想う人
更衣室での着替えを済ませると、控室に移動した。
外の雨は変わらずで、廊下もこの部屋も寒いはずなのに、そうと感じない。体以上に心が温かいからだ。
ラディウスと会えたからかな……。
自分はやはり至極単純らしいと、改めて気がついた。
これまで付き合ってきた彼氏とは明らかに違う心の温もり。
ラディウスの些細な行動、何気ないひと言でこんなにも心持ちが変わる。さっき繋いだ手の温かさ、指先の動き、握り返してくれた力の強さ――。
それがすべて、あたしの手の内にまだ残っている。それだけで自然と口角が緩んで笑顔になってしまう。
本当に、なんて恋をしているんだろう。
報われなくてもいいと考えていても、心は決してその通りにならない。
「困ったもんだね……」
自分の手にある余韻に浸っていると、ヘルムートが入室してきた。
彼はあたしの顔を見るなり、
「――随分と定まった顔つきをしてますね?」
軽く目を見張ってそう言った。
「そうですか?」
「ええ。グラータの時とは全く違います。いつもなら青ざめた顔になっているでしょう?吐きそうだと、泣き事を言うではありませんか」
まぁ、確かに……。
「そう……かもしれません」
さっきラディウスに会ったからかな?いつもより堂々として見えるなら、良かったけど。
「……なにか心強くなることでもあったのですか?」
「ええ。ちょっといいことがありました」
笑って返した。
「ここにきて失敗はしたくありませんから、良かったと思ってます」
「そうですか……」
ヘルムートは何か気になることでもあるように、しげしげとあたしを見ていた。
その視線が探っているようで落ち着かず、あたしは仕事モードに切り替えようと、これから使う資料を取り出す。
「ヒカリ、今日はなんだか……いつもと違いますね」
「それは、大事な会議ですから」
「いえ、そうではなくて……。なんだか目が生き生きしているというか……」
どこを見てそう思ったのか、ヘルムートは適確に核心を突いてくる。紛らわせるように、
「そう……ですかね?」
それが逆に不自然だったのか、心の中に何か秘めているように見えたのか、少し考えを巡らせたあと、
「……誰かの励ましでも受けたのですか?」
ヘルムートは鋭く尋ねてきた。
なんて千里眼なの……。
その目は何でも見抜いてしまうのかと、ほんのわずかな身震いを覚えながらも、
「……そうですね。ある人からいい言葉をもらいました」
素直にそう答えた。
「それはノボル以外から、ということですか?」
「はい」
ヘルムートはなぜか急に緊張した顔をすると、
「――その方は私も知っている人でしょうか?」
硬い声でそう尋ねてきた。
「ええ、まぁ……。そうですね」
「そうですか……。この重要な局面にあってヒカリをここまで支えられるとあれば――大切な方なんでしょう……」
答えるべきかはぐらかすべきか一瞬悩んだが、すぐに結論は出た。
彼には隠しておく必要はないのかもしれない。
これまでずっと味方でいてくれたのだ。それにヘルムートはラディウスを絶対に裏切らないと知っている。
ならば、心の一端を見せてもいい気がした。あたし自身も、いつまで想いを隠し通すことが出来るか、自信がないのだから――。
「叶うことはないと、思っています」
あたしは誰を想っているかは明言せず、ポツポツと話した。
「相手は結婚願望がないらしいので……。あたしも今はやりたい事があるから、そこまで結婚は望んでいません。でも、ふとした瞬間にかけられる言葉とか、表情にひどく心を揺さぶられる……。見える場所から、静かに彼の姿を見ていられればそれでいいのに、心弱くなった時に会いたくなる、すがりたくなる――。彼の熱が恋しくなる……」
求めているのはあたしの方。
ずっと励まされ、慰められ、支えられている。
「彼はそんな事、きっと気がついていない。――でも、さっき慰めてもらいました。落ち込んでても優しい言葉をかけてくれる人じゃないから、励まされたら『本当に心配してくれてるんだ』って分かるんです。たがらその言葉はひどく心に刺さって、温かく残るんです」
ヘルムートはあたしの心に誰が浮かんでいるか見ようとするように、じっと凝視し続けていた。
「………そうですか」
呟くと、
「――ヒカリはその方に想いを寄せているのですね」
まるで目を逸らさなければ答えが分かる、とでもいうほどの眼差しだ。
あたしはレントゲンで見透かされているような気分になる。
「願わくば、それが私が敬愛してやまない方だといいのですが……」
淡い期待を含ませた言い方で、ヘルムートはゆっくりと口を開いた。
「その方はずっと懸命に走り続けているのですが、本人にその自覚がないのです。いいかげん足を止めて休んで頂きたいのですが……いかんせん、私の言葉では届きはしても、止めることはできない。どこか温もりのある場所で、ゆっくり心身ともに安らいでもらいたいと、ずっと、ずっと思っていました………。――私はその場所にヒカリがいてくれれば、と望んでやまないのです」
ヘルムートの唐突な告白に、あたしはしばし固まった。そんな事を思っていたなんて、考えもしなかった。
じっとヘルムートを見つめるあたしの視線は、彼の眼と交差する。ヘルムートの熱を帯びた瞳はそのまま彼の心の熱さを切り取ったかのようだった。
「あの方はヒカリが来てから変わられた。ひどく優しく笑うようになり、臣下への言葉掛けも、労りも温かいものになった。表情も全く違う。自覚はされていませんが、誰が見ても明らかです。我々臣下だけでなく、国民からも他国からもそんな声が聞こえてきます。すべてのきっかけはヒカリ、貴方なのです。夜明けの光を見るように、あなたがあの方の心を照らしてくれれば、私としてもこんなに嬉しいことはない」
ヘルムートはあたしの心の内を夢中になって探っている、そんな風に見えた。主であるラディウスのため、たぎって高まる鼓動を止められないように、必至に確認しようとしていた。
「ヒカリはどうなのですか?今あなたの中で思い描いている人物は、私が敬愛している方でしょうか?お二人のことを、そういった期待を持って見守っていていいのでしょうか?」
緊張したように唇を強く結ぶと、ヘルムートはあたしの返答をじっと待った。
こんなにも忠義ある人に嘘偽りを言えるわけがない。
ヘルムートはどこまでいってもラディウスの事を考えている。
ソルセリルのことよりも、第一に大切なのがラディウスなのだと分かる強い眼差しだった。
ラディウスは本当にいいバディに恵まれたと心から嬉しくなり、あたしの頬は自然と緩んで笑みの形を作った。
「ええ、そうです。あたしはラディウスを想っています」
あたしの声音に好意が満ちていたのかもしれないし、目が恋情に濡れていたのかもしれない。
ヘルムートの顔にじんわりと微笑が浮かんだ。幸福と興奮の混じった笑顔だった。
「その言葉が聞けて、本当に嬉しい――」
ヘルムートは幸福を噛み締めるように吐息を吐くと、ひどく心満たされた顔をした。顔だけでなく体全体で幸せを表したかのような、やさしい雰囲気を漂わせている。
「イセ•ヒカリ様」
胸に手を当てると急に深く膝を折って、恭しくあたしに頭を垂れた。
「ラディウス様をどうか、よろしくお願いいたします。戦いと争いばかりだったあの方の人生に、自分の感情に嘘のない、素直な満足と喜びをお与えください――。貴方の歩みが幸せであるなら、ラディウス様の歩みもまた同じものになる。2人が辿った道が光に満ち溢れたものになるように、ヘルムートは全力でお支えいたします――」
そんな丁重な扱いを受けたことがないから、あたしはこれまで感じたことのない緊張と居心地の悪さに慌てた。
「い、いやヘルムートさん!まだそうと決まったわけじゃないですから!ラディウスの気持ちも分からないし!」
ヘルムートは頭を垂れたままで続ける。
「あの方は貴方を選びます。表情も仕草も声も、全てがそう物語っている――。人を想うことに疎い主でなので時は要するでしょうが、必ずご自身の気持ちに気づかれるはずです。どうか、それまでお待ちいただきたい……」
そう言われ、あたしは信じられないくらい心が大きく跳ねて、体が浮き上がるようだった。
ラディウスがあたしを好き?
そんなはずない。
だってラディウスは結婚願望はないって言ってたし、恋愛は……何も言ってなかったけど………。
心は戸惑っていたけど、感情の波が押し寄せていた。今までのラディウスの言葉、視線、声――。それがフラッシュバックして、全部が都合のいいように思い起こされた。
アリウェ陛下から手紙を受け取った時の不機嫌な顔。
仕事が手につかなくてイライラするから話せ、と言っていたこと。
慰霊祭であたしを抱えて空を飛んだこと。
一緒にグラータに行こう、と提案してくれたこと。
一緒に見た幻想的な花畑と蝶の幻影の時の表情。
宿のベランダて慰めてくれたこと。
興味ないって言いつつも、一緒にグラータの王都を回ってくれたこと。
その時立ち寄った公園でのやさしい笑顔。
グラータの夜会で踊った時の悪戯っぽい顔。
そして、さっき握り返してくれた手――。
さらに困ったことに、まだ訪れていない2人の未来の創造までしてしまう。
隣で笑いあっているところ、一緒に食事しているところ、手を繋いでいるところ、一緒に住んでいるところ、2人の間にいる小さな命のこと――。
好きという言葉の奥に、「一緒に人生を歩む」という意味まで感じてしまい、強く心をくすぐった。
何も返事をしないあたしを訝しんで顔を上げたヘルムートは、あたしを見るなりクスリ、と笑った。
「ヒカリ、顔が真っ赤ですよ?」
「ええっ!!」
思わずパンッ!と頬を叩く勢いで触れてしまう。
これから大事な会議なのに……。ニヤついてたらどうしよう……。
「ヒカリの想いは充分に分かりました。ラディウス様から想いを打ち明けられた時は、存分に喜んでください。王妃となった暁にはしっかりと作法を叩き込みますので、そのおつもりで」




