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麒麟の森  作者: 冨永 真一
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多忙極まる 壱

「ムリムリ!」


五年目の提坂知美は授業計画の相談を切り出した大介の横に軽い身のこなしで立ち回り、大介の机の横に立った。バレーボールの学生時代アタッカーで鳴らしただけあって百七十㎝を超える長身だが身のこなしは軽い。あれこれ逡巡せず思ったことを口にする気持ちの良い性格は帰国子女特有のものと思って大介は対しているが、実際怖がる同僚も少なからずいて、一部の職員からは嫌われている。


「この教科書の量をぜっんぶくそ真面目に教え込もうなんて」

「やっぱり」

「いかに抜くとこ抜いていくかが大事!」

そう言って大きな真っ赤なコップに大介が買った1.5リットル入りのペットボトルからカルピスを注いで飲み干した。

「それができれば」

知美はさらに言葉に力が入った。

「力入れるところはそれなりにやっていける」

「はあ」

「津村、この仕事はいかに抜くか。ぶっちゃけ、それができないと、きっついよ」

「たしかに・・・・・・」


大介は自分の机の半分を占拠した書類をぼんやりと見て、言葉を失くした。


「でも、提坂さん、この雑務の多さ考えたら、どう抜いてもやり切れないっしょ?」


提坂は大股で歩いて冷蔵庫を開けて飲み物を物色していた。もう大介の言葉は届いていない。


 昨日の月曜日、体育の授業で徒競走の練習がてら五〇メートルを子供達に走らせた。無論、真面目に走る子供は少数だ。まず校庭に児童が揃うまで十五分かかった。それから体操に十分。全員揃って体操などできるはずもない。大介が怒鳴り散らしてもすぐに談笑が始まったり、砂いじりを始めたりする。順序良くスタートラインに並ばせるのを諦め、大介は仲の良い友達同士で走るように指示した。


ライバル意識を刺激して、その気になるのではないかと考えたのだ。その指示が功を奏し、数組が五〇メートルスタートラインに並んだ。後ろでふざけているのは、ひとまず無視した。残り時間が十分を切っている。そもそもこの時間で全員は走れない。やる気がある子供だけでもタイムを計れる。三組六人の男子が計り終えた。皆、友達に負けじと懸命に走っている。大介は始めて子供を本気にした手応えを感じていた。

四組目は女子の二人組み。


大介の笛の合図で走り始めた。霜下空が三〇メートル付近で爪先を何かに引っ掛けて前に転んだ。一緒に走っていた勝又萌も心配して、近くで見ている。大介も走り寄った。あっという間に子供達の人だかりが泣いている霜下の周りに出来た。この子達にもクラスメイトを気遣う優しさがあることに大介は小さな感動を覚え、希望も感じた。

「大丈夫か?」

大介の声に、霜下は右手首を抑えて泣くばかりで何も答えない。

「ちょっと見せてみろ」

右手に一瞬触れると、雪下が大袈裟な素振りで大介を避けた。泣き声も大きくなった。それを見ていた男子たちがどっと沸く。頭に来た大介は、

「お前ら、人が痛がっているのに笑うのか!」

「ちげえよ。先生が嫌がられてるのを見てわらったんだよ」

大介は、名前もまだ知らぬ男子児童の左頬を思い切り叩いていた。

 

 一瞬にして静まり返った、校庭で、霜下が泣きじゃくる声だけが響いていた。


保健室へ連れて行き、あまりに痛がるので、途中で体育を切り上げ病院へ連れて行くと骨折だった。全治一ヶ月、運動会は絶望だった。霜下の保護者が穏やかな精神の持ち主であったのが救いだった。電話でした怪我の報告に文句一つ言わず納得してくれた。A4三枚の事故報告書が本来は事故当日の昨日までに提出しなければならない。しかし昨晩は不登校気味の街頭南海ここみの母親からの電話対応に追われた。変わった読み方の難しい名前を子供につける保護者には気をつけろと、大介は同じ夜間の大学に通って一年早く教職に就いた先輩から聞いていた。


 電話での話の内容は、大介に対するクレームだった。前任者の退職という状況で満足にできなかった引継ぎでさえも、その保護者への対応は事細かに聞いていた。常に街頭には配慮しておくように、登校してきたら必ず一言ねぎらいの言葉を、帰りには一日の様子や行動に対して何か具体的な褒め言葉をかけるようにとのことだった。確かにそのことは頭には入っていた。しかし分かっていることのすべてができる人間などいたら会ってみたい。ついつい他のことで手一杯になっている時に、その子に対する対応が甘くなってしまったのは事実だった。


四時間目の体育で骨折児童が出て、慌てて給食指導をし、清掃、五時間目の算数を終わらせた。四時間目の動揺を引きずってしまい、自分を落ち着かせることができずに流れに任せて帰りの会を終えてしまった。街頭に帰りに一言かけ忘れたのを気付いたときはもう遅かった。そういう時、決まって街頭という児童は教師の対応に不満を持ち、自分が蔑ろにされたと、家に帰って母親に不満を打ち明ける。打ち明けられた母親は、それを真に受け、さらに母親は独自の解釈で針小棒大にことを大きくする。


自分の子供は、教師から愛されていない、納税者、有権者として当然に受けることのできる行政サービスを受けられていない。クレームの電話があった翌日、連絡ノートに電話の内容が記され、父親と母親の署名と実印残されてくる。そして今後このようなことがないように、再発防止策を記して大介の署名と捺印を求めるのだった。何故電話だけでなく書面での要求と回答を求めてくるのか。それは、何かあったら裁判での証拠になるからであった。大介は管理職からの勧めで教師用の訴訟保険に入っていた。そんな必要があるのかと当初は訝ったが、無理やりにでも入らされたその保険の意義を、大介は早々に思い知らされた。


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