表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この世は勇者であふれてる  作者: 栢瀬 柚花
予言と裏切り

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

130/130

惜別


 家はまだ真っ暗で、明かりが灯っていない。ラディウスは帰宅していないようだ。

 ちょっとホッとして扉を開け、田岸さんを寝室まで連れて行く。

 

 ベッドに座らせると、

「ここで休んでいいから……」

 足元に屈んで笑いかけた。

 

 瞳には針のような僅かな光が灯ったままで、確かにあたしを見ていた。

「ヒカリ……ごめん……」

 絹糸ほどのか細い声だったが震えておらず、張りこそないものの、まさしく田岸さんの声だった。

「謝らないで……。全部の事情を、あたしからヘルムートに話すから、心配しないでね……」

「ヒカリ……ごめん……」

 

 音もなく頬を伝う涙は顎からぽたりと、田岸さんの手の甲に落ちた。

 

「謝らないで――」

「兄として……――何も……できなくて……」

「沢山貰ったから、大丈夫……」

「ヒカリに……無理強いを……ラディウスとも……――離れ……て……」

 膝に置かれた両拳を握りしめて泣いている。

 

 内通者だった事実に加え、ラディウスの元を去らなくてはいけないことも、田岸さんは知っている。

 心痛を増す話を聞かせてしまったと、悲しみが満ちた。

 

「ごめん……傍に………いて……やれない……」

 そう言うと、忍び泣きが嗚咽に変わった。

 涙でびしょびしょになった、田岸さんの歪んだ蒼白の顔、声、乱れた髪……。

 あたしの心を映したかのような泣き姿だった。

 

「謝らないで……。あたしこそ……傍にいてあげられなくてごめん……」


 これからここを――ソルセリルを出ていくのはあたしなのに、その泣き姿を見ていると何故か涙は引っ込んだ。感情が壁にぶち当たったように静かになって欠落し、これから取るべき行動を冷静に整理していた。


 まずはラディウスを動けないようにしないと。追ってこられても困るから。

 彼に全てを話すわけにはいかない。特に『心臓縛り』のことは絶対に知られてはいけない。お別れだけ言って……ヘルムートに真相の全てを打ち明けよう。そうすればヘルムートが必要なことだけをラディウスに説明してくれるはず。

 あとは荷物をまとめて……――出ていく。


  

 夢遊病者のように立ち上がると、泣き続ける田岸さんの背中を擦って、

「じきにラディウスが帰ってくるから……お別れしないと……。――もう行くね……」

 挨拶をした。

 

 彼の背中の震えは激しくなり、咽び泣きに変わった。


 こんな状態の田岸さんを一人残して行くのは身を裂かれる思いだったが、ゆっくり背を向けると扉に向かう。

 部屋を出る前に水の防音結界を張った。

 田岸さんの声が漏れ聞こえれば、ラディウスに何かあったと気づかれるからだ。

 

 冷たいドアノブに手をかけ、寝室の外へと一歩踏み出す。

 自分からラディウスとの別れの場所に消えていくのは、闇の中に消えていくのと同じだった。

 

 

            ◆


 

 ラディウスは約束通り、いつもより早く帰ってきてくれた。

「ヒカリ、平気か?」

 家に入るなり一番に気遣いの言葉をくれる。 

「うん」

 返事をしたあたしが一人居間のテーブルに座っているから、

「……ノボルはどうした?」

 首だけ回してその姿を探している。

「疲れたみたいで……。寝室に居てもらってる」

「そうか……」

「本業の仕事に加えてお城の仕事もあっから、無理が祟ったのかもね」

「悪い事をしたな……」

「大丈夫。……また元気になるから」

 

 上着を脱いだ彼はソファにポイと投げながら、

「手紙と鳥からは、あれ以上の情報は得られなかった。集荷場も調べさせたが、投函者は特定できなかった」

「……そっか」

 

 良かった。田岸さんとバレなかった。


「ヒカリ、本当に大丈夫か?」

 隣の席に腰掛けると、銀の虹彩が目に飛び込んでくる。今は少し陰って、夜空に浮かぶ弱い星のほどにしか光っていない。

「表情が暗いし……顔色も良くない……」

 心配の色がいつもより濃い顔で、あたしを覗き込んでいる。

 

 首に手を回して抱きつくと、彼の肩に顔をうずめた。

 今は全身でラディウスを感じたかった。五感すべてを使って、すでに遠く離れつつあるあたしの心をこの場所に留めておきたかった。


「大丈夫じゃないけど……こうしてれば大丈夫になる……」

「そうか……」

 背中に腕が回されきゅっと抱かれると、泣きたくなるほどの温かさに包まれた。

 

「今日は驚いたな……」

「うん……」

「早く床に入ってゆっくりしよう……」

「……――ラディウス」

「ん?」

「…………――大好きよ」

 

 突然の告白に驚いたのは一瞬で、すぐに言葉を返してくれた。

 

「ああ……知ってる」

「傍にいてくれるから……嬉しい」

「これからもそうだ」

「…………今、こうしてくれるから安心する……」

「俺も同じだ……」 


 ラディウスは幸せそうに微笑み、あたしへの愛を囁き、抱きしめ、大事にキスしてくれた。

 それを見る度、感じる度、あたしは彼を裏切っているように思え、心をえぐられた。


 あたしは嫌な女だ。

 愛という呪いを、深く深くラディウスに植え付けている。

 離れられないくらいに刻み込み、虜にするだけ虜にして、あたしはラディウスの元を去る。

 

 彼を愛しているから。死なせたくないから。



 ラディウスから体を離すのは無理やり心と体を引き離すのと同じで、大きな覚悟がいった。

 ずっとこうしていたい。いつまでも一緒にいたいと喉が裂けんばかりに叫びたかった。喚き散らす心の声を聞きながら密着を解くと、二人を繋いでいた糸が切れた気がした。



「夕飯の前にお茶飲もう。喉渇いたから」


 立ち上がってお茶の準備をする。去りがたくてゆっくりと手を動かしたはずなのに、時間は早回ししたかのように進み、湯が湧く時間も短く感じた。

 カップにお茶を注ぐと、こっそりと小瓶を取り出し、ラディウスのカップに麻酔を垂らす。

 

 表面に波紋が浮かび、消えた。

 冷え冷えとした気持ちでその様を眺めた。


 膨大な魔力量を持つラディウスだ。

 きっと常人の量じゃ足りないだろう……。


 そう思ってさらに、

 ぽたり

 ぽたり

 ぽたり

 ぽたり……震える手で追加して垂らした。


 小刻みに震え続ける手で小瓶の蓋をする。 

 何気ない顔を取り繕って、カップをラディウスの目の前に置いた。

 あたしも口を付けて熱いお茶を喉に流し込むが、味も匂いもしなかった。すでに五感が仕事をやめたらしい。



「ノボルはいつ起こす?」

「もう少ししたら……。今はそっとしてあげたいの」

「追加の寝台が必要かもな……。来客用に」

「お客さんなんて頻繁に来ないよ」

「それもそうだが……。あった方が便利だろう」


 

 お茶を飲みながら話をした。 

 同居の引っ越し作業、王都に行く日にち、オススメの文房具店、魚料理の評判がいい店……。

 

 他愛もない「これからの二人」の話しをするのは辛かった。訪れることがない未来を突きつけられ、槍となって刺さり、血が噴き出した。

 あたしは甘んじてそれを受ける。

 血だらけになりながら、ラディウスに麻酔の効果が出るのをひたすらに待った。


 その時間は長く、黒くドロドロとした沼に体が沈んでいくのを待つようだった。粘着性のある悪臭を放つ泥が全身を包み、侵し、内部に侵入してくる。侵入が深くなればなるほど、胸に馴染み、憂鬱さ、戸惑い、怯えが広がり、頭をいっぱいにした。自分に対する失望や落胆、幻滅に似た何かに襲われる。

 

 自分の中の罪悪感が溢れかえった頃、やっと麻酔が効き始めた。

 

 

 座っていたラディウスがくらっと頭を振ったかと思うと、大きく斜めに傾いて、椅子ごと床に倒れた。

 大きな音とともにカップが割れる。

 

「……なんだ…………」

 強い眠気と混濁した意識に襲われているのだろう、頭を振っているが、そんなことでは改善されるわけもない。

 

「ヒカリ……平気か………?」

 

 あたしも同じ目に遭っていると思ったのだろう、焦点の合わない目があたしを探して彷徨う。

 

 平然と座っているあたしを捉え、無事であることに安堵したのも一瞬。 

 冷静な顔でラディウスを見つめるあたしと目が合う。

 

「…………ヒカリ?」

 呂律が回らない口で名前を呼んだ。


 

 あたしは大きく心を動かされなかった。

 震える腕で何とか体を支え、意識を手放さないのはさすがだな、と思っただけだった。


  

「……――やっぱりラディウスは強いね。麻酔が全然効かないんだもの……。通常の倍近く入れて、やっとこの程度」

「…………麻酔……?」

「鬼人だからか、魔力量が大きいせいなのかは分からないけど……ドキドキしたよ。間違えば殺しちゃうから」


 あまりにも淡々とした声は自分のものとは思えず、顔も能面のように動かなかった。


 ラディウスは自分の症状が毒でないと分かり安堵する一方、仕掛けたのがあたしと知って混乱していた。

 

「麻酔……?ヒカリが………?…一体何を……」


 ラディウスの横にそっと屈むと体を引き寄せて、彼の頭を膝に乗せた。

 全くの無抵抗で、コロンとされるがままになる様は、眠気に襲われた子供を扱っているような気分だった。


 ラディウスは懸命に睡魔と戦っているのだろう。瞼が細かく震え、目は虚ろだった。

 

 それを見つつ、そっとアッシュブラウンの髪を撫でる。

 頭の形に沿ってゆっくりゆっくりと手を動かし、眠気を更に誘うように、優しく、囁くように、

「辛そうね――。もう寝ていいよ……。我慢せずに目を閉じて――」

 悪女のふりをした。


 ラディウスは軽い疑いを見せつつも、疑問の方が勝った目を向けている。

 

「…………ヒカリ……何を……考えてる……?」

「……ラディウス、婚約を破棄して」


 彼の瞳の奥で何かが崩れたように、ヒビが入った。


「……――は?」

「婚約を破棄して欲しいの」

 信じられない現実に、目を見開いてあたしを凝視する。


「な……ぜ…………?」

「もう意味がないから」

「……な…………ぜ……?」

「あたしはソルセリルを離れるから」


 ラディウスは自身の頭を撫でるあたしの手を、震える指で必死に掴もうとした。

「ヒカリ…………何を……考えて……る……?」

「……――ラディウスのことを考えてる」


 静かにそれだけ返すあたしを見て――手は掴めたけど、心までは掴めていないと分かったのだろう――ラディウスは瞳を大きく揺らした。


「一人で……決めるな……。話を……聞かせて…くれ…。なぜ……そんな……結論を出……した……?」


 ラディウスが弱々しく握っている指を一本一本引き剥がしながら、あたしは繰り返した。

「ラディウスのことを考えて、決めたことなの」



 あなたのことを。

 あなただけの事を考えて――。


 

 この髪の硬さ、柔らかさ。

 肌の色、瞳の銀の虹彩、眉の形、唇の形、鼻筋、頬の肉の薄さ。

 「ヒカリ」って呼んでくれる声。

 ラディウスが纏う匂い、顔に似合わない大きな手、絡ませてくる指の太さ。



 こんなに愛しいと思う人はいない。

 こんなに愛した人はいない。

 これからもずっと、そんな人は現れない。

 それくらい、あたしはあなたの事が――


「ラディウス……好きよ――」

 

 彼の瞳が叫ぶように揺れた。

 言いようのない不安に襲われていると分かる震えた声で、

「――ヒカリ……何を…………しようとしてる……?」

 怖怖と唇を震わせる。



「ラディウス……好きよ。凄く好き……。愛してる――」

 

 こらから言えなくなる想いを、繰り返して呟く。


「ラディウスを愛してる……。ラディウスだけを……いつまでも…………どんなに時が経っても……生涯、この想いは変わらない。何があっても、どんな時も、いつもいつも、あたしはラディウスを愛してる」


 何度も何度も、頭をなでる。

 彼が好きと言ってくれた撫で方で、好きと言ってくれた膝枕で。


「……――ヒカリ…………どこにも…………行くな……」

 懇願するような強い響きが心を揺さぶった。

「ヒカリ…………頼むから…………一人にしないでくれ……――」


 歪めた顔は酷く切なそうで、見たこともないほど頼りなかった。

 

 それでも、あたしの決意を揺るがすには届かなかった。



「もう寝て……。最後に……――いい夢を」


 あたしは飛びきりの顔で笑った。

 泣き顔でも辛い顔でもなく、最後は笑顔を覚えていて欲しかったから。



 懐から小さな袋を取り出すと、ラディウスの顔の前で左右に振った。

 まだ試験的な吸入麻酔薬だけど、ラディウスのわずかに残った意識を散らすには十分な効果をもたらした。

 

 悔しそうな、泣きそうな顔から表情が抜け落ち、完全に力が抜けてカクン、と頭が動かなくなった。


 

 膝の上で眠るラディウスの目尻には、かすかに涙が見える。指の腹で吸い取ると、骨ばった頬を撫でた。

 指は勝手に動き、目はラディウスを捉えていたけど、心は外にあって、漠然としたことを考えていた。


 ヘルムートに……知らせなきゃ……。


 

 機械のように指を動かし続けながら、 

「ヘルムート……終わったよ」

 風話を飛ばすと、彼は想像を絶する速さで駆けてきた。

 

 彼らしくない強い勢いで扉が開くと、床に転がったラディウスと、膝枕をするあたしをさっと見て、瞬時に状況を理解したようだった。

 

 ヘルムートは苦悶の色を浮かべたが、何も言わなかった。

 静かに覚悟を決め、固く唇を引き締めると、ゆっくりこちらに足を進め、

「陛下は……眠ったのですか?」

 隣に腰を下ろす。


「ええ……。麻酔を倍近く使ったので、呼吸状態に注意して。6時間も眠っていればいいけど……そんなに長くは効かないかもしれない。目覚めた後も目眩と吐き気を観察してね。無理に動けば転倒してしまうから、しっかり見張っててあげて」


 話しながらも頭を撫でる手は止まらなかった。

 静かな寝息を聞きながら、最後の彼の体温を味わった。



 あと内通者の事を……――田岸さんとヘナンのことを言わきゃ……。

 ヘナンの体を冷たい地面に置いておくのは忍びない。


 

「それと、この敷地内――林の中に――ヘナンの遺体があるの。内通者は彼と………――田岸さんだった……」

 

 ヘルムートの息を呑む声がする。

 口を開けたまま凍りついたヘルムートの顔が目の端に映った。

「……――ノボル?ノボルが……?」


 あたしは録音された声を再生するように、今しがたの出来事を喋った。


  

傀儡(マリオネット)』のスキルについて。

 アザルス国での田岸さんの行動。

 ソルセリルに移住してからの行動。

 ヘナンの動向とミス。タハルカ陛下の関与。

 キュクレストを差し向けた犯人。

 似顔絵を見せた時、田岸さんが嘘をついていたこと。

 紛争で仕掛けられた数々の罠と目的。

 ラディウスに『心臓縛り』をいつ、どうやって仕掛けたか。

 ヘナンの最後。


 

 あたしの部屋の調度品達は事の深刻さを分かっているかのように、タンスも椅子も机も絨毯も寝台も、黙って話しを聞いている気がした。 

 

「ヘナンのことは丁重に弔ってあげて……。もう……――何もできないんだから……せめて…………丁重に――」

「……――分かりました」

「グスタフにも知らせてあげてね……。他の人には……殉職したとだけ……通達を」

「はい……」


 声の余韻が静寂な部屋に反響している。 

 別れを悟った慣れ親しんだ家は、急に他人行儀になった。初めて入った他人の家のごとくよそよそしく、居心地が悪い。


 あたしはいよいよお別れが近いと思い、ラディウスの寝顔に視線を縫いつけた。



 会えることはあるだろうけど、その時いるのは「ラディウスを愛した」あたしじゃない。

「ラディウス」って笑って、気軽に名前を呼ぶこともないあたしだ。


  

 …………――あぁ、悔しいな。

 「ラディウスを愛したあたし」には、もう戻れないなんて……。



 ラディウスを想う、深くて強い愛を両手で包み、箱に入れる。

 寝る子を起こさないようなそっとした手つきで蓋をした。

 幾つも幾つも幾つも幾つも幾つも、蓋を重ねて重ねて重ねて重ねて、丁寧に気持ちを断つ。



 ラディウスを愛したあたしはもう終わり。




 頭を撫でていた手を止めると、その頭を静かに床に下ろした。無防備な寝顔なんて二度と見られないな、と痛いくらいに思う。


 引き剥がすようにラディウスから視線を外しヘルムートを見ると、彼は内臓をギュッと掴まれたような顔であたしを見ていた。

 言葉よりもその瞳が雄弁に心を映していて、思わず心臓が跳ねる。

  


 駄目だ。決意したんだ。

 ラディウスを守るって。


 しっかりと動揺したけど、気丈なフリをして口を開いた。


「ヘルムート、ラディウスと田岸さんを頼みます」

 

 彼は返事もしなかったし、頷きもしなかった。

 目だけがあたしを真っ直ぐに見つめ、決して逸らさなかった。


 もうこれ以上、何も言うことはないと思い、音もなく立ち上がると、右手にはめているソエイラの指輪に手をかける。

「エルマージ」

 外れた指輪をテーブルに置く乾いた音が、静まり返っった部屋に大きく響く。


 タンスを開けて荷物をまとめ、必要な分の薬を詰める。

 作業する間、背中にヘルムートの刺すような視線をずっと感じた。

 

 一泊旅行をするような大きさのカバンに全てが収まると、準備は終わり。

 

 あとは部屋を出ていけばいい。

 

 いよいよ、暗い絶望の日々に向き合わなくちゃいけない。心を殺して過ごす生活を思っても、動揺はしなかった。

 ただ大きくあいた穴に、自分からロープを垂らして降りていく。それだけのこと。


 だから怖くない。

 寂しくない。

 震えたりしない。


 ……――嫌じゃないとは…………――言わないけど。


 

「ヒカリ様」


 固いヘルムートの声。振り返ろうか悩んだ。

 ここで何を言われても決意は変わらないけど、気持ちを揺さぶられたくなかった。

 だから光るソエイラの指輪を見つめながら、

「……――何?」

 返事した。


「私はあなたのことも敬愛しています。ですから、見送るのは本望でない、ということだけは知っておいて下さい……」


 怒りも悔しさもない、真っ直ぐな声は一番痛かったかもしれない。


「……――覚えておくね」


 それ以上喋ると余計なことまで口走ってしまいそうで、固く唇を引き締めると足を動かし、扉の取っ手を掴んだ。

 酷く冷たく感じたノブを回し扉を開けると、最後に一言かけたくて、乾いた唇を舌で湿らせ、口を開いた。

 

「元気で」


 振り返ることは出来なかった。




 


 家の外はすっかり夜が更け、帷が降りている。

 月は隠れていて、星がうるさく光っていた。


 林を歩き、結界の終わりを示す門まで来ると、そっと扉を開けた。軋む音が闇に吸い込まれていく。


  

 門を出ると、いつもの道、いつもの景色を一人で歩く。

 違うのはあたしの心だけ。


 無限の厚ぼったい海のような夜の底。

 城とお屋敷を背にして適当に道を歩いた。

 手にするランタンの明かりだけが先を照らすが、いつもに比べて闇が濃い夜だと思った。 

 夜の塵に覆われたまま静まりかえっている道に、自分の足音だけが聞こえる。


 どれくらい歩いたか、道が2つに分岐した。


 この辺りでいいか。


 周囲に誰もいない事を確認して、懐から麻袋を取り出した。

 ランタンの火を袋につけて、地面にポイッと放つ。

 

 麻袋はオレンジ色の炎に包まれた。

 生き物のように麻袋を喰っていく炎の動きを凝視する。ヘビが蛙を飲んでいる様を見ているような、不快な気分だった。

 袋が焼けていくと、不思議な匂いの煙がモクモクと立ちこめ、風に乗って流れていく。

 白い煙をぼんやりと眺め、近くにある石に腰をおろした。


 あとはテオドールの到着を待つだけ。



 ここまで来ると、あたしの視界からは色が消えていた。

 世界はモノクロになって、ランタンの炎は灰色に揺れて、星は瞬きを止め、光らなくなった。

 鳥の声も風の音もどこか遠く、くぐもって耳に入ってくる。 

 心は妙にしんと底冷えしたように刺々しく澄み切っていた。


 自分から大穴に降りていくと、こんな気持ちになるのか――。


 知り得なかった事実に、第三者のような感想を抱いていると、乾いた地面をガタガタと鳴らす荒っぽい音がした。

 馬車だ。

 もう警戒も心配もする必要がないので、あたしは暗闇を真っ直ぐに見つめた。

 

 砂埃が見えたかと思うと、ぬっとその全容が見えた。

 2頭立ての馬車は2人乗りの大きさをしていて、目の前で停止するとギシギシ音を立てて扉が開いた。


「合図、確認しました」

 朗らかに笑ったテオドールが、地獄の使者のように見えた。


 彼とともに、これからは生きていくんだ。


 あたしの頭の中には、赤い乾燥した地面が永遠に広がる荒涼とした地が浮かんでいた。

 心の内は、カラカラに乾いた荒野そのものだ。水もなく、休む木陰も緑もなく、乾いた風が時折吹くだけのやせ細った大地。目印になるものも、オアシスもない。行き先もない。果てなく歩き続けるだけの旅。方向感覚を失い、そのうち水場を探すことも、夜をしのぐ寝床を探す気力もなくなるのだろう。



「さぁ、いきましょうか」

 差し出された手を取ることなく、あたしはさっさと馬車に乗った。

 テオドールはさっそく突っぱねられた手を持て余し、苦笑いしていた。仕方なく取っ手を握り、扉を閉める。


 バタン


 どうしようもない終末感が、扉の閉鎖音と共に胸を一杯にした。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ