第二話 (1)
カーテンの隙間から差し込む陽光が、微睡む意識を揺り起こす。緩やかに浮上していく感覚の中で一番最初に肌を浸したのは、全身を包む幸福な倦怠感だった。
チュン、チュン……。
祝祭を奏でる小鳥達の調べが、朝の訪れを告げている。けれど昨夜の出来事は未だ鮮明に、私の脳裏に焼き付いていた。
夜会での神経戦。セシリアとの対決と、クリストファーの尋問ダンス。そして帰りの馬車でジェームズが露わにした、魂の根源まで食み尽くす程の苛烈な激情の嵐。
屋敷へ辿り着いた頃には指先一つ動かせないくらいに、私は骨の髄まで蕩かされていた。
「……ん、ぅ……っ」
次に私の感覚を絡め取ったのは。頬を愛でる温かな指先と、甘く漂う紅茶の芳香。そして呼吸を塞がれる、官能的な息苦しさ。
妙な違和感を覚えて、重い瞼をそっと持ち上げる。視界いっぱいに広がったのは、細やかに砕け散る銀色の粒子だった。
「………?」
窓から零れる温かな射光が、白銀の髪を鮮やかに透かしている。神々しいまでの輪郭を描き出す一寸の乱れも無い黒の燕尾服を纏うその姿は、至高の芸術品が命を得て佇んでいるかのように完成された美しさを湛えていた。
「おはようございます。私の、可愛いお嬢様」
互いの吐息が混ざり合う至近距離から落とされたのは、愛しい恋人から与えられる極上の低音ボイス。それは朝一番で摂取するには、あまりにも刺激が強過ぎる。私の思考回路を一瞬で焼き切る程の劇薬だった。
(みぎゃあああ~~ッ!!?)
内心で阿鼻叫喚の嵐を巻き起こし、反射的に布団を跳ね除けようとするけれど。腰へ回されている黒い両腕が、まるで鉄の枷にも似た執拗さで、この身体を繋ぎ止めて離さなかった。
(まっ、待って待って待って! お願いだから、ちょっと待って欲しいッ! わ、私…今推しに、キスで、キスで起こされたの!?)
眼前に迫り来る深く澄んだ蒼の瞳が、驚きと羞恥で真っ赤に染まった私の顔を寸分違わず映し込んでいた。
ヤバい。近い。物凄く。物理的に、近過ぎる!
「ジェ、ジェームズ!? な、ななな、な、なん、な、なんでっ!!?」
推しによる目覚めのキス。それは私が彼に『異世界人』である事を打ち明けた翌朝以来の、通算二度目の奇跡イベントである。
だがしかし。二度目だからといって、耐性が付くなんて事は有り得ない。むしろ初回以上の熱量を伴うその一撃は。私のオタクとしての尊厳を粉々に打ち砕き、生命の維持装置を根底から狂わせていた。
(む、無理! 推しとのキスなんて、毎回新鮮に死ねるわよ! むしろ回数を重ねた分だけ致死率も跳ね上がっているような気がするんだけど! その辺りどうなっているんですかねジェームズさん!?)
そもそも一度目は、覚醒後に贈られた明確な余韻であり、添い寝をしてくれていたジェームズに対する驚きに意識を割ける余裕すらあったのだ。
それが今朝はあろう事か、覚醒直前の『目覚めの儀式』として執り行われてしまったのである。形式は似ているかもしれない。だがそこに込められている熱量と破壊力は、天と地が逆転するくらい違う!
「随分と愛らしい反応を為さるのですね? これほどお喜び頂けるのであれば、毎朝の日課にしても良さそうです」
後ろ手にシーツを握り締め。顔を真っ赤にして硬直する私を眺めるジェームズは。薄い唇に愉悦混じりの笑みを浮かべ、喉奥から蠱惑的な残響を孕む低声を漏らしていた。
……なんて色っぽい笑い方をするんだ私の推しは。こんなのトキメク以外の選択肢が存在しない。
「べ、別に喜んでいたわけでは…。いや、正直めちゃくちゃ喜んでますけど! でも流石に私だって、心の準備くらい……ッ!」
「準備など必要ありません。貴女はどんな時でも、世界で一番美しいのですから」
陶酔を誘う囁きを耳元へ残し、ジェームズは慈しむように私の額へ唇を落とし込む。静寂を乱す湿ったその吐息は、既に羞恥で爆発しそうになっていた私の自制心をいとも簡単に崩壊させてしまった。
(いやああああああ! ジェームズが甘い! 甘過ぎる! こんなの物語の中にしか出てこない『溺愛彼氏』の典型例じゃないの! ヤバい! 無理!! 好き!!! 結婚して!!!!)
ジェームズを困らせたくなくて。両手で赤面する顔を覆い隠し、心の中でひたすら推しへの愛を叫んでみるけれど。私の心臓は全然全くこれっぽっちも落ち着いてはくれなかった。
目覚めのキス。挨拶代わりのキス。そんなのは私にとって、本の世界でしか拝めない夢物語だったというのに。それが今の私の、日常になっている。
幸せ過ぎて、むしろ怖いくらいだ。いつの日か対価を請求された時。私は一体何を捧げれば、赦して貰えるのだろうか?
「……貴女は本当に、私の目と心を、片時も離して下さらない」
逃げ場の無い灼熱の火照りに身を焼かれている私を余所に。ジェームズは満足げに瞼を細め、恍惚とした吐息を溢れさせる。
流麗を極めた身のこなしで彼は私の首筋へ顔を預けると。柔らかな皮膚を確かめるように、自らの頬を擦り寄せて来た。
「……んっ、ジェームズ……?」
「もう少しだけ、貴女の体温を感じさせて下さい」
さらさらとした銀髪が頬を擽り。首筋へ落とされる小さな息遣いが確かな熱を伴って、私へ流れ込んでくる。
その仕草は敬愛する主人にじゃれつく大型犬そのもので。普段の冷徹で完璧な執事の姿からは想像出来ない程の、無防備で甘えたがりな一面だった。
「あらあら、ジェームズは甘えん坊さんなのね?」
「……貴女の前だけです」
「ふふっ、もう…拗ねないの。貴方の特別に成れて、私、とっても嬉しいわ」
込み上げる愛おしさを抑え切れなくて。私はジェームズの後頭部へ、そっと手を伸ばす。穏やかな笑みを浮かべながら、ヨシヨシと幼子に触れるような手付きで美しい銀髪を撫でてみる。
「…………」
すると彼は心地良さそうに、薄く瞼を細めてみせる。陶器の如き白い頬は仄かな朱に染まっていて、甘えを乞う子犬にも似た純真さで、更に深く擦り寄って来た。
少し高めの体温と。この身に感じる確かな重みが。堪らない程に愛おしい。
(可愛いなぁ…。そういえばジェームズって、男爵家の次男だったわよね……)
ふと、小説の設定が脳裏を過る。
家督を継ぐ立場に無い次男坊だからこそ、こうして公爵家に仕えているわけだけど。本来の彼は誰かの懐に潜り込み、体温を強請る末っ子特有の愛らしさを備えていたのかもしれない。
私の内なるキャンバスに、幼少期のジェームズを描き出す。まだ世界が自分よりずっと高く、広いと感じていた頃の彼。母や兄の衣の裾を掴まんばかりの勢いで、トコトコとその後ろを付いて回るあどけない顔をした銀髪の少年。
きっとその頃から天使のように可愛くて、家族みんなに頭を撫でられていたに違いない。
(……っ、だめ…。この妄想は、あまりにも破壊力が高過ぎる……ッ!)
追憶の中の幼い少年と。蕩けた瞳で私を求める現在のジェームズが。残像となって重なり合い。私の鼓動に制御不能な跳躍を刻み出す。
非の打ち所が無い程に完璧な執事が秘めていた(であろう)末っ子という弾丸に、私のオタクとしての魂は完膚無きまでに貫かれていた。
「あ、あのね、ジェームズ。貴方の昔の肖像画とかって、ご実家に…残ってたりする? もしあるなら、私、見てみたいんだけど……」
下心しか無かった。今の私は恐らく、自分でも引く程だらしない顔をしていたと思う。胸奥から込み上げてくる欲望を抑え切れず、つい口を滑らせてしまった。
私の無邪気な言葉の刃が。彼の心の柔らかい場所を。容赦無く切り裂いているのも知らないで。
「………………」
ほんの一瞬。瞬きをするよりも短い空白の時間。ジェームズは全ての動きを止めていた。
彼は端正な顔をゆっくりと持ち上げて、音も無く私を見下ろしていた。その相貌に浮かんでいたのは、無垢な甘えを打ち消す程の。異質な翳りをも感じさせる、虚ろで歪な笑みだった。
「……さあ? どうでしょうね? とうの昔の事ですので」
「え?」
底知れぬ深淵を映す蒼い瞳が、妖艶な光を宿して私を正面から射抜いている。互いの額が重なって。吐き出された冷たい呼気が。縋る様に混ざり合っていた。
「過去の肖像画など、ただの色褪せた紙切れです。貴女には、『今の私』がいれば充分ですよね?」
「!?」
問い掛けと同時に、私の唇は塞がれていた。肯定以外の答えを塗り潰す。肺の奥まで侵食する重厚な熱が。其処には込められていた。
言葉を奪われた後は。甘い音を奏でる断続的な接吻が、雨となって肌を濡らしていく。頬へ。こめかみへ。そして瞼へ。刹那の接触を繰り返すその嵐は。私の全てを吸い尽くさんとする。秘められた狂熱のようだった。
「んっ、ふふっ、くすぐったいわ、ジェームズ…。ふふふっ…」
「私だけを見てください。……大好きです、お嬢様」
掠れた声で紡がれる言葉の礫に、思考が少しずつ溶かされていく。私の知らない過去のジェームズを、知りたいという気持ちは勿論あるけれど。
(ジェームズの中では黒歴史になっているのかもしれないし。知られたくない過去を無理に聞き出して、傷付けちゃうのは絶対にダメ。……我慢しなきゃ)
誰にだって他人に知られたくない過去の一つや二つ、有って然るべきである。それを恥じる必要など、何処にも無いのである。ジェームズが敢えて過去を秘匿するのであれば。私はその秘密ごと、彼を包んであげれば良い。それだけの話だ。
溢れ出る愛おしさに瞳を伏せて。私は導くように、彼の両肩へ手を伸ばす。交錯する蒼の双眸に吸い寄せられて、そっと唇を重ね合わせた。
「……このまま、続きをご所望ですか?」
開いた瞼の先では。ジェームズが小首を傾げ、観る者を惑わす扇情的な笑みを口元へ描いていた。瞳の奥に潜む艶やかな色香が。冷徹な執事の表皮を突き破る妖しげな眼差しが。抗い様も無い程に、私を魅了していた。
「……っ……、……っっ!?」
思わず視線を奪われてしまった。一人の男として。彼が晒す剥き出しの誘惑を目の当たりにして。私の心臓が特大の警告音を、容赦無く打ち鳴らしていたから。
「ダメですッ!!」
「……………」
「お願いだからもっと自分の魅力を自覚して! 私は貴方が思うほど善良な人間じゃないのよ!?」
普段は胸の内に留めているオタクとしての本音が、今回ばかりは流石に飛び出てしまった。後悔はしていない。むしろ良くぞ言ってくれたと、自分で自分を褒めてあげたいくらいだ。
だってこのままでは本当に、ジェームズが危ないのだ。彼はこんなにも綺麗で、美しくて。触れれば容易く亀裂が入ってしまう程に、尊い存在なのだ。そんな彼を私がどうにかするだなんて、仮定を考える事すら烏滸がましい。
奥歯を噛み締めて。苦渋を飲み込む剣幕で。私は彼の大きな肩を。グっと押し退ける。全ては推しの。清らかな御身を。守る為に!
「……左様でございますか。私としては、このまま時が止まれば良いとさえ、願っていたところでしたのに」
心底名残惜しそうに、ジェームズは私の唇を白い指先でひと撫でしてから。そっと身体を離してくれる。哀愁漂うその相貌には、明らかな落胆の感情が張り付いていた。
(……うっ。なんか、ジェームズの頭に、垂れ下がった犬耳が見えるんだけど。気の所為、だよね…?)
悪い事をしたとは思わないが。推しに哀しい顔をさせてしまった事実は、やっぱりとても辛いのである。ベッドサイドへ用意されているモーニングティーの湯気が、私の心を慰めるかのように優しく頬を撫でていた。
「お身体の具合はいかがですか? 昨夜は随分と、お疲れのご様子でしたので」
「う、うん。おかげさまで、ぐっすり眠れたわ。……色々と、その、凄かったし」
昨夜のジェームズは、本当に容赦が無かったのだ。私の肌に残るクリストファーの痕跡を、文字通り『上書き』し尽くすまで、執拗に愛でられたのだ。
結局、着替えからベッドへ運ばれるまで。私の全てはジェームズの意のままに委ねられ、完成されていたような気がする。
こんなの、完全にキャパオーバーだ。思い返すだけで顔から火が出そうだった。私は頭を振って、誤魔化すようにベッドから降りた。
その時だった。
「……ん?」
ふと、首筋に微かな痛みを感じて。思わず手を添えてみる。
確か此処は。昨夜ジェームズが、最後に唇を押し当てていた場所だ。焼け付く痛みと共に。熱い何かを注ぎ込まれたような不思議な感覚が、未だ色濃く残っている。
「ねぇジェームズ。ここ、何か付いてる?」
身嗜みを整えようとドレッサーへ向かい掛けた私を、背後から滑り込んできた黒い両腕が、囲うように抱き締める。私の手を優しく導き自由を奪ったジェームズは。露わになった首筋へ、熱く、甘美な視線を注いだ。
「そうですね。息を呑む程に、美しい『花』が咲いておりますよ」
「花……?」
「ええ。こんなにも深く、愛らしく残っている。実に誇らしい気分です」
鮮やかな蒼の双眸が。内なる歓喜に打ち震えるように、ゆっくりと細められていく。そこには聖域に攫った獲物を蹂躙する獣にも似た、昏い欲求と加虐的な愉悦が込められていた。
「今の季節には少々暑いかもしれませんが。本日は此方を、お召し下さい」
ジェームズがクローゼットから取り出したのは。沈殿する藍の静寂を纏った。喉元までを端正に包み込む、スタンドカラーのドレスだった。
「……これ、随分と襟が高いのね?」
「今の貴女には、これが『最適』です」
意味深な笑みを浮かべるジェームズは。手際良く私の寝間着のリボンを解いていき、滑るように脱がしていく。
「……っ…」
露わになった素肌に朝の冷気が触れる間も無く。用意されたドレスが頭上からふわりと被せられ、この身を優しく包み込む。トン、トン、と一定のリズムで留められていくボタンの感触が。背骨を伝って微かに響いていた。
「隠してしまうのが惜しい程に、美しい赤です。……ですがこれは、私だけの秘密」
熱を帯びた囁きと共に、最後のボタンが留められる。襟元が締まり。私の首筋へ残された痕跡は。完全に布地の下へと秘匿された。
「他の誰にも、見せるつもりはありません」
鏡越しに、視線が絡み合う。首筋の輪郭さえ隠蔽する私の姿を捉えたジェームズは。満足そうに、けれど背徳的な笑みを浮かべて、小さな呼気を零していた。
「…………」
その一連の動作と、含みのある物言いで。寝起きで思考が鈍くなっている今の私でも、流石に察してしまった。
額に手を当てて。顔を俯かせる。冷たい汗が、私の頬を、滑り落ちたような気がした。
(い、いやいや、そんな、まさか…、有り得ないわよ。だって、あの完璧で禁欲的で潔癖なジェームズが、目に見えるような痕を、わざと残すなんて、そんな、とんでもない事を……)
そう。常識的に考えれば、有り得ない。彼は主人の体面を何よりも重んじる、プロの執事だから。しかし昨夜の彼は、どうだっただろうか?
──今すぐ貴女の美しい身体から、あの男の不浄な痕跡を消し去る必要があります。……一滴も残さず、徹底的に。
あの時。彼は確かに、理性の箍を外していた。クリストファーへの激しい嫉妬と。私への狂おしい執着で。その瞳を極限まで、濁らせていた。
(……いや、ある。あの時のジェームズなら、全然やっててもおかしくない……ッ!)
身体の奥底から込み上げてくる熱量に、視界が白く滲んでいく。
手首の圧痕は昨夜の丁寧な『上書き』によって、だいぶ赤みは引いているけれど。この首筋に未だ残っているのは。彼が私を『所有』しているという。鮮烈で明白な愛の証。
(嘘ぉ……っ! 推しに所有印付けられるとか、そんな夢小説みたいな展開が現実に起こって良いの!? しかも独占欲全開で『誰にも見せない』とか、最高過ぎて目眩がするッ!!)
頬が緩んでしまうのを懸命に堪え、火照った顔を隠すように項垂れる。ジェームズは語るよりも饒舌な沈黙から私の胸中を全て読み取ると。いっそ残酷なまでに、喉奥で低く笑ってみせた。
「……自覚して頂けましたか? 貴女はもう髪の先から爪の先まで、私の所有物だという事を」
悪戯に成功した子供のように。ジェームズは口元へ作為的な弧を描き、襟の上から『印』がある場所へ、そっと唇を落とし込む。
布越しの接触なのに。直接心臓を鷲掴みにされたような気がして、鼓動が凄まじい程に高鳴った。
……ムリ。推しの猛攻が止まらない。タスケテ。
「……ジェームズの意地悪」
「おやおや、困りましたね。昨夜はあんなにも愛らしく、私の鳥籠は世界で一番安全な場所だと、打ち明けて下さいましたのに。私は貴女の忠実な執事として、貴女の体面を保つ為に、完璧に秘匿しているだけですよ?」
「うっ……うぅっ…」
返す言葉が無い。今の私は完全に、彼の掌の上だった。心を許させる無垢な年下感と、剥き出しの渇望を孕む強引な支配欲。目眩がする程の温度差に、理性が砕け散りそうだった。
私は降参するように。両手を上げて、溜息混じりの笑みを返す。この甘やかな敗北感は、決して悪いものでは無かったから。
「支度が整いましたら、まずは朝食を。昨夜の『戦果』についても、じっくりお話しなくてはなりませんからね」
ジェームズは私の指先に掌を重ね、洗練された所作でエスコートを引き受ける。
先程までの甘く濃密な熱は、深い淵の底へと沈殿し。代わりにこれから始まる『欺瞞の舞台』を共にする、頼もしい覚悟が宿っていた──。




