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王の愚者  作者: クロワ
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10話「先生」

何年も前。


まだ現王が、王子だった頃。


「先生」


少年王子が机に突っ伏していた。


「なんでしょう」


「もう嫌だ」


「何がです?」


「勉強だ」


「まだ始めて半刻ですが」


「十分だ」


「王になれば、もっと長く机に座ることになりますよ」


「なら王になりたくない」


少し離れた場所で、幼いニアが吹き出した。


「笑うな、ニア!」


「申し訳ありません、殿下」


まったく反省していない顔だった。


「先生」


「はい」


「父上は、なぜこんな勉強をさせる?」


「あなたが王になるからです」


「王になれば、皆が余の言うことを聞くのだろう?」


「ええ」


「なら勉強など必要ないではないか」


ハートはしばらく少年を見つめた。


「殿下」


「なんだ」


「外へ行きましょう」


     ◇


三人が向かったのは、王都の外れだった。


華やかな大通りとは違う。


狭い道。


古びた家。


働く人々。


遊ぶ子供たち。


王子が尋ねる。


「なぜここへ?」


ハートは、一人の男を指差した。


重そうな荷物を運んでいる。


「あの者の名前をご存じですか?」


「知らん」


「あちらの女性は?」


「知らない」


「あの子供は?」


「……知らない」


「では、彼らが今日、何を食べるかは?」


「知らない」


「何に困り、何を望み、何を恐れているか」


「…………」


「知りませんね?」


少年王子は黙った。


ハートは膝をつき、少年と目線を合わせる。


「それでもいつか、あなたの一言で彼らの人生が変わります」


「余の……?」


「税を上げれば、食事が一つ減るかもしれない」


「…………」


「戦を始めれば、父親が帰ってこない子供が生まれるかもしれない」


「…………」


「逆に、あなたの決断で救われる者もいるでしょう」


少年は街を見る。


「王とは……そんなに偉いのか?」


「いいえ」


即答だった。


少年が驚いて振り返る。


「王とは――」


ハートは微笑んだ。


「誰よりも責任が重い人間です」


「…………」


「殿下」


「なんだ」


「民を従える王になってはいけません」


ハートは少年の胸に、そっと手を置いた。


「民を導く王になりなさい」


「導く……」


「彼らより前を歩きなさい」


「…………」


「ですが時々、振り返ることを忘れないように」


「なぜ?」


「誰もついてきていなければ――」


ハートは優しく笑った。


「それは王ではなく、ただの迷子ですから」


後ろで聞いていたニアが笑った。


「殿下にはお似合いですね」


「どういう意味だ、ニア!」


「私は褒めたつもりですが」


「どこがだ!」


「仲が良いですね」


「良くない!」


王子は怒った。


ハートは楽しそうに笑っていた。


     ◇


帰り道。


王子は少し先を歩いていた。


その後ろを、ハートとニアが歩く。


「先生」


「何です?」


ニアが道の端を見る。


一人の男が兵士に捕まっていた。


その手には、一つのパン。


「離せ! 子供が腹を空かせているんだ!」


「盗みは盗みだ!」


兵士に連れていかれる。


ニアはその背中を眺めていた。


「悪い人ですね」


「そうですか?」


「パンを盗んだのでしょう?」


「ええ」


「なら悪人です」


ハートが足を止める。


「では、ニア」


「はい?」


「あなたが三日間、何も食べていなかったとします」


「…………」


「隣には、同じように腹を空かせた家族がいる」


ハートは近くの店先を見る。


「そして目の前にはパンがある」


「…………」


「盗みますか?」


「盗みません」


「死んでも?」


「…………」


ニアは答えなかった。


「安全な場所からなら、人は簡単に正しくなれます」


「安全な場所?」


「自分は腹を満たし、暖かい場所にいて――」


ハートは、連れていかれる男を見る。


「飢えている人間に『盗むな』と言う」


「…………」


「もちろん、盗みが正しいわけではありません」


「では、あの人は悪い人でしょう?」


「分かりません」


ニアが初めて困った顔をした。


「先生にも分からないのですか?」


「ええ」


「先生なのに?」


「先生は何でも知っている人ではありませんよ」


ハートは笑った。


「分からないことを、分からないと言える人です」


「…………」


「ニア」


「はい」


「人を裁く時、自分がその人より高い場所に立っていると思ってはいけません」


「なぜ?」


「下にいるように見える人間も――」


ハートはニアの頭に手を置いた。


「あなたが同じ場所に立てば、同じことをするかもしれないからです」


ニアは、もう一度男を見る。


「……難しいですね」


「人間ですから」


「人間って面倒ですね」


「そうですね」


「先生も?」


「私もです」


「殿下も?」


「もちろん」


少し先から声が飛んできた。


「聞こえているぞ、ニア!」


「おや」


ニアが笑った。


「耳だけは立派な王になれそうです」


「ニア!」


ハートの笑い声が、夕暮れの街に響いた。


     ◇


「――懐かしいですね」


ハートの声で、ジョーカーは現在へ戻った。


「ええ」


「覚えていましたか?」


「何をです?」


「パン泥棒の話です」


「はて」


ジョーカーは茶を飲む。


「昔のことですから」


「そうですか」


「…………」


「では、なぜ笑っているのです?」


ジョーカーの口元が止まる。


「先生」


「はい?」


「そういうところですよ」


「何がです?」


「さあね」


     ◇


ハートが一冊の帳簿を取り出した。


「さて」


空気が変わる。


「思想だけなら、私もここまで問題にはしませんでした」


「では?」


「北部から送られた献金です」


帳簿を開く。


「一部が、中央神殿へ届いていません」


ジョーカーの笑顔が消えた。


「いくらです?」


「金貨に換算して――およそ二千枚」


「…………」


「北部教区から送金された記録はある。しかし、大神殿側には受領記録がない」


「途中で消えた?」


「ええ」


「誰が管理を?」


「北部教区の司祭たちです」


「なるほど」


ジョーカーは帳簿を見る。


軍では、若者が消えた。


現場には、将官の士官章。


神殿では、献金が消えた。


そして双方から聞こえてくる。


――この国は弱くなった。


――強き王が必要だ。


「兵士の次は神官ですか」


「まだ決まったわけではありません」


「分かっていますよ」


ジョーカーは笑った。


「疑うことと、決めつけることは違いますから」


「あなたらしい」


「よく言われます」


ジョーカーが立ち上がる。


「では、調べてみましょうか」


「ニア」


「なんです?」


「一つ聞いても?」


「どうぞ」


「あなたは――」


ハートは穏やかに微笑んでいた。


「私も疑っていますか?」


「もちろん」


「そうですか」


「怒らないんですね」


「むしろ安心しました」


「なぜ?」


「私だけ疑われないのは、不公平でしょう?」


ジョーカーはしばらく黙っていた。


「……先生は、昔からそうですね」


「何がです?」


「私が嫌味を言っているのに、正論で返す」


「あなたも昔からそうですよ」


「何がです?」


「正論を言われると、嫌味で逃げる」


「…………」


ハートは微笑んだ。


「少しは成長しましたか?」


「ええ」


ジョーカーも笑った。


「嫌味の腕だけは」


「それは残念です」


二人は顔を見合わせた。


そして――


どちらからともなく、笑った。


ジョーカーがいつも浮かべている笑顔とは、少し違った。


かつて。


一人の少年が先生に向けていたものと同じ笑顔だった。


     ◇


大神殿を出る。


夕暮れの王都。


ジョーカーは一人、階段を下りていく。


軍では、消えた若者。


神殿では、消えた金貨。


そして――


その裏で囁かれる、同じ言葉。


強い国。


強い王。


「…………」


ジョーカーは一度だけ振り返った。


大神殿を見上げる。


「先生」


小さく呟く。


笑う。


「あなたまで嘘つきだったら――」


一瞬だけ、言葉が止まった。


「……少し、困りますね」


ジョーカーは再び歩き出した

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