただ、視点があちこち行っていますので、少しわかりにくいかも知れませんがご容赦を
さて、今回は関東大震災を取り上げました。流石に自然災害ですのでこれにずれはありません。
亀戸ビルは何とか残してみました。最初は傾いたという設定も考えたのですが、そうしたら最悪立て替えの必要も考えましたのでやめときました。ただし無傷でもありませんが・・・
ただ、個人的には2~3話に分けた方が深みが出たかも知れないとも思いましたが、元々これはできるだけあっさり終わらせようと考えてました。ですのでかなり無理矢理詰め込んだ感があります。
さて、次は震災からおおよそ半年ほど経過した辺りで久しぶりに茜と義男の話にしようと思います。




