第1話:すべてを失った最悪の未来で
――ガシャァァァン!!!
激しい金属音と、耳を突き刺すような急ブレーキの音が、雨の夜の交差点に響き渡った。
「あ……、あ……」
喉の奥から、まともな言葉にならない声が漏れる。
視界が、ゆっくりと赤く染まっていく。
アスファルトに広がっていく血溜まりの真ん中で、ピクリとも動かなくなった、見覚えのある小さな身体。
「梓……? 嘘だろ、おい……梓っ!!」
叫びながら駆け寄るが、彼女の瞳に光はもう戻らない。
いつもクラスの中心で、太陽みたいにひまわりのような笑顔を咲かせていた杏山梓は、冷たい雨に打たれながら、二度と動かなくなってしまった。
『ねえ、私がずっと笑ってたら……ずっと一緒にいてくれる?』
いつだったか、二人きりの教室で彼女が消え入りそうな声で呟いた言葉が、脳裏をよぎる。
あの時、俺が彼女の「無理をして作っていた笑顔」の裏にある、人に嫌われることへの恐怖に気づいてやれていれば。彼女が一人で夜の街を彷徨うことも、こんな事故に巻き込まれることもなかったはずなのに。
――だが、これはまだ、俺の地獄の始まりに過ぎなかった。
*
一つを守れなければ、すべてがドミノ倒しのように崩れていく。
それが、この世界の残酷なルールだったらしい。
梓の葬儀からわずか一週間後。
次に壊れたのは、後輩の篠原恵だった。
「先輩……。私、先輩のことが本当に、本気で好きだったんですよ?」
あいつが最後に遺した、スマートフォンのボイスメッセージ。
いつも「先輩、また志穂先輩と一緒なんですかー?」と小悪魔みたいにニヤニヤしながらからかってきた、あの生意気で可愛い後輩の面影は、そこにはなかった。
梓を失ったショックで引きこもってしまった俺の部屋の前に、彼女は毎日通ってくれていた。冗談めかした告白の中に、どれだけの本気と、限界のSOSが隠されていたのか、俺は失うまで気づけなかった。
心の均衡を失った恵は、学校の屋上から飛び降りた。
あいつが最期に遺したスマホの画面には、俺との擦り切れるほど再生された通話履歴だけが残されていた。
そして。
最後に、東雲志穂が俺の前から消えた。
小学生の頃からの幼馴染。
「別に。あんたなんかどうでもいいし」
そんな風にツンとそっぽを向くくせに、俺が落ち込んでいる時は、何も言わずにただ隣に座って温かいココアを淹れてくれる、誰よりも不器用で優しい奴。
梓と恵を失い、完全に狂ってしまった俺を、志穂だけは最後まで支えようとしてくれた。自分の心を擦り減らし、家庭の事情でボロボロになりながらも、俺の手を握り続けてくれた。
だけど、そんな志穂の優しさにさえ、俺は甘えて、依存して、結果として彼女を巻き込んだ。
志穂を狙う魔の手――あの一連の事件の裏にいる『誰か』の存在に、俺がもっと早く気づいていれば。
『蓮……ごめんね。私、あんたの隣に、もういられないや』
それが、志穂の最後の言葉だった。
彼女は、俺の身代わりになるようにして、暗い闇の中へと消えていった。
*
誰もいなくなった。
大切な人は、全員奪われた。
俺の周りにいた友達も、一人、また一人と去っていった。
何もかもを失い、ただの動く死体のようになった俺の前に、最後に現れたのは、親友の高橋潤だった。
いつも明るくノリが良くて、空気を読むのが天才的に上手かったあいつ。
高校の頃は「お前、三人のこと好きなんじゃね?」なんてニヤニヤからかってきた、最高の相棒。
そんな潤が、見たこともないような冷徹な眼差しで、ボロボロになった俺を見下ろしていた。
「蓮。お前は何も知らなかったんだ。あいつらがどんな想いでお前の傍にいたのかも、どんな危機に瀕していたのかも。……そして、この世界の仕組みさえもな」
「潤……? 何を、言って……」
「もう遅い。お前は全員を守れなかった。お前自身も、もう完全に壊れてる」
潤は静かに、俺の胸元に奇妙な形をしたアンティークの懐中時計を押し付けた。
カチ、カチ、と不気味な音を立てて、針が逆回転している。
「だけど……もしもう一度だけ、やり直せるチャンスがあるとしたら、お前はどうする?」
「やり直す……? そんなこと、できるわけが――」
「答えろ、神崎蓮!!」
潤が、見たこともないような狂気を孕んだ声で怒鳴った。その瞳には、親友である俺を激しく責め立てるような怒りと、それ以上の深い絶望が宿っていた。
「もし、過去に戻れるなら……お前は今度こそ、あいつらを命懸けで守るか!?」
「――そんなの、決まってる!!」
俺は潤の胸ぐらを掴み返し、血を吐くような思いで叫んだ。
「戻れるなら、何だってする! 俺の命なんてどうなったっていい! あいつらが笑ってくれるなら、俺は悪魔にだって魂を売るさ! 志穂を、梓を、恵を……誰も失いたくないんだ!!」
俺の言葉を聞いた潤は、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、悲しそうに細めて、それから満足したように口元を歪めた。
「合格だ。……じゃあ、行ってこいよ。今度は、誰にも俺たちの青春を奪わせるな」
チツ、と。
懐中時計の針が、完全に静止した。
直後、世界が凄まじい光に包まれ、俺の意識は深い闇の底へと引きずり込まれていった。
*
「――っは!?」
激しい目眩と共に、俺は勢いよく上半身を起こした。
冷たい雨の音はない。鼻を突く血の匂いもしない。
代わりに聞こえるのは、賑やかなセミの鳴き声と、聞き馴染みのある、だけどもう二度と聞けないはずの、愛おしい声。
「ちょっと、蓮! いつまで寝てんのよ、バカ!」
視界がクリアになる。
目の前にいたのは、不機嫌そうに眉をひそめ、腰に手を当てて俺を睨みつけている少女。
黒髪を綺麗に整えた、高校の制服姿の――東雲志穂。
「志穂……? お前、生きて……」
「はあ!? あんた寝ぼけてんじゃないわよ。誰が死んでるって? ほら、早く起きないと遅刻するわよ。別に、あんたなんか置いてってもどうでもいいんだけど……」
ふいっと顔を背ける志穂。その耳たぶが、ほんのりと赤くなっている。
間違いない。高校二年生の夏。
すべてが壊れる前の、あの眩しい青春の真っ只中だ。
俺は、本当に過去に戻ってきたんだ。
ジワリと涙が溢れそうになるのを、俺は奥歯を噛み締めて必死に堪えた。
泣いている暇なんてない。感傷に浸っている暇もない。
あの頃の俺は、何も知らなかった。
大切な人を奪われることも、友達を失うことも、自分自身まで壊されることも。
だけど、今の俺は知っている。これから彼女たちに訪れる、最悪の未来を。
「……ああ、今行くよ、志穂」
俺はベッドから飛び起き、制服の袖に腕を通した。
胸の奥で、静かに、だけど絶対に消えない炎が燃え上がる。
もう二度と、同じ過ちは繰り返さない。
志穂、梓、恵。
今度は、俺が絶対に、お前たちをあんな地獄から守り抜いてみせる。
たとえ、この世界すべてを敵に回すことになったとしても――。
(第1話 了)




