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麒麟の森  作者: 冨永 真一
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柚絵の眠り

 蛍光灯の白い光が邪魔に感じる。柚絵の睡眠を妨げるのではないか。しかし彼女は暗いところを嫌った。以前はそうではなかったらしい。付き合い始めて半年、一緒に暮らし始めた頃は、電気を消したままで寝ていた。しかし、今の柚絵はそれはしれない。お互いの地を出さずに、極力相手に合わせてみる。そうして柚絵は我慢していたのか。柚絵が同棲前から暗い部屋で眠ることが出来なかったのか、同棲してから寝る時に光を求めるようになったのかは、大介には分からなかった。また知る必要もないのだと大介は考えていた。 

しかし、同棲を始めた頃から少しずつ柚絵の様子は確かに変化している。その変化は彼女の本来の姿へ近づいているのか、それとも新しい彼女の姿を持ち始めているのか、大介には分からなかった。今は目の前の柚絵の求めに過不足なく応じる。また言葉にならない思いにもなっていない要求を嗅ぎつけ、不安を消し、少しでも安心する環境を作る。それが今自分がすべきすべてなのだと言い聞かせていた。


大介は柚絵の手を握り、彼女に添い寝して語りかける。大介は今日あった出来事を一つ一つ耳元で囁く。無論、すべて良いことばかりだ。そのおよそ半分は大介が作り出した物語だ。子供のこと、職員室でのこと。それを話し終えてもなお柚絵が寝付けないときは柚絵と知り合ってからの楽しかった出来事などを話す。今日は子供が作った川柳の話をしよう。


休み時間 ああ休み時間 休み時間


ひとしきり笑ってから、柚絵は欠伸をした。「これで、いい」大介は胸の中でガッツポーズをする。

俺はこれからもっと良い教師になっていく。

「おれさ、まだ経験無いけどさ、将来は校長になるってのも悪くないと思うよ。自分の理想を学校経営に反映させられるってすっげえことじゃん」

そんな大介の話に頷きながら、柚絵は満足そうに笑みを浮かべる。少しずつ体の中のしこりが解けていくように穏やかな表情になっていく彼女を大介は見つめた。

蛍光灯の白い光に照らされた柚絵の白く薄い瞼が、眼球を覆った。上下の睫毛が重なり合わさる。この睫毛は長い方なのか短い方なのか、それとも平均的なのか。大介はこれほど人の睫毛を見入ったことはなかった。

瞼が少し開いた。中で黒目が震えるように微かに動いている。まだ起きているのだろうか。それとも寝入って夢でも見ているのか。眠ったのか確かめるために声をかけることはできない。握った手はそのままだ。


「その子の生育歴は調べましたか?」

放課後、大介は今日も髙橋の教室に入って、話を乞うた。

「セイクレキ?」

「生まれ育った彼の歴史って言えば、分かりやすい」

高橋はきれいな深緑の黒板に「生育歴」と書いた。大介は改めて自分のクラスの黒板が汚いことを思い出した。誰も黒板をきれいにしない、チョークの粉で汚れた黒板に自分の字を書くのは気分が優れなかったが、そんなことはもはやどうでもよくなっていた。そういえば、この教室の黒板の下にも大介のクラスにある綿埃一つ落ちていない。

「問題を抱えている子供には、必ずその問題をもつに至った要因があります。その子が産まれ持ったものもあるでしょう。それに家庭環境も大きな要因になる。今は個人情報に関する取り扱いが難しいし、保護者も学校にそういうことを知らせたがらない。でもそういう情報を上手く入手しておくことも大切なんです」


いつから柚絵は胸に硬いしこりを持つようになったのだろうか。彼女はどんな子供時代を送ったのだろう。無理とは分かっていても、大介はそのしこりの由来を知ってそれが出来た時に戻ってその原因を取り除いてやりいと思った。それさえ取り除ければ、彼女はもっと伸びやかに晴れやかに、そして堂々と生きてゆけるはずだ。

瞼が再び閉じられた。安らかな横顔。彼女が両手を広げて青空を飛ぶ姿を想像する。重いものを一切下ろして軽やかに生きて欲しい。

瞼の下で眼球が左右動くのが見える。上下に細かく震える。夢を見ているようだ。どんな夢を見ているのだろうか。願わくば、彼女に空を飛んでいて欲しかった。せめて夢の中では、日常で彼女を苦しめている現実から解き放たれて欲しい。


鼻から寝息が漏れ始めた。柚絵の寝息は、静かな寝息だった。鼾など聞いたことはない。寝息でさえ、耳をそばだてないと聞き取れないほど小さくて、その小ささに大介は時々胸が辛くなった。寝ているときも、誰かに気を遣っているのか。


 柚絵が寝息を立て始めた。耳をそばだてないと聞き取れない微かな空気の振動の様な音である。浅い眠りから覚まさないように、悪事を働く盗人がそうするように音を立てずに時間をかけて柚絵の顔に自分の顔を近づけた。闇の中にある影。柚絵の寝顔を見ているときだけ、解放される気がした。無論、仕事も柚絵のもっている問題の何も解決してはいない。ただ、その時だけは大介は自分の緩みを許すことが出来るのだった。


                 つづく


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