派閥
「人は三人集まれば、派閥をつくる」こんな言葉がある。まぁ、そりゃそうであろう。組織とは人の集まりである。そして人にはそれぞれ違った考えが存在する。である以上、組織の中で思想や人望、利権など様々な理由で人が集まり派閥を形成するというのはごく自然だといえよう。
それは、別府造船としても変わることはない。いや、むしろ別府造船の場合はかなりカオスなことになっている。なにしろ、旧来の別府造船の生え抜きの社員達の他に、ドイツ人技師たちがいるし、その他にも山岡のように義男が引っ張ってきた連中だっている。そしてそのドイツ人の中にも、ユダヤ人とそうでない連中だっている。おまけにグループ全体を見回したら、大神鉄道、神戸製鋼所、別府汽船のような会社がある。そしてその一つ一つにだって大小の派閥が存在しているのだ。
そうした派閥が核となって、組織をよりよい方向に変えていく例も存在するものの、一方で、そうして形成された派閥同士が時としては、対立を繰り広げ、最悪の場合には全面戦争になってしまう場合だってある。そうなると、もうどっちか一方が勝つか負けるかしなければ収まりが付かなくなってしまう。だからこその談合などが行われているのだが、時にはそうしたものが外野から批判されたりもする。こうしたことを見るに、本当に人間関係とは難しいものだと言えるだろう。
一応、今のところ別府造船ではそうした派閥同士の対立はないといっていいだろう。別府造船においては義男と雷蔵がいるのだ。なにしろ、別府造船をずっと引っ張ってきたのは雷蔵であり、それを短期間で急成長させたのが義男である。二人に対する社員達からの信頼は厚い。なのでこの二人のどちらか一方が一喝すればそうした対立は例え発生しても収めることが今のところはできている。
もちろん、下手をすれば将来的に現社長の義男によるワンマンになる可能性もあるが、こいつの場合、投機以外の仕事はほとんどできないので、他の幹部にほとんど丸投げか合議で決めているため、そういう兆候は今のところ無いことが救いかもしれない。
さて、そうした派閥は組織である以上どこでもある。それはこの国の造船のトップである海軍艦政本部であっても変わることはなかった。いや、派閥間の対立は取り敢えず義男達によって収められている別府造船とはほとんど正反対にしたくらいに激しかったりする。もっとも、それが表面化するのはもう少し後になるのだが・・・
では、ここで1922年当時の日本海軍の造艦状況を見てみよう。ワシントン条約が締結されたこともあって、海軍戦力の増強が一息ついた時代であった。条約に伴って戦艦の建造が停止されたため、日本は巡洋艦や駆逐艦といった補助線力の整備にその比重を移しつつあった。丁度この頃はその先駆けの一隻である、夕張の建造がスタートしたりしていた。所謂日本海軍艦艇のデザインがある程度確立されてゆく時期であると言える。この頃の軍艦設計のトップをはしっていたのはいうまでもなく平賀譲であろう。不譲とまで言われたこのオッサンであるが、八八艦隊の建造計画を主導したりとその能力は一級品であった。この時期造船少将であった平賀は夕張やそれに続く古鷹型巡洋艦の設計を行っていた。だが、恐ろしく頑固な性格であった上に、設計がほとんど確定していたのに、突然装甲などの追加や難しい構造への改設計を命じたりとして工期や設計を遅らせたり、そのくせ建造速度が遅れたら今度は現場に文句を言ったりとかなり現場を困らせていたりする。そんな感じだったから造船の神様と称される一方で、敵対者もまた多かったりする。
その一例が後に表面化する藤本喜久夫との対立であろう。いや、既に対立の地盤はできつつあったと言えるのかもしれない。これから数年後の1924年の長門の近代化改修の際に、平賀は藤本の開発した屈曲型煙突のアイディアを本人の確認もとらず勝手に採用したのである。彼は頑固者だったのだが、割とそういう面で抜けているところがあったという。・・・あれ、これって普通に嫌な奴じゃないのか?
で、当然のことかもしれないが藤本は怒る。多分、その頃くらいから藤本は平賀と対立するようになったのではないかと考えられる。そしてこの後平賀がイギリスの留学から帰ってきた後、平賀は諸々の陰謀もあってか技術本部に左遷され、設計主任となった藤本によって特型駆逐艦の設計や妙高型の改設計などが行われることになった。その結果、両者の決裂は決定的になることとなった。
基本的に、藤本は電気溶接や復元値と言った新機軸を次々と投入し、軍令部の無茶振りに応えるというスタイルだったのに対し、平賀は安全性を重視して、既存の技術を用いて船を仕上げるというスタイルを貫いていた。で、無茶振りしようとしてもその頑固な性格によって完全に注文をはねのけるといった感じである。
まぁ、そんな感じに両者の設計スタイルはほとんど正反対と言っても良いので、そうしたすれ違いが無くてもいずれどこかで対立することになった可能性はなきにしもあらずだが・・・。そして、両者はワシントン条約の戦艦建造禁止期限が切れるときに建造する予定であった新型戦艦建造プランで対決になりそうだったのだが、その時に丁度結ばれたロンドン海軍軍縮条約によってこの新型戦艦建造計画はポシャることとなり、二人の正面切っての対決は行われることはなかった。
その後の両者の対立の結末は平賀が勝利したといえるであろう。藤本の基本設計は特型駆逐艦やその後に建造された初春型の初期バージョンで見るように船体に比して過大な武装だったし、まだまだ未成熟の技術をそのまま使ってしまうなどの失敗をしてしまう。彼は軍令部の無茶ぶりを聞きすぎたのだといえるのかもしれない。そのため、第四艦隊事件や友鶴事件といった艦艇の転覆や断絶などの破損を引き起こす原因となった。友鶴事件の結果、藤本は謹慎処分を受け、その後1935年に急死してしまう。
そして、藤本の失脚後再び軍艦設計のトップとなった平賀によってこれまでの藤本の功績の多くが闇に葬られることとなる。艦艇建造方法は旧来のリベット打ちになってしまうし、復元力についての研究も無視されやはり従来の重心を下げたりバラストを搭載することでバランスを保つ方法に変化してしまった。ただ、そうした改装や従来方法によってその後の日本艦艇は嵐などに対しては確かに強くなり、以後嵐などで転覆するような事態は起こらなくなったため、一概に平賀を否定するというのも、よろしくない。
ただ、平賀の基本設計はアメリカやフランス、イギリス艦艇などで重視されることとなる機関のシフト配置などのダメージコントロール機能についてはほとんど無視した物であり、装甲などで防ぐ直接防御を中心とした物であった。、日本海軍艦艇の場合、一介の決戦で全てを決める予定だったので生存製に対してはそれほど重要視されていなかったのだ。ついでにリベット打ちだと至近弾や魚雷などによる被害をさらに酷くしてしまうと言う問題もあったりする(ただし、アイオワ級やヴァンガードはリベット打ちのため、一概に時代遅れだとも言えない)。こうしたことから、後世においては太平洋戦争での艦艇の大量損失につながったという批判もあったりする。一方で藤本はそうしたダメージコントロールに対する研究もしていたのだが、そうしたシステムも完全に無視されてしまい、彼の論文は金庫でほこりを被ったまま戦争の終わり頃まで忘れ去られることとなる。
・・・そうなるはずだったのだが、ここで歴史がなんかややこしいことになり始める。いうまでもなく、だいたい義男のせいである。まさに今更の話かもしれないが、別府造船では第一次大戦初期には既に溶接を建造に取り入れ始めており、1922年の段階では全てというわけではないが、その多くの部分を溶接によって対応していた。また、ドイツから連れてきた技術者によって溶接に対応できる装甲や高張力鋼、耐熱鋼の開発、生産にかかっており、すでに耐熱鋼や高張力鋼については試作段階にまでこぎ着けつつあった。それは、まだこの時代の日本海軍ではいまだ到達し得ない世界であったりする。(最も、海軍も既に独自でHT鋼やDS鋼などの軽量金属などの研究や開発をおこなっていたりするが)
そんな感じに、高い技術力を持っている上に、ここ最近は造船所の拡大を行いつつある。すでに3万トン級ドックの建造が決定しており、1923年には着手する予定である。また、将来的には5万トン級船台を整備する計画もあったりするといった感じで、造船所も海軍工廠並みの設備へと大幅に強化されようとしていた。それを海軍が黙ってみているわけではなかった。というか、海軍は義男がドイツから巡洋戦艦とかを買ってきたときからすでに別府造船に対して注目していたのだから、今更注目されるわけ無いなんて言うことはできないだろう。そんなことを考えているのは義男くらいなものである。
1922年12月10日 東京大学工学部棟
東京大学はいうまでもなく日本の最高学府と言っても過言ではない。元々ここは将来の官僚や技術者を育成するために作られた大学と言っても良く、数多くの技術者や官僚がここから巣立っていった。こうした大学出身の連中がまた派閥・・・所謂学閥をつくったりするのだが、ここでは置いておく。ちなみに義男はこの時代の大学を出ていないため、そうした関係の人脈を持ってはいない。
さて、そんな大学の一室にて一人の角顔の男があるレポートを読んでいた。
「予想通り・・・いや、それ以上か」
彼の名は藤本喜久夫。さっきも書いた通り特型駆逐艦の設計や妙高型、高雄型の設計などを主導した平賀と並ぶ造船の権威である。この時期彼は海軍造船士官であると同時に、東京大学工学部にて嘱託講師を兼任していた。そんな彼が着目していたのが第一次大戦以降急速に成長してきている二つの民間造船所・・・川崎造船と別府造船だった。川崎造船の場合は既に戦艦榛名の建造などから既にその高い技術力があることは知っていたが、別府造船の場合は全く異質であった。
なにしろすでに未だ研究段階の電気溶接を用いた船舶の建造を実用段階に達成させている上に、ディーゼルやバルバス・バウといった新技術の導入にも積極的に取り組んでいるのだ。また、ドイツからやってきた技術者達を多数抱え込んでもいる。中には潜水艦建造に携わった者もいるらしく、これからより重要な戦力に、そしてより進歩することが予想される潜水艦の研究や開発にも大きな影響を持つ可能性があった。
彼はまだ艦政本部などの中央に行けるような人間ではないものの、だからこそ、今のうちに国内の造船所がどの程度のレベルに達しているのかを正確に知る必要があった。いずれ自分が中央にいき、そこで艦艇の設計を任されたときに、どのレベルまで建造が許容できるかを把握しておかなければならなかったのだ。その中でも彼のお眼鏡に一番かなっていたのがこの別府造船であった。しかもこの造船会社は技術革新に対して常にどの造船会社と比べても前向きだった。
そう、翔鳳丸の就航式の時に義男達を見ていたうさんくさい男は藤本であった。彼は別府造船が作った新しい船というものがどんな物か気になったので有休を取って見に来ていたのだった。
「ここならば、英米の造船所と肩を並べられるほどの質で建造が可能かもしれないな・・・」
レポートを読みながら藤本は独りごちた。藤本の脳裏には、海上を疾駆する新世代の戦艦をはじめとする軍艦達の姿があった。尤も、それはまだデザインも十分に定まっていないものであった。しかし、新しい技術によってこれまでのものよりもずっと優れた艦艇の建造を行うと言うことは男にとっての一種の浪漫であり、技術者として目指すべき一つの到達点でもあった。
この時点で、平賀と藤本の対立は発生していない。だが、両者の対立は目前に迫りつつあった。で、その際に別府造船は、義男達の思いなどお構いなしにこのクソ迷惑な派閥抗争になし崩し的に巻き込まれていくこととなる。そして、それが引き金となって海軍同士、あるいは陸海軍と言った風に、様々な派閥同士の対立にも巻き込まれていくとか言う、訳が分からないことになってしまったりするのだが、それはまだ義男達はもちろん、当事者達もそこまで考えることはなかった。
どうもみなさまおひさしぶりです。
本当はもっと早く書く予定だったのですが、なかなか文章が思いつかなかったり、別作品を書いていたりと遅れに遅れて、結局大晦日になってしまいました・・・。
さて、今回はちょっとした海軍が出てくるさわりの部分です。最初は本格的に書こうとしたのですが、自分の筆力のなさとまだ条約派が幅をきかせていることから断念しました。
現状の別府造船は5000トン級ドックの他に1万トン級ドックも整備していますし、将来的には3万トン級ドックを建造する計画は既にあります・・・マッケンゼンも何とかしないとですし。
そうした設備と溶接などの技術を持ってればそりゃ海軍も手に入れたくなりますね。義男にとっての最悪の状態は、戦時中の川西みたいになることでしょう。彼処は海軍の天下りを受け入れすぎた挙げ句、海軍に支配されちゃったっぽいですし。
また、もう少ししたら平賀譲の方も登場させる予定です。
次は電気の話になるかもしれません
それでは皆様、良いお年を




