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麒麟の森  作者: 冨永 真一
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再会の夜

7月初めに中央小に赴任してから、あっと言う間に三週間が経ち、子供達は夏休みに入った。

 夏休み前最後の日、夜は大介が昨年度4月から3月までの1年間だけ非常勤講師として勤めた金井小の若手の教員達が開いた飲み会に参加していた。


 「上田さん今年うかったの?」

「彼女、辞めたよ。ウツになった」

 一杯めを空け、熱を帯び始めた空気が一瞬にして冷めた。翔太には、表情の変化は窺えない。同僚が鬱になることにも、それを方々へ報告することにもどこか馴れてしまったやるせなさを漂わせている。大介にはそう見えた。

「主幹に潰された」

「だれ?」

「ブルだよ」

そこにいた川崎有紀と神原美咲は納得した顔をする。大介は上田を退職に追い込んだのがブルだということに半信半疑だった。むしろ信じたくないというのが正直な心境で、将太の言葉が自分の胸に入ってくるのを扉につっかえ棒をして抵抗している。

ブルとは青木妙子という主幹教諭だった。以前はブルートゥリーと呼ばれていたらしいと聞いたことがある。東京では校長と教頭の管理職の下に位置する中間管理職で、一般教諭の取りまとめをする役割を担う。管理職と主幹との会議は企画会議と呼ばれ、学校の運営を方向付ける。青木は中央小の主幹の中では最も古株で、自己紹介では“歩く中央小”と自分のことを称していたのを今でも大介は覚えていた。創立百周年を迎えた中央小の仕来たりは多く、行事や地域を巻き込んだ催し物の至るところに縛りがかかる。開校以来継承されてきた守るべき伝統と、ここ数年で取り入れられたルールが入り組んでいて、教師達にとってはいちいち面倒だった。行事などの学校全体で動く際には、それを一つ一つこれまでの経緯を踏まえて全体に説明するのが彼女だった。何か新しいことを始めたいと考えた若手は、まず彼女にお伺いを立てる。そこでノーが出されたらボツだった。若手には口煩い一方で、指導熱心で若手中堅を問わず教材研究には夜遅くまで付き合ってくれる姉御肌のところもあった。違う学年の大介も昨年の一年間、授業づくりなどの面で多くの指導を受けていて、頼りにしていた。その一つ一つが的確だった。そして学ぶ姿勢をもった教師に対する眼差しは温かく、あたかも自分が彼女の教え子になった気分にすらなった。

大介が特に忘れられないのは、全校で行う運動会の練習中、大介の不明確な指示のため、全児童が次の動きが分からなくなりスクランブル交差点を行き交う大勢の歩行者の様に無秩序に動き始めた時のこと。すぐに機転を利かせてその他の教員に指示を出し、フォローをしてくれた時のことを思い出した。

「上田のクラスが崩壊しかかったんだ」

説明を促す声に翔太が話し始めた。昨年新規正規採用された上田は二年生の副担任として経験を積んだ。一年間副担任として経験を積んだ彼女は、今年は四年生の担任を任されていた。中学年は初任の教師や臨時的に採用された非正規の教師に任されることが多く、比較的受け持ちやすい学年とされている。しかし上田のクラスには学習に特別な支援の必要な児童や授業中席に着いていられない児童や、教師に対し暴言を吐く児童も数名いる難しいクラスだった。

「六月にある運動会までは何とかやっている感じだった」

クラスができあがり教師と子供との関係ができあがってから迎える秋の運動会とは違い、確かに教師として春開催の運動会は難しい。クラスができあがる前にクラスを一つにして目標に向わせなければならないからだ。まとめきれていない彼女のクラスの演技が全体の足を引っ張っていたのも気にかかったと将太は言う。

「それでも運動会に向けて何とかまとまっていたんだけど、運動会が終わった途端、空中分解」

美咲は頷き、有紀は眉間に皴を寄せ、首を横に振る。

「確かに六月の運動会はつらいこともあるよな。クラスがまとまっていないし。こっちも子供のことまだつかみきれてない」

大介はそう言ってジョッキに残っていたビールを煽った。一気に飲み干そうとしたビールは勢い余って、テーブルに滴った。

「クラスが荒れてきたところでブルに責任を問われた」

 将太の言葉は相変わらず落ち着いている。

「今日は来るの?」

有紀はずっと眉間に皺を寄せたままだ。

「調子が良ければ来るって。今は電車に乗れないから歩いてくるって」

「そのクラスを持たせたのはブルでしょ!」

有紀が納得がいかない。

「だからこそ、ブルは上田を責めざるを得ない」

大介はテーブルの一点を見つめながら言った。

「そのとおり。ブルもそろそろ管理職につかないといけないと思ってるからな。もう今のポジションには飽き飽きだろ」

主幹は、学年の責任者であって、そこの学年での不祥事や問題は責任を問われかねない。そこで結果が出せなければ管理職への昇進は自ずと望めなくなる。

「でもブルは今回の件でますます自分を辛い立場に追い込んだな。中央小での昇進はないな。どっかに飛ばされて、そこでいちから主幹としてやり直しだろうな」

持病の腰痛に悩みながら毎晩十一時過ぎまで仕事をしていた青木の背中を思い出す。十時までに駅ビルの惣菜コーナーに間に合えば、夕食を用意する手間が省けるのだけれどと、こぼす愚痴はその程度だった。青木の口からは管理職や保護者への不平不満は聞いたことがなかった。

「歩いてって! 正気?」

重い空気を変えようとしたのか、美咲が話題をこれからやってくるかも知れない上田に向けたようだった。物思いに耽っていた大介はしばしぽかんとしていた。

「渋谷まで一時間だって」

「もっとかかるんじゃない?」

ウツがきっかけで電車に乗れなくなったり、人ごみに出られなくなることがあることは聞いたことがあった。

大介は二杯目のジョッキに口をつけた。ふと上田が夜の渋谷の街を一人歩く姿が浮かぶ。

「電車に乗れなくなっちゃったなんて、シロちゃんと同じじゃない」

有紀はまだ許せない。しかし、その感情をどこにどうぶつけていいのやら分からないようだった。シロとは一昨年まで中央小で養護教諭をしていた城崎のことだ。九月の中旬、彼女は突如として、中央小から去った。二週間して中年の養護教諭が代わりにやってきた。夏休み前の頃だったか、城崎が廊下をすれ違いざまに声を掛けてくれたことがあった。疲労の色が濃く出ていた大介を気遣ってくれたのだった。

その頃の大介は副担任としての担任を補佐する授業準備も研修の報告書などの雑務もすべてを平日にやりこなすことができず、休日返上で残務を消化していたのだ。その時、さすがは養護教諭は気遣いも人を見る目も他の教諭とは違うと感心したものだった。

その彼女が体調を崩して長期の療休に入った時、驚きとともにこの仕事に対する恐怖を感じた。今年に4月城崎が結婚したと聞いた。彼女は自らの力で立ち直ったのかも知れないし、夫となった男から救いの手が差し伸べられたのかも知れなかった。でもどちらにしても喜ぶべきことには変わりない。城崎は電車にも乗れなくなっていたのか。城崎が精神疾患を理由に休職をし始めたその日まで、大介は彼女のその病を患っていることなど知らなかった。これも後から聞いた話だが、その半年ほど前から異状は表れていて仕事が少しずつ手につかなくなってきていたらしい。「らしい」というのは、後から彼女の休職の原因を管理職から詳しく聞き出した有紀の推測にすぎないからだ。仕事に真面目で、朝も一番早く出勤して、夜も帰るのが一番遅かった彼女の机の下には、未処理の書類が段ボールに無造作に入れられていたという。そんな事実からも、その推測は外れてはいないだろう。


大介はマグロ頬肉を箸でほじくった。よく油がのってこくのある味がした。暫し声を失くしたその部屋で、騒々しいBGMに各々が飲み食いする音だけが聞こえていた。しかしその音は時折隣の部屋の歓声に打ち消された。大して空腹でもないのに、大介も食欲旺盛な子どものように有紀の前にあったサラダを皿ごと引き寄せて食べ始めた。

一体全体この国のどれだけの教師が潰れ、教職の道を後にしていくのだろうか。精神疾患を患う教師の多さは、他の職業の2.5倍であると免許取得のために夜間通った大学で聞いた。原稿を読み上げるような講義しかしない頭の薄くなった教授も、その時ばかりは目に力を宿して学生たちの方に語った。しかし、教師はそんな苦境をどう乗り越えてゆけば良いのか、何の指導も示唆もなかった。

昨年、副担任対象の研修で言われた言葉も思い出した。

「鬱にならないようにではなく、鬱とうまく付き合っていくスキルを身につけましょう」

大学の講義で聞いた講師の「2.5倍…」と言った声が耳の奥で蘇えった。なぜ、自分達は、これほど役に立たない言葉ばかり浴びせられるのだろう。今さらながらに情けない気持ちに襲われた。

大介は三杯目のビールを注文したところで尿意を覚え、個室を出た。薄暗い廊下を歩きながら小さく跳ねてみた。爪先で跳ねて踵で降りる。周囲から目立たぬように出来るだけ強い振動を身体に与えてみた。後頭部に鈍痛を感じた。自分がウツになったら電車に乗れなくなるのだろうか。喧騒でいっぱいの居酒屋へ憂さ晴らしに来られるのだろうか。


「ああ」


大介は自分の方に向って歩いてくる上田を見つけた。眼が合っているのかは分からなかった。目の周りが窪んで見えるのは薄暗い照明のせいではないだろう。一回り小さくなったように見える彼女は、相変わらず外国の人形のようなつぶらな瞳をしている。弱くなった目の光が彼女が人形ではないことを顕している。

「おう」

 大介の声に上田は肩の高さで手を振った。

「だいさん痩せた?」

隠そうとしていたものをあえなく見つけ出されたような気まずさで、大介は遠慮がちに笑った。



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