多忙極まる 弐
校長の宇津木に、昨日の街頭の母親からのクレームの電話の報告をし、今後の対策について助言を受ける。
「よく、向こうの保護者のいうことを聞いて、子供の目線に立って、指導にあたるように」
宇津木の回訓めいた言葉を聞きながら、力が抜けていった。
「津村先生、わたしのカードを退出のところに移しといてくれ」
「校長先生! まだお話が」
大介の呼び止める言葉に聞かぬ振りをして、校長室の電気を消して、光沢のある鞄を片手に宇津木はさらっと言った。
「……はい」
まだ誰も帰っていない職員室を尻目に、校長室と繋がっている応接室からそそくさと出ていった。時計は十九時半を少し回っていた。
大介は昨日の事故報告書作成を始めた。火曜日の今日提出できないとまずい。教頭に出すのが明日の水曜日になったら叱責は免れない。職員室前方の黒板前にどっかりと座る教頭の三上を見る。広い額が蛍光灯に照らされて鈍く光っている。視線は両手で大切そうにいじっているスマートフォンだ。この間、最新の機種を買ったと自慢してきたのを思い出した。その時は、自分には無関係なことだと、愛想笑いだけを返していたが、そんな自分にすら腹が立つ。こんな時にスマホをいじっている管理職に腹は立つが、やることがないと早く帰られるのも困る。なぜこの学校は校長も教頭も頼りにならないのか。
「教頭先生」
声をかけるとあからさまに嫌な顔をした。
「お忙しいところ申し訳ありません。事故報告書なんですが、もう少し時間がかかりそうなんですが・・・・・・」
「時間がかかるもなにも、あんなのまわりの先生に教えてもらってさっさとおわらしちゃいなよ。管理職はいろいろと忙しいんだから、そういうのはぱっぱっとさ、ね!」
「はぁ」
「北川さん、ちょっと!」
三上は近くの北川を呼んだ。北川は五年生の担任だ。
「津村さんが事故報告書が書けないっていうから、ちょっとみてあげてくれる」
北川は尖った縁なし眼鏡を右手で直した。黒い直毛を後ろで一つに束ねている。かざりっけ一つない身なりで見た目は教師然としている。十年戦士だ。十年以上続けている教師には、戦士という別称がつけられる意味も大介は最近身に沁みてわかった。
北川は漢字テストの採点を黙々としていた。
「事故報告書、書いたことないんで」
「ちょっと!だれか、事故報告書書いたことある人いないの!」
職員室にそう叫ぶと、また黙々と採点作業に自らを没入させていった。
骨折を含め怪我が多いこの学校で事故報告書を書いたことのない教師など、むしろ少数派であろうことは来たばかりの大介でも推測できた。
誰からも返答がなく、大介はいたたまれない気持ちになり、急いでやるのでもう少し待ってくれと三上に頭を下げて机に戻った。
机に戻って背伸びを一つしてみた。天井を見上げてみたが、何も降っては来ない。分厚い書類作成のマニュアルを開こうとした時だった。音もなく右後ろから紙が差し出された。振り返るとある教師が、笑っている。
「事故報告書のコピー。念のため私コピーとっておいたんです」
「・・・・・・あざーす」
あっけにとられてそんな返答しかできなかった。三十代半ばと思しきその教師の名前を、大介は知らなかった。がっしりとした上半身に、すらっと長い足が伸び、大股で職員室を闊歩する。決して存在を誇示している様子はないが、着任したばかりの頃から大介にも彼の存在感は職員室で目を引くものがあった。髪はぼさぼさで前髪が両目を隠すくらいに伸びている。だらしがない印象を受けるが、彼の言動からはずぼらで作業を面倒くさがる性質ではなさそうである。そして何より前髪のかかる黒縁メガネの奥に見える目には精悍な光すら感じる。
地獄に仏。
大介は自分を見下ろすぼさぼさ頭の教師に自然と手を合わせていた。コピーに五年一組担任高橋と記されている。高橋には心底救われた思いがしたが、その思いに相応しい挨拶ができたかどうかは分からなかったので礼を言いなおした。
「ありがとうございます」
「骨折した時刻は分単位まで厳密に。時間の正確さは報告書の信憑性に関わるから、なるべく頑張って思い出して。自信がないところや、記憶していないところは、嘘でもかまいません。ただし後からつっこまれても辻褄が合うように」
多忙をきたす同僚たちに、自分の仕事の手伝いなど頼むのもおこがましい。学年の違う教師の気遣いがありがたかった。
「はい」
「指導の改善については、ぼくのまる写しじゃまずいけど、参考にはしていいと思います」
「事故に至った経緯は、ちょっと大袈裟に思えるだろうけど、ここまで詳細にかかないとハンコはもらえないから。こじつけでもいいから字数を割かないと提出しても受け取ってすらもらえないから」
「がんばります」
彼が自席に腰を下ろすのを待って、大介は職員名簿で彼の氏名を確かめた。髙橋洋一とあった。髙ははしごの髙だった。自身で苗字を書くときは、その「髙」にこだわらないようだ。その鷹揚さにも惹かれた。ときかく細かいこだわりが多い人ばかりの職場だと思ってきたからだ。
高橋の書いた報告書に目を通した。中央小の児童は、日常的に外で遊ぶ機会が少なく、ここ数年は休み時間の校庭遊びも制限されているため、普段から身体を動かして鍛えることが難しいと、この学校の児童の抱える問題をその報告書は正確に分析していた。できることならまる写ししたいところだが、それはできない。
「それ、ほとんど丸写しでもハンコ押してあげるよ」
片手に真新しいスマホを持った三上がいつの間にか後ろからその報告書を見下ろしていた。三上曰く、報告書は、地域や保護者批判とも解釈されかねない要素もあるし、学校の指導に問題があるともとられかねない文面もある。しかし、地域、保護者、学校に関わる子供たちの背景的な要素をバランスよく書き入れることによってよくできた報告書になっているとのことだった。
「髙橋さんの書いた報告書以上の報告書を書ける人はこの区にはいないよ」
大介は自分の子供時代を振り返って、転んで骨折した子供がいたかどうかを思い出そうとした。
事故報告書を急かす三上に提出したのは九時半に近かった。集めた算数ノートに目を通さなければならない。今日の授業もひどかった。子供達が自分の話を聞かない。それでいて、生意気盛りの4年生達の口から出てくる言葉は、「分からない」だった。話を聞かないから分からないのだ、という正当な反論が大介の胸にある一方で、真剣に聞いたとしても、自分の説明で何故、割り算の筆算があのような形になのかを子供達が理解できるか、自信がなかった。社会を面白く話して聞かせる自信もなかった。まして火を扱う理科の実験など、危険すぎてやらせられない。大介のクラスの子供たちは前任者の時から理科の実験はやらせていないと聞いている。今のクラスの様子だと、ふざけ半分で実験をする子供達が火傷や薬品事故を起こすのは目に見えていた。
つづく




