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王の愚者  作者: クロワ
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12話「消えた物資」

財務卿ダイヤの執務室には、似つかわしくない男がいた。


「暇なのですか?」


「ええ」


「帰ってください」


「嫌です」


 ジョーカーは長椅子に寝転がったまま答えた。


 机の上には、何冊もの帳簿が積まれている。


 ダイヤは先ほどから、その一冊を黙々と眺めていた。


「ダイヤ様」


「なんです?」


「楽しいですか?」


「何がです?」


「数字を眺めるのです」


「あなたと話すよりは」


「それはよかった」


 ジョーカーは笑った。


 しばらく、紙をめくる音だけが続いた。


 やがて。


 その音が止まった。


「……おかしい」


「私が?」


「それは昔からです」


 ダイヤは帳簿から顔を上げなかった。


「物資の購入量が増えています」


「国民がよく食べるようになったのでは?」


「ならば喜ばしいことですね」


 ダイヤは別の帳簿を開いた。


「小麦。干し肉。豆。塩」


 指が数字をなぞる。


「薬草。包帯。油。薪」


「随分と買っていますね」


「ええ」


「戦争でも始めるのですか?」


「始めるなら、私にも話が来ます」


「では祭り?」


「半年も続く祭りがあるなら、ぜひ教えてください」


 ジョーカーが身体を起こした。


「半年?」


「少なくとも」


 ダイヤは数冊の帳簿を並べた。


「毎月、ほぼ同じ量が購入されています」


「どのくらい?」


「小さな村一つなら、十分に食わせられる程度です」


 ジョーカーの笑みが、少し薄くなった。


「それはまた」


「問題はそこではありません」


 ダイヤが帳簿を指で叩く。


「購入した記録はある」


「はい」


「支払った記録もある」


「はい」


「王都へ運び込まれた記録もある」


「……はい」


「ですが」


 別の帳簿が開かれる。


「その先がない」


「ない?」


「どこへ運んだのか。誰が受け取ったのか。何に使ったのか」


 ダイヤは顔を上げた。


「何も残っていません」


「物資が消えた?」


「物は勝手に消えません」


「人は消えましたけどね」


 その一言で、部屋が静かになった。


 ダイヤがジョーカーを見る。


「……例の若者たちですか」


「ええ」


 王都では、若者の失踪が続いている。


 身寄りのない者。


 貧しい家の者。


 いなくなっても、大きな騒ぎにならない者。


 ジョーカーは指を一本立てた。


「若者が消えた」


 二本目。


「献金が消えた」


 三本目。


「そして今度は、物資です」


「偶然だと?」


「思いたいですか?」


「まさか」


 ダイヤは再び帳簿へ目を落とした。


 何冊もの帳簿を開き、数字を追っていく。


 やがて、その指が止まった。


「……この支出」


「何か?」


「出所が妙ですね」


 ダイヤは別の帳簿を引き寄せた。


「救貧院への補助金。教会への助成金。それから――」


 ページをめくる。


「慈善事業への寄付金」


 ジョーカーが笑った。


「昨日のお話みたいですね」


「笑い事ではありません」


 さらに数字を追う。


 そして。


「……なるほど」


「分かりました?」


「金が消えたのではありません」


 ダイヤは一枚の紙を抜き出した。


「使われています」


「何に?」


「この物資です」


 ジョーカーの目から、僅かに笑みが消えた。


 消えた献金。


 行方の分からなかった金。


 その一部が、小麦や干し肉、薬草や薪へと姿を変えている。


「つまり」


 ジョーカーが呟く。


「誰かが金を盗んだわけではない」


「少なくとも、単純な横領ではありません」


「何かを買うために必要だった」


「ええ」


「それも半年間」


「ええ」


 ジョーカーは帳簿を眺めた。


「これだけあれば、何人くらい養えます?」


 ダイヤは紙に数字を書き始めた。


 数度計算し直す。


「最低限の食事なら……二百」


 指が止まる。


「いえ。三百人前後」


「三百」


「薬もあります。薪もある」


「食わせているだけではない?」


「生活させている可能性があります」


 ジョーカーは黙った。


 三百人。


 半年間。


 誰かが、それだけの人間を養っている。


「しかし」


 ダイヤが眉を寄せた。


「三百人もの人間を、どこに隠す?」


「王都の外では?」


「これだけの物資を運び出せば、関所に記録が残ります」


「確認しましょう」


 搬出記録が机に広げられた。


 荷馬車。


 商人。


 積荷。


 行き先。


 ダイヤの指が、一行ずつ追っていく。


 しばらくして。


「……ない」


「ありませんか?」


「この量の物資が王都を出た記録はありません」


 ジョーカーは窓の外を見る。


 市場。


 教会。


 貴族街。


 そして巨大な王城。


「では」


 ジョーカーは静かに言った。


「まだ王都のどこかにある」


「その可能性が高いでしょう」


 ダイヤは帳簿を閉じた。


「探します」


「どこを?」


「物資は空から降ってきません」


 ダイヤが立ち上がる。


「どれほど上手く人を隠しても、物を運べば必ず数字が残る」


「なるほど」


 ジョーカーは笑った。


「さすがダイヤ様」


「褒めても何も出ませんよ」


「いえ」


 ジョーカーは机の上の帳簿を眺めた。


「ただ――」


 その声が少し変わった。


「一つ、不思議なことがありまして」


 ダイヤが足を止める。


「なんです?」


「半年ですよね?」


「ええ」


「三百人分の食料と薬が」


「ええ」


「半年もの間、動き続けていた」


「それが?」


 ジョーカーは笑っていた。


「王国の金をすべて見ている財務卿が」


 帳簿を指で軽く叩く。


「今日までお気づきにならなかった?」


 沈黙。


 ダイヤの目が細くなる。


「何が言いたいのです?」


「いえ」


 ジョーカーは帳簿を閉じた。


「本当に気づかなかったのか」


 ダイヤを見る。


「気づかないふりをしていたのか」


 部屋から、音が消えた。


「私を疑っているのですか?」


「もちろん」


 即答だった。


「スペード様も」


 一本。


「ハート様も」


 二本。


「そして、あなたも」


 三本。


 ジョーカーは笑う。


「仲間外れは可哀想でしょう?」


 ダイヤはしばらくジョーカーを見ていた。


 怒るでもなく。


 否定するでもなく。


「正しい判断です」


「おや」


「この規模の金と物資を、半年にわたって動かせる人間は限られている」


 ダイヤは椅子へ戻った。


「私なら、まず財務卿を疑います」


「ご自分を?」


「肩書きを、です」


「なるほど」


 ジョーカーが再び帳簿を開く。


「では遠慮なく」


「最初から遠慮などしていないでしょう」


 ジョーカーは一枚ずつ書類を確認していく。


 そして。


「……ダイヤ様」


「なんです?」


「これ」


 一枚の書類を差し出した。


 物資購入の承認書。


 その最下部。


 承認者の欄に、一つの署名がある。


 ダイヤ。


 財務卿本人の名だった。


 部屋が静まり返る。


「あなたの署名ですね」


「そうですね」


「覚えています?」


「いいえ」


「ご自分で署名したのに?」


「私は一日に何十枚もの書類を確認します」


「便利ですねえ」


 ジョーカーは笑った。


「何に署名したか覚えていなくても、財務卿が務まる」


「嫌味なら、もう少し捻りなさい」


「では」


 ジョーカーは署名を眺める。


「偽造された可能性は?」


「あります」


「本物の可能性は?」


「あります」


「どちらでしょう?」


「分かりません」


 ジョーカーが顔を上げた。


「珍しい」


「何がです?」


「ダイヤ様が数字以外で分からないと言うのは」


「署名は数字ではありませんから」


 ダイヤは書類を受け取った。


 しばらく眺める。


「……よくできています」


「偽物?」


「そうは言っていません」


「では本物?」


「そうとも言っていません」


「困りましたねえ」


 ジョーカーは楽しそうに笑った。


「何しろ私は、この辺りのことを何も教わっておりませんので」


 ダイヤの目が動いた。


「……まだ根に持っているのですか?」


「まさか」


「昔、あなたに何も教えなかったことを」


「とんでもない」


 ジョーカーは笑う。


「おかげで自分で勉強する癖がつきました」


「なら感謝してほしいものですね」


「さすがダイヤ様」


 ジョーカーは頭を下げた。


「損失まで利益として計上なさる」


「あなたに教えなかった判断は、今でも正しかったと思っていますよ」


「それは残念」


「あなたが数字を覚えたら、帳簿に落書きしそうですから」


「もうしましたよ」


 ダイヤが帳簿を見る。


 ジョーカーが吹き出した。


「冗談です」


「……いつか本当に城から追い出しますよ」


「陛下にお願いしてください」


 いつもの空気が戻る。


 だが。


 机の上には、笑えないものが残っていた。


 三百人分の物資。


 半年間。


 消えた献金。


 そして――


 財務卿ダイヤの署名。


「調べます」


「何を?」


「すべてです」


 ダイヤは承認書を持ち上げた。


「誰が申請し」


 帳簿を見る。


「誰が金を動かし」


 窓の外を見る。


「誰が物資を運んだのか」


「ご自分のことも?」


 ダイヤがジョーカーを見る。


「当然でしょう」


「もし、本当にあなたが承認していたら?」


「その理由を調べます」


「もし――」


 ジョーカーは笑った。


「あなたが犯人だったら?」


 短い沈黙。


 ダイヤは書類を机に置いた。


「その時は」


 ジョーカーを見る。


「もう少し上手く隠しますよ」


「……」


 今度はジョーカーが黙った。


 ダイヤは部屋を出ていく。


 ジョーカーだけが、その場に残った。


 机の上には、開かれた帳簿。


 その横には、ダイヤの署名。


 ジョーカーはそれをしばらく眺めていた。


 やがて。


「困りましたねえ」


 いつものように笑った。


 だが、その目は笑っていなかった。


 若者が消えた。


 献金が消えた。


 そして、物資が消えた。


 もし、そのすべてが同じ場所へ消えているのなら。


 誰かが。


 王都のどこかで。


 大勢の人間を、半年もの間――


 生かしている。

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