第3話 地脈導師デルガ=ソルヴァ
魔王軍は、北海道への侵攻を諦め、あらたなる標的の地へと降り立った。
だが、到着早々、兵士たちは異様な看板を発見した。
そこには、黒くて丸い耳を持ち、頬が返り血のような赤で染まった生物が笑顔で手を振っていた。
「な、なんだあれは……!」
「羆……いや、そんなはずは……?」
この地――九州には羆を含め熊は生息していないはずである。
「我々の侵略を歓迎しているのか、それとも警告か……?」
参謀長グルドゥ=メルメルが、魔力スクリーンで解析を始める。
「魔力反応はありません。ただの印刷物のようです。この地で崇められる存在を絵画化したという」
魔王ヴァル=グラドは静かに頷いた。
「なるほど、やはりアレはただの獣ではなかったようだ」
兵士たちはざわついた。
「この地も、あの災厄の支配下にあるというのか…………」
魔王は手を振って制した。
「落ち着け。まずは拠点の設営だ。地球の脅威に備えよ」
資材の大半は北海道で失われ、補給にはしばしの時間がかかる。
現地調達しかない。まずは土塁の構築が急務だった。
そのとき、前に進み出たのは、地形操作魔法の使い手――地脈導師《デルガ=ソルヴァ》。
漆黒のローブに刻まれた地紋が、ゆらりと揺れる。
「お任せを。地の理は我が掌にあり。土塁など、ひと息で築いてみせましょう」
デルガは静かに地面に手をかざした。
術式が展開され、魔力が地脈へと流れ込む。
――――しかし、何も起こらない。
魔王が眉をひそめる。
「如何した?」
デルガは顔をしかめた。
「……土が固すぎます。まるで、魔界鉱のようです。魔力が通らず、形状変化も拒まれます。もう少し、まともな土が必要です」
兵士たちは周囲を探索し始めた。
谷の奥で、柔らかそうな泥地を発見する。
「ここなら……掘れるぞ!」
「魔力も通りそうだ!」
だが、そこには先客がいた。
泥の中で、縞模様の小さな生物がぴょこぴょこと跳ねていた。
「……あれは……地球の獣か……?」
参謀長が魔力スクリーンを展開する。
「うりぼうです。イノシシという生物の幼獣。春に生まれ、夏まで縞模様のまま行動します。警戒心が薄く、単独で動くこともありますが……」
兵士たちはうりぼうを見つめた。
一瞬、羆の記憶がよぎる。だが、違う。
「これなら勝てそうだ!」
「魔王軍の威光を示す好機だ。追い払っておけ!」
兵士が一歩踏み出した、その瞬間。
茂みが揺れた。
「……来ます!」
参謀長が叫ぶ。
泥地の奥から、成獣のイノシシが姿を現した。
全身は分厚い筋肉に覆われ、茶褐色の剛毛が泥と汗にまみれて光っている。
肩幅は兵士二人分、鼻先は鋭く尖り、地面を掘り返す力を秘めていた。
両目は小さく、しかし獲物を捉えるように鋭く、牙は湾曲しながら泥を滴らせていた。
鼻を鳴らし、地を踏み鳴らす。
その一歩ごとに、地面が震え、泥が波打つ。
「母獣です!うりぼうへの接近を挑発と受け取ったようです!」
参謀長の声が、緊迫した空気を裂いた。
デルガ=ソルヴァが前に出る。
「ならば、地の理をもって応じましょう」
彼は両手を地面にかざし、低く呟いた。
「《土塊創像》――起動」
泥地がうねり、魔力が収束する。
やがて、兵士十人分はあろうかという巨体が地から立ち上がった。
腕は岩の柱のように太く、胸には魔紋が刻まれ、目には淡い光が灯っている。
兵士たちは歓声を上げた。
「出たぞ!デルガ様の土塊兵だ!」
「これなら……勝てる!」
母イノシシは怯まなかった。
猪突猛進――まっすぐゴーレムの右脚へ。
鈍い音が響き、脚部が砕けた。
泥が跳ね、魔力の支柱が折れ、巨体が傾く。
左脚に全体重がかかり、そこも粉砕された。
胴体が落下し、胸部の魔紋が歪み、頭部は泥の中へと沈んでいった。
兵士たちは沈黙した。
あれほどの巨体が、なんの抵抗も許されぬままに――。
デルガ=ソルヴァは一歩も動けず、目を見開いたまま、泥の冷気に包まれていた。
その顔には、魔王軍の術者とは思えぬ、純粋な恐怖が浮かんでいた。
口元はわずかに震え、魔力の制御が乱れていた。
「……地球の獣、これほどまでとは……」
兵士たちは泥地から距離を取り、魔王の指示を待った。
だが、母イノシシの怒りは収まらない。
鼻を鳴らし、再び地を踏み鳴らす。
ここは火の国――熊本。
魔王軍の威光は、地球の母性の前に崩れ去った。
今回のちきゅうのいきもの
名称 イノシシ(猪)
学名:Sus scrofa(イノシシ属の代表種。ブタの原種でもある)
生息地:本州・四国・九州に広く分布。山林・竹林・里山・農地周辺などに出没。
近年は都市部にも進出し、人間との接触が増加している。
体長:成獣で約1.4〜1.7メートル。リュウキュウイノシシはやや小型(90〜140cm程度)
体重:オスで60〜100kg。個体によっては120kgを超える例も。
身体能力
• 時速45kmで走行可能。急停止・急発進・方向転換も自在
• 助走なしで1m以上の跳躍力。1.2mの柵を飛び越える例も
• 嗅覚はイヌ並みに鋭く、視力は0.1以下と非常に弱い
• 牙は下顎の犬歯が発達し、特にオスは武器として使用
• 攻撃時は鼻先でしゃくり上げるように突進。大腿動脈を裂く事故も報告あり
•鼻先で70kgの物を持ち上げる力を持つ。
主な習性
•雑食性:植物・昆虫・小動物・農作物・生ゴミまで幅広く食べる
•泥浴び(ヌタうち)を好み、寄生虫除去や体温調節に活用
•冬眠はせず、年中活動。繁殖期は冬、出産は春
•幼獣は縞模様を持ち、生後4か月ほどで消える
•メスは母子群を形成し、子への防衛本能が非常に強い
ことばの解説:猪突猛進
地球では、イノシシの突進力と直進性をもとに「猪突猛進」という言葉が生まれている。
意味は「周囲を顧みず、目標に向かって猛烈な勢いで突き進むこと」。
語源は、イノシシが脇目も振らず一直線に走る習性に由来する。
魔王軍の兵士がこの言葉を聞いたとき、誰もがデルガの土塊兵を思い出したという。
だが、地球の“猪”は、言葉以上に容赦がなかった。
(おまけ)いのしし年の性格診断
地球では、生まれ年によって性格を占う「干支診断」という文化がある。
その中で「亥年」に生まれた者は、以下のような特徴を持つとされる:
•猪突猛進:目標に向かって一直線。周囲が見えなくなるほど集中する
•サバサバしている:細かいことにこだわらず、裏表のない性格
•限界まで頑張る:一度決めたら、休まず突き進む
•優しい:意外と繊細で、困っている人を放っておけない
•人の話を聞かない:集中力が高すぎて、周囲の声が届かないことも
魔王軍の兵士にもこういう性格の者がいるらしい。




