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偽りの悪役令嬢は屈しない  作者: さけのきりみ
三章 聖域の剪定者
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第一話 (3)


 ソーサーの上で小気味良い音を立てていたティーカップは、微かな振動と共に静止する。ルーキスの指先から滑り落ちたわけではない。だが彼の手は、カップを口元へ運ぶ途中で完全に凍り付いていた。


 常に穏やかな笑みを絶やさず。何事にも動じない筈のこの男が。目を丸くし。口を半開きにしたまま固まっている。ルーキスのそんな顔を、俺は初めて見た。


「……クリス。悪いんだけど、もう一度言ってくれるかい?」

「何度でも言うが? あの女と生涯を共にするくらいなら、俺はイザベラを選ぶ」

「ん゛んっ……!」


 口元をハンカチで必死に押さえ、彼は肩を震わせ耐えていた。何がそんなに可笑しいのか。俺は至って真面目な話をしているというのに。


「…………………」


 瞼を伏せ、射貫くような眼差しを向けてやると。ルーキスは決まり悪そうに視線を彷徨わせ、慌てて背筋を伸ばし始めた。

 

「あー……、うん。ごめんごめん。いやぁ、驚いた。あの潔癖で選り好みの激しい君が、まさか特定の女性の名前を、そこまで熱烈に挙げるとは思わなくて」

「熱烈でも何でもない。純粋な比較論だ」


 俺は傲岸不遜に脚を組み直し、ソファの背凭れへ深く身を沈める。失言だったとは思わない。むしろ溜め込んでいた本音を曝け出した事で。胸奥に渦巻いていた不快な軋みが。取れたような気分だった。


「比較論、ねぇ。僕には今の君の顔が、恋に落ちた男の顔に見えるけど?」

「……は?」

「自覚が無いのが一番性質が悪いって、聖典にも書いてあった気がするなぁ」

「適当な事を言うな。俺がイザベラに向けているのは、そんな浮ついた感情じゃない」


 そう。これは決して、恋情などではない。もっと重く。苦い。鉄錆のような。果たさねば成らない責務なのだ。


「俺にあるのは……ただの後悔だ。あの日イザベラは助けを求めていたかもしれないのに、俺は目を逸らした。その無様な楔が息を吸う度に、俺の心臓を抉るんだ」


 抱えていた想いを吐き出せば。肺腑はいふに澱んでいた筈の痛みが、疼き始めるのを感じる。


 これは俺を貫く信義なのか。それとも騎士としての責任なのか。或いはもっと、個人的な──。


「彼女が不当な扱いに苦しんでいるのなら、騎士として手を差し伸べるのは当然だろう? 公爵家の名誉を回復する為には、確固たる権勢を持つ家門との婚約を以て、歪められた評価を根底から覆すのが最善だ。

 俺はただ、『公平』で在りたい。それだけの事だ」


 己を納得させる為に言葉を尽くしても。喉元を迫り上がる重苦しい感覚は、一向に消え去る様子が無い。


 正義や公平さだけでは説明の付かない。あの夜会で感じた確かな戦慄。彼女と対峙した瞬間に走った、途方も無い熱源。あれが一体何なのか。俺自身にも、整理が付けられずにいた。


「……なるほどね。君がそこまで言うなんて、よっぽどの事があったんだな」


 内心の葛藤を悟ったのか。ルーキスは悪戯な笑みを消し去り、慈しむような眼差しをそっと注いでくれる。清澄せいちょう香気こうきを纏ったその瞳は、ただ真っ直ぐに俺だけを捉えていた。


「公平でありたい、か。うん、実に君らしい言葉だ。でも、それだけじゃないんだろう? その眉間の皺が、君の心が迷子になっていると教えてくれている」


 新しい茶葉を手際良くポットへ収めながら。棚引たなびく香りに乗せるように。ルーキスは言葉を重ねていく。


「君が『何億倍もマシ』だなんて強い言葉を使うのは、それこそ最大級の賛辞に他ならない。君は普段、貴族のご令嬢が近付いて来ただけで、露骨に距離を取るよね。『香水の匂いがきつい』だの『視線が生々しい』だのと、文句を言ってさ」


 茶化すな。と視線で牽制するが、全く動じる気配は無い。むしろその語り口は真理を説く賢者の様に穏やかで。凝り固まった自責の念を内側から融かしてしまう程の、不思議な温もりを孕んでいた。


「比較対象が極端だとしても、君が女性に対して肯定的な評価を下すなんて、それこそ稀なケースだ。その口ぶりから察するに、彼女の変化は君にとって、かなり好ましいものだったようだね?」


 聖職者特有の洞察力なのか。それとも深い付き合い故なのか。ルーキスの言葉は俺が自覚したくない核心を、的確に突いていた。


「……好ましいかどうかは別として。少なくとも、会話が成立する相手ではあった」

「それ、一見ハードルが低いようで、君にとっては一番高い壁だよね?」

「…………」


 視線を天井へ逃がし、苦い沈黙を守る俺に。彼は楽しげに頷きながら、淹れたての紅茶をそっと置く。


 立ち上る湯気の向こう側で。新緑の瞳が慈しむように細められる。そこには惑う魂の真実を手繰り寄せようとする、聖者の光が宿っていた。


「僕はエレンとはずっと一緒だったけど、イザベラ嬢とは接点が無かったからね。彼女の事は、君や他の人達から聞く、噂話でしか知らなかった」


 恐らく今ルーキスが思い返しているのは。聖女エレンディラが現れる前の。まだイザベラが無垢だった頃の、風聞ふうぶんに違いない。


「フィリップ殿下を想うあまり空回りして、周囲を巻き込み自滅していく。その必死さは噂として聞くだけでも、痛々しい程だった。

 でも君の話を聞く限り。記憶を失った事で彼女を縛り付けていた執着や重圧が消えて、本来の魂の輝きを取り戻したのかもしれないね」


「取り、戻した……?」


「人は誰しも魂の奥底に、不変の輝きを宿して生まれて来る。たとえ過酷な境遇や、拭い切れない感情のおりに覆われようと、本質まで変わるわけじゃない。

 もし今のイザベラ嬢が、君の心を動かす程の輝きを放っているのなら。それは彼女が『本当の自分』を見付けられた証と、言えるんじゃないのかな?」


 ルーキスの言葉は。硬く閉ざしていた筈の鎧の隙間に、驚くほど自然に染み渡った。


 あの夜会で彼女が纏っていた、近寄り難い気高さと。絶望的な境遇を突き破ろうとする、揺ぎ無い不屈の精神。それは借り物の矜持で演じられるような、底の浅い虚飾などでは無かった。


「どんな風に変わったのか、詳しく聞かせてくれないかい? 君がそこまで評価するなんて、よっぽどの事があったんだろう?」


 瞳を緩く細めたルーキスは、穏やかな声で促してくる。それは単なる好奇心では無く。弟分の成長を見守る、とても温かな眼差しだった。


 観念するように、重い口を開く。少なくとも今の俺には、この得体の知れない感情を整理する為の。『言葉』が必要だったから。


「……夜会で、俺はイザベラを問い詰めたんだ。『お前は何者だ』、と」

「いきなり核心を突いたね。流石は尋問官」

「だが、彼女は動じなかったんだ。それどころか、俺にこう言ったんだ。『貴方のような高潔な騎士様に終わらせて貰えるのなら、潔く裁かれるのも悪くない』と」


 瞼を伏せて思い出す。あの時のイザベラを。俺は鮮明に覚えている。


「自分の命運を君に委ねると、イザベラ嬢は言ったのかい?」

「ああ。彼女は己の首を差し出す事に、微塵の躊躇いもなかった。それどころか俺に全てを預ける事が、『救済』であるとでも言いたげで……」

 

 恐怖に竦む事も。色に媚びる事も無く。ただ『俺』という人間を、彼女は受容していた。その凛然りんぜんたる潔さが。至愛しあいの眼差しが。俺の心に、二度と抜けない杭を打ち込んだのだ。


「それは……凄いな。自分の正義を信じて疑わない君を前にして、そんな言葉を吐けるなんて」

「それだけじゃない。その後すぐに血相を変えたセシリアが乱入して、俺達を力任せに分断したんだが」


 思い返すだけで眩暈を覚える程の、目も当てられない醜悪な光景。その窮地を覆した見事な逆転劇は。今も尚鮮烈に、俺の網膜に焼き付いている。


「セシリアは俺がイザベラにたぶらかされたと喚き散らし、騎士としての名誉を傷付ける言葉を叫び続けた。

 俺は立場上、公爵令嬢であるイザベラを無下に扱う事は出来ない。だがセシリアを否定すれば、マルケス侯爵家との関係が悪化する。……正直、あの時の俺は詰んでいた」


 動けなかった。あれはどちらに転んでも、地獄でしかなかった。


 だが。


「何も言えない俺の代わりに、イザベラはセシリアへ、一歩も引かずに言い放ったんだ。『アークライト様は公務として、私を監視していただけだ』と。

 そして俺の行動の全てを、騎士としての高潔な任務だと定義し。セシリアの嫉妬を、浅はかなヒステリーだと断じてくれたんだ」


 あの瞬間、場の空気が一変したのを肌で感じた。イザベラは自身の評判など意に返さず。ただ俺の名誉を守る為だけに。『悪役』を演じ切ったのだ。


「その結果。セシリアは孤立し、俺は被害者として同情される立場になった」


 自嘲気味な笑みを唇に浮かべ。揺らめく湯気と共に、淹れられたばかりの紅茶をそっと一口含む。鼻腔を湛えるアールグレイの芳醇な香りが、俺の傷んだ心を撫でてくれているようだった。


「情けない話だ。国を護る聖騎士団の副団長が、か弱き令嬢に庇われたんだからな。だがあの時のイザベラの背中は、そこらの騎士団員なんかより、よっぽど頼もしく見えたんだ」


 自分の身を挺して、他者を守る。それは口で云う程、簡単な事じゃない。


 ましてや敵対していた相手の為にそれが出来る人間なんて。それこそ砂漠に零れた一粒の真珠を探し当てるより、ずっと困難な奇跡に等しい。


「……イザベラは、強かったよ。俺が手を差し伸べる必要など無いと思える程に。気高く、美しかった」


 その事実を口にした途端。背筋には冷たい風が吹き抜けて。瞼に暗い影が差し込んで。足場が凍り付く心地がした。


 イザベラは変わった。凄絶せいぜつに。そして、根源的に。


 それはつまり、俺が密かに罪悪感を覚えていた『イザベラ』が。この世界の何処にもいないという事に他ならない。


 高潔である事は素晴らしい。だがその輝きは。俺が知っていた『イザベラ』の、喪失の上に成り立っている。


 感情的で、未熟で、愚かだったけれど。確かにそこにいた筈の、人間らしい少女。その存在が完全に上書きされてしまったという事実を。俺は今更ながらに。叩き付けられたのだ。


(………無様だな…)


 俺の相貌に浮かんだ複雑な陰りを見て取ったのか。ルーキスは静かに。けれど力強く。言葉を繋いでいく。


「他者をおもんばかり、守るべきものの為に我が身を犠牲にする。まさに神が望む人の在り方だね。でもそれってさ。君が誰よりも重んじ、信条としている、『騎士道精神』そのものじゃないのかい?」


「──ッ!!?」


 その言葉は。いかなる刃よりも鋭く。俺の魂を真っ向から貫いた。


 どうしてこんなにも、今のイザベラから目が離せないのか。

 どうしてあの背中に、抗い様の無い焦燥と胸の高鳴りを覚えたのか。


 かつてのイザベラはその人間らしさ故に、放って置けない存在だった。感情のままに生きる不器用な姿に呆れながらも、どこか憎めない愛嬌を感じていた。


 だが今のイザベラは違う。彼女は俺と、同じ場所に立っている。俺が目指し、追い求め、己を律し続けて来た『理想』を。あろう事か彼女は、体現していたのだ。


 それは庇護欲などという惰弱だじゃくな感情では無い。同じ志を持つ者としての敬意と、魂の根底で響き合う宿命的な共鳴。


 以前の彼女からは得られなかった。背筋が伸びるような緊張感と。それ以上に心地良い、身が奮い立つ程の高揚感。


 その正体を。俺はようやっと、理解した──。


「……参ったな」


 片手で目元を覆い隠し、深く長い溜息を吐く。


 認めたくは無い。だが、認めざるを得ない。俺は今のイザベラに。騎士として、そして一人の男として。理性で制御し切れない程の、魅力を感じてしまっている。


 その事実は。俺の心にずっと突き刺さっていた楔を。意図も容易く焼き尽くし。口元には自然と穏やかな笑みが浮かび上がり。緩く開いた唇からは。乾いた吐息が漏れ出ていく。


「…………」


 そんな俺を眺めるルーキスは。何も言わず。けれど満足そうに頷きながら。頬杖を付いていた。


「……なんだよ」

「いやぁ、君の好みのタイプって、エレンみたいな儚くて守ってあげたい女性だと思ってたんだけど。案外背中を預けられるような、強い女性が理想だったんだね」

「なっ……!?」

「でも君の隣に立つんだから、むしろそれくらいの強さがなきゃ務まらないか。いやはや、君も中々に理想が高い」

「そ、そういう話はしていない! 俺はただ、彼女の在り方に敬意を……!?」

「ふふっ。おやおや、顔が赤いですよ? 副団長殿?」

「~~~……ッ」


 反論はしたい。だが、言葉が続かない。彼女の強さに惹かれたのは紛れも無い事実で、それを『理想』と言われて即座に否定出来ない自分もいた。敢えて言葉にしてしまった事で、俺は気持ちを自覚してしまったから。


 それは良い事なのか。それともとんでもない悪手なのか。その判断をするには。俺は今の彼女の事を。あまりにも知らなさ過ぎる。


「そういえばさ。その夜会って君が公務で参加するくらいだから、聖女派の夜会だよね?」

「……? ああ、そうだ。王家の遠縁に当たる、カッセル伯爵家の主催だ。マルケス侯爵家も後援に名を連ねていたからな」


 拍子抜けする程の普通の質問に、俺は素直に答える。だがその返答を聞いた途端。ルーキスは静かに瞼を閉じ、祈るように両手を組んだ。


「……そう、カッセル伯爵家……」

「どうした?」

「カッセル伯爵夫人は、今の腐敗した社交界を誰よりも憂いている高潔な御方だからね。……なるほど、舞台は整いつつあるというわけか」


 独り言のように彼は呟くと、澄み切った瞳で此方を見据える。その双眸には天啓を受けた者特有の、厳粛な確信が宿っていた。


「もしイザベラ嬢の魂が、君の言う通り大きく変化して。本来の輝きを、取り戻しているのだとしたら。そして彼女が敢えて四面楚歌である筈の、『聖女派の夜会』へ参加したのだとしたら。

 それは彼女が自身へ与えられた試練に、立ち向かう覚悟を決めたという証拠。そしてその覚悟はきっと停滞していたこの国の、歪みを正す力になる」


 聖者の口元へ、柔らかな放物線が浮かび上がる。それは遥か高みからこの地を見下ろし。懸命に生きる人々を慈しむ。どこまでも透徹とうてつな微笑みだった。


「僕達が抱えている問題と、イザベラ嬢の周囲で起きている暗雲。恐らくこれは地続きだ。『悪女』という偶像を生贄に捧げて。公爵家を糾弾の的に据え置いて。民衆の憎悪が彼女を苛んでいる間に、裏では醜悪な私欲の分配が繰り返されている。

 だとしたらイザベラ嬢は今たった独りで、巨悪と戦っている事になる」

「………!」


 敵意に満ちた戦場で。彼女はドレスの裾を翻し。絶望を塗り潰す程の気高さを演じていた。その美しい笑みの裏側で。どれほどの孤独が彼女を蝕んでいたのか。それを想像するだけで、胸が締め付けられる心地がした。


「クリス。もし君が、かつての彼女を救えなかった事を、後悔しているのなら。手を差し伸べなかった事を、今も憂いているのなら」


 閑寂かんじゃくな響きの中に逃げ場の無い熱を込めて、彼は囁くようにそっと俺に語り掛ける。


 それは対等な友としての助言でありながらも。同時に惑いの霧を振り払う、先導者の啓示でもあった。


「僕達は、『協力』出来ると思うんだよね」

「……協力?」

「そう。共通の敵を持つ者同士、手を取り合うのは必然だろう?」

「!?」


 弾かれた様に息を呑む。個人的な感情に流されて、重要な視点を見落としてしまう所だった。


 騎士団の備品不足。教会の補助金未達。そしてリリエンタール公爵家に対する、組織的な毀損工作きそんこうさく


 これらが全てマルケス侯爵家という、同じ穴のむじなによって行われているのだとしたら。俺達だけでは手詰まりだった盤面に、新たな駒が加わるかもしれない。


「……なるほど。確かに、アンタの言う通りだ」


 この腐り切った社交界の現状を覆す程の、強大な鍵。かつては伸ばす事の叶わなかったこの手を。今度こそ、俺は──。


 その思考に至った、まさにその瞬間だった。


「────ッ!?」


 ゾクリ、と。背髄を氷柱で貫かれたような、鋭い戦慄が全身を駆け巡った。


 俺の意識を強襲したのは、夜会の喧騒が遠のく舞踏室の片隅。光と闇が混濁こんだくする境界線に、異物の如く佇む白銀の男。蒼き双眸によどんでいた。全てを飲み込み、他者を拒絶する、底知れぬ無の深淵。


 ──私の牙は、お嬢様の安らぎを乱す外敵を骨ごと食い破る為の『道具』に過ぎませんので。


 耳元で、あの冷酷な宣告が蘇る。主人であるイザベラに触れた俺の腕を、視線だけで斬り落とそうとしていた。明確な殺意。


「いや、駄目だルーキス。今すぐに考えを改めるべきだ! イザベラに接触するのは、あまりに危険過ぎる!!」

「え?」


 峻烈しゅんれつな悪寒に顔を強張らせた俺は。無作法に腰を浮かせ立ち上がると。ルーキスの肩へ縋り付くように両腕を伸ばす。


 それはもはや、悲鳴に近い拒絶だった。俺は必死の形相で、眼前の男の追及を遮ろうとした。


 しかし。


「なんだいクリスぅ。君、もしかして『嫉妬』かい?」

「は……?」


 急変した俺の態度に。ルーキスは一瞬、不意を突かれたように目を見張ったが。すぐに俺の動揺の正体に思い当たり、口端を愉悦に満ちた形へ釣り上げた。


「いやだなぁ。僕が彼女に興味を持ったからって、そんなに慌てなくてもいいじゃないか。大丈夫だよ。僕は君の想い人を取ったりなんかしない。仲良くお茶をするだけさ」

「違うッ! そうじゃないッ! これはそんな腑抜けた話じゃないんだッ!!」


 的外れな茶化しを入れてくるルーキスに、俺はひたすら首を横に振る。


 俺が心配しているのは俺の恋路なんかじゃない! アンタの命なんだよルーキス!!


「いいか、よく聞け! イザベラの背後には今、とんでもなくヤバい『番犬』がいるんだ!!」

「番犬? 公爵家で大型犬でも飼い始めたの? そんな話は聞いてないけど」

「違う! これはただの比喩だ! リリエンタール家の執事、ジェームズの事だ!!」


 俺が怒号に近い声を絞り出すと。ルーキスは記憶の糸を手繰り寄せるように、そっと首を傾げてみせる。


 至近距離で見下ろす兄貴分の顔は、正直そこらの貴婦人が色褪せてしまう程に端麗で。腕の内に収まる華奢なその肩は、力を込めれば容易く折れてしまいそうだった。


「ジェームズ? えっと……確か、凄く綺麗な人だったよね? でも影が薄過ぎて、全然印象に残ってないよ。まるで空気というか、ただの背景の一部、みたいな……」


 ルーキスの見解は、至極真っ当なものだった。かつての俺もあの男に対して、同じような印象しか持っていなかったからだ。


 害は無いが、益も無い。ただそこに居るだけの無機質な従者。それが俺達の共通認識だった筈なのだ。


「……以前はそうだった。俺もそう思っていた」

「つまり?」

「あいつは変わった。いや、壊れたと言った方が正しいかもしれん」


 無意識に己の両腕をさすりながら、俺は逃げる様にソファへ身を沈める。


 あの視線に貫かれた瞬間の。骨の髄まで凍る程の凄まじい悪寒が。今も肌を執拗に這い回っている気がしたからだ。


「俺がイザベラと踊っている最中。あの男はずっと会場の隅から、俺の首をへし折る算段をしていた。殺気が強烈過ぎて、今も俺の背中には、穴が開いているような気がする!」

「殺気……? 踊っただけで?」

「ああ、そうだ! それも騎士の俺が肌を焼かれると錯覚する程の、濃密で、執拗な殺意だ! もし視線で人が殺せるのなら、俺はあの夜だけで100回は死んでいた!!」


 騎士としての鍛錬を積んでいる俺でさえ、冷や汗をかくレベルだったのだ。丸腰の聖職者であるルーキスがあの剥き出しの狂気を真っ向から正視すれば、そのまま昏倒こんとうしても何ら不思議では無い。


 今のあいつは、ただの執事では無い。主人の半径5メートル以内に近付くオスを。全て『排除すべき敵』と認識し。視線だけで内臓を抉り取ろうとして来る、とんでもない殺戮兵器だ。


「もし俺達が下手に近付いて、彼女を危険に晒すような真似をすれば。間違い無くあの男は、俺達の喉笛を喰い千切りに来る!」

「えぇ……、そこまでかい……?」

「そこまでだ! あいつは狂犬だ! いや、狂犬に失礼だ! あれは主人以外を全て敵と見なす、言葉の通じない『魔獣』だ!!」


 美しい花には棘が有ると云うが。あれはそんな生易しい代物ではない。今のイザベラは踏めば即座に吹き飛ぶ『地雷原』の只中に咲く、たった一輪の花にも等しいのだ。不用意に手を伸ばせば。その瞬間に此方の命はない。


 協力関係を申し出たいのは山々だが。己の命と等価交換になるのは、流石に遠慮しておきたい。


「アンタみたいに人当たりの良い優男が近付いたら、それこそ骨の髄までいたぶり尽くされて、教会の裏庭に埋められるのがオチだ! 頼むからイザベラに近付くのだけは止めてくれ! 教会の補助金問題は、俺がなんとかするから!!」


 俺の必死過ぎる忠告を受けたルーキスは。薄いレンズ越しの瞳を丸くして、数回瞬きをした後。やがて苦笑を口元へ浮かべ、大袈裟に肩を竦めた。


「君がそこまで言うなんて、よっぽど怖い目に遭ったんだねぇ。でもそんな風に言われると、余計に会いたくなってしまうよ」

「おい、本当に止めろ。……命が惜しくないのか?」

「神に仕える身として、死を恐れてはいけないよ。それに教会の裏庭は、既に綺麗な花で埋まっているからね」


 優雅な所作で身を起こしたルーキスは。ステンドグラスから降り注ぐ陽光を背に浴びて、静かに両腕を広げてみせる。光の粒子が淡い灰桃色の髪に溶け込んで、幻惑的な残像を刻んでいる。


 その佇まいは神の代弁者の如く厳かで、直視を拒む程の輝きに満ちていた。


「『神は乗り越えられない試練をお与えにはなりません』」

「……使い所が間違っているぞ」

「いいや、合っているとも。イザベラ嬢が記憶を失い、高潔な女性へ変わった事。そしてその執事もまた、空虚な人形から狂犬へ変わった事。それはとても、素晴らしい変化だ」


 ルーキスは『変化』を好む男だ。停滞を嫌い。人が変わる可能性というものを。神の恩寵おんちょうとして愛している。


 この男にとって俺の話は、恐怖譚などではなく。人の魂が持つ可能性を示した、福音にしか聞こえていないのだろう。


 なんて頭の痛い状況なんだ。今すぐ帰りたい。


「それにね、クリス。それは、君も同じなんだよ?」

「……俺が?」

「イザベラ嬢の事を想う君の姿は、とても眩しいよ。怒ったり、悩んだり、焦ったり。……最近の君は、ずっと魂を置き忘れた死人のようだったけれど。今はちゃんと、『生きて』いるよ」


 俺の惑いを掌で転がすかのように。ルーキスは至高の慈悲を宿した笑みを深めてみせる。それは罪人さえも愛し抜く。聖母の如き底知れない。静謐せいひつさを極めた眼差しだった。


「…………」


 もう頭を抱えるしかなかった。神の試練だか何だか知らないが。俺にとっての最大の試練は。この好奇心旺盛な聖職者を、あの狂犬執事から遠ざける事になりそうだった。


「うん。やっぱり僕、イザベラ嬢に会ってみたいな。きっと楽しく『お話』出来ると思うんだよ。その危険な執事くんと一緒に、ね?」


 ルーキス・ハミルトン。この男は、本気で信じているのだ。過酷な運命に磨かれる、人の善性を。


 策謀や計算などでは無い。ただ純粋に神が愛するこの世界と。そこで足掻く人々を肯定するその姿は。薄汚れた現実を生きる俺の目には。痛い程に尊く映った。


 彼の笑顔は。あまりにも清冽せいれつで。無垢で。だからこそ、始末に負えないのだ。


「…………はぁ」


 重い溜息を吐き、天井を仰ぐ。この男が一度言い出したら神でも止められない事は、付き合いの深い俺が一番良く知っている。


「……後悔しても知らんぞ」

「ふふっ、神のご加護がありますように」


 マルケス侯爵家が撒き散らす腐敗と、停滞した社交界。その澱んだ空気を切り裂く一陣の風が、確かに吹き始めたのを感じた。


 イザベラ・フォン・リリエンタール。やはりあの女は俺達の平穏な日常を掻き乱す、台風の目だ。


 飲み干した器を机に残し。『聖騎士団副団長』という名の孤独で重い仮面を、俺は再び選び取る。人としての温もりを置き去りにして。氷の様な規律を纏い。私は静かに椅子を引いた──。



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