ずっと本当の
ハッとして振り返ると、いつもの目をした田岸さんがあたしを見下ろしていた。
ここがどこだか分からないようで、落ち着きなく辺りを見回し、あたしを見て、テオドールを見た。
「お前……は………テオドール……?」
似顔絵で見た顔に警戒の色を浮かべている。
「はい。貴方にとっては『はじめまして』。テオドール•アザレインです」
ザクロのように弾けた指からぼたぼたと血を垂らしながら、テオドールは笑って挨拶した。
田岸さんは困惑し、
「なんで……こんな所に……?さっきまで……ヒカリの家に…………?」
記憶の場所と現在地が違うこと、目の前に主犯がいること、誰かが……間違いなく死んだ誰かが横たわっている事実が呑み込めず、どういうことだ、とあたしを見た。
「ヒカリ……これ……は……?」
どう説明しようか口を開き、また閉じ、息を吸って開いて、また閉じた。
パクパクと開閉を繰り返すだけの口元を見て、田岸さんはさらに質問しようとしたが、突然顔を顰めると、
「いたっ……」
頭を押さえた。
どんどん苦痛の色が濃さを増し、
「ウウッ……!」
思い切り顔を歪めると立っていられないのか膝を折ってしまった。
「田岸さんっ!」
彼は真っ青で「あた……ま…が……割れる……」切れ切れに呟いた。
「記憶の欠片といっても3年分ですからね。相当な量でしょう」
テオドールは貼り付けた笑みのまま、見下ろすようにじっと田岸さんを見つめていた。
田岸さんは「うっ…ぷっ…」と血の気の引いた顔で呻くと口を覆い、耐え切れずそのまま嘔吐した。激痛に吐き気がしたんだと思い、背中を擦りながら、
「吐きたいなら我慢せずに吐いて下さい」
丸まった大きな背中に手を添え続けた。
何度か咳き込み胃の中身を全て吐き出した田岸さんは、ハァハァ……と荒い息を繰り返しながら、
「俺は……ヒカリ……を……ずっと……?」
まるでそこに敵がいるように、俯き加減で地面を凝視し言葉を吐いた。
「俺が…………ずっと……ずっと…――。そんなこと……」
体は固く凍り、震え出した。呼吸はさらに乱れ、乱れに比例して体も震えを大きくした。
「田岸さん……田岸さん……!」
背中から真正面に移動し声をかけたが、田岸さんの視界にあたしは映っていないようで、見開かれた目からは大粒の涙が溢れ、それにすら気がつかず地面を見つめ、動揺していた。
「なんで…………そんな……今まで……嘘を……?」
もはや息をしていると言えないほどに蒼白で、手も激しく震えている。
とても見ていられず、
「田岸さん……田岸さん……!落ち着いて……。ちゃんと息を……息をして!」
泣きながら懇願した。
言葉を出そうにも、リズムを乱した呼吸が邪魔をして上手くいかず、あたしは田岸さんの顔を覗き込んだ。
「田岸さん……しっかり……!あたしを見て……!」
黒とは言えないブラウンの瞳があたしを見返す。
弱りきった顔に生気はなく、この世の全ての悲しみを背負ったようだった。
いつもの柔和な田岸さんから想像もできないほどの憔悴しきった表情に、心臓を拗じられたかのような痛みが走る。
なんでこんな事になったの?
なんで田岸さんだったの?
悔しさとやりきれなさで涙が溢れた。焦点がぼやけて仕方なかったが、手を握り、肩をさすり、必死に田岸さんを見つめ返した。
「落ち着いて……大丈夫……。田岸さんは悪くない……悪くないから!」
「…………ヒカリ……俺は……」
震える唇でなんとか話そうとしていたが、もつれた感情の糸は解けそうになく、言葉も紡げないようだった。
「落ち着いて……頭痛は?良くなった?吐き気は?」
問いかけても田岸さんの心はここになく、
「俺は……ずっと……ヒカリを騙して……。ラターナ村でも……密告を……」
罪悪感と背徳感に埋め尽くされているようだった。
このままだと呑まれてしまう。深い闇に落ちて這い上がれなくなってしまう。
そんな事になれば……あたしはまた家族を失う。
ラディウスの命も握られているのに、その上田岸さんまで……。
嫌だ。考えたくない――。
「田岸さんっ!」
手を握り、涙に濡れた頬に手を添えた。冷たく赤みもなく、粉を塗ったように白い顔は死相が見えるほどだった。
「あたし知ってるから……全部知ってるから……」
そう言うと、
「……ヒカリ……知って……?」
ゆるゆると眼球が動き、やっと目を交わし合えた。
視線を逸らすことなく深く覗き込むと、瞳の奥に沈んでいる田岸さんに話しかけた。
「田岸さんは3年間、ずっとヘナンの『傀儡』のスキルに支配されてたの……。必要な時だけ支配を受けて、傀儡になっていた時間の記憶はヘナンの中に封印されてた。だから覚えてなかったの。ヘナンは……さっきテオドールの『心臓縛り』で殺された……。術者が死んだから3年分の記憶が一気に田岸さんに戻って、強い頭痛に襲われて……。体が耐えてくれて良かったけど……苦しかったでしょ……?」
一気に喋る間、田岸さんは瞬きもせずにあたしを見つめた。そこにいるのはただ視線が合っているだけの空虚な抜け殻の田岸さんで、何としても声を届けたい一心で話しかけ続けた。
「田岸さん……田岸さん……。ねぇ……聞いて……。やりたくてやったわけじゃないって……知ってるから……。打ちのめされそうなくらいショックを受けてるのは……わかってるから……」
届かない声が悲しくて寂しくて、涙が溢れた。
途切れそうなくらいの声しか出ず、歯の間をようやく洩れるくらいの響きで呟いた。
「……――お願いだから……一人に――しないで……」
切望の声に、僅かな反応があった。
瞳の奥の田岸さんは背を向けたままだったが、声が届いたことは分かった。あたしは丸まった背中に、糸のような細い声で話し続けた。
どうしても振り向いて……いや、せめて顔を向けて欲しかった。
「この世界に来た一番最初から……田岸さんは傍にいてくれた……。ラターナ村から始まって……ソルセリルに来てからも……ずっと助けてくれた……支えてくれた。妹として可愛がって、心配して……寄り添い続けてくれた……。田岸さんは優しい――。ずっとそうだった……。田岸さんがいてくれてどんなに良かったか……。この世界に来て一度も絶望も失望もしなかったのは、全部田岸さんがいてくれたからよ。あたしは何度も助けられてる――。だから……こんなにも傷ついた田岸さんは見ていられない……。お願いだから……声も届かないような暗闇に行かないで……。せめて……あたしを見て……。一人にしないで……残していかないで……。家族は失いたくないの……」
瞳の中の田岸さんはゆるゆるとこちらを振り返った。
背中を向けたままで、顔はそっぽを向いていたけど、それでも振り返ってくれた。
「苦しさを全部分かってあげられなくてごめん……。今まで頼りっぱなしで……ごめん……」
何度も繰り返し、田岸さんの肩をさする。そうしていれば悲しみも悔しさも無力感も追い払えるかのように、手を動かし続けた。
「本当の妹みたいに……してあげられなかったかもしれない……。今も……できてないのかも……しれない。ごめんね……力になれなくて……ごめん」
「……――そんな……こと……ない……」
風が吹けばかき消えてしまいそうな、かすれ声だった。
目の前の田岸さんの瞳に、針のような僅かさだが、光が見えた。
「ヒカリは……ずっと……本当の妹だった……」
夜の闇に吸い込まれてしまうのではないかと心配になるくらい儚げな声に、息を殺して耳をそばだてた。
「ずっと……ずっと……守りたい妹だった……。今も……変わらない……」
こんなに心を壊しながらも思ってくれる本音に、とめどなく涙が流れ落ちた。
「うん……うん……。あたしにとっても……本当の兄だよ……。これからも……ずっと変わらず……」
本当の兄妹じゃないけど、この時のあたし達は確かに何かが繋がっていた。意識が太いパイプのようなもので結ばれ、2人の気持ちが通い、痛みも悔しさも後悔も負い目も自責の念も、全てを共有していた。確信に近い一体感のようなものに襲われていたが、お互いにそれを受け入れていることも分かった。
「田岸さん……闇に呑まれずにいて……。このままの田岸さんを見てるのは……辛い……胸が痛い……」
握っていた田岸さんの手にほんの少し力が入る。握り返そうとしてくれる骨太の指は、らしくないくらいほど悴んでいた。いつも擦ってくれる手は温かいのに、と思いながら、あたしはゆっくりと、でも力を込めて手を握った。
「時間がかかってもいいから……こっちに戻ってきて欲しい……」
「戻ってこれたとしても、ヒカリはもう会えませんよ」
すっかり忘れていたテオドールの声が、不快な音としてあたしと田岸さんの間に入ってきた。
「忘れたわけじゃないと思いますが、ラディウスの術は成功しています。彼の生死は俺にかかっている」
真っすぐにテオドールを睨みつけると、
「兄妹の会話は邪魔しませんでしたよ?」
不愉快そうに言った。
田岸さんの手を掴み、目はテオドールを睨んだまま、
「宿願を果たして、あんたはどうするの?ラディウスを人質にとってやりたいことは何?」
トゲのある声で尋ねた。
「実を言えば、そんなに多くはないんですよ。一つはヒカリと共に行きたい所がある。二つはヒカリと共に暮らすこと。これだけです」
「それだけなの?ソルセリルはどうでもいいの?」
「滅んでくれれば万々歳ですが、きっと俺はそれを見届けることはできません。意味はお分かりでしょう?」
やっぱりソルセリル滅ぼしたい願望は低い……。
見届けられないのは寿命を縮めてしまったからだろう。ヘナンを手に掛けた今、もう多くを縛ることは出来ないはずだ。恐らくラディウスを縛っているのが……最後のはず。
あたしと暮らしたいというのは、あたしとラディウスの両方に精神的苦痛を与えるためだろう。
テオドールの言う『惚れた』という言葉は軽い。ラディウスがくれるどんな言葉よりも、ずっと薄くてペラペラだ。あたしが棘のある言葉や剣のある目を向けても、全く心動かされていない。本当に恋をしてるなら、反応があるだろう。でもそんな様子は一切ない。恋愛感情はないと分かる。
そうと分かった上で、言うことを聞かなきゃいけない。
田岸さんの手を握る指が冷えていく。
手放さなきゃいけない温もりを思うと、ひどく切なかった。
「……あたしはあんたと一緒にいけばいいのね……」
風上にいなければ聞こえないほどの小さな沈んだ声だった。
「おや、快諾ですか?」
全く見当違いな発言をするテオドールの横っ面を弾く勢いで、
「喜んでるように見えるわけ?」
睨み付けた。
「どう見てもそうは思えませんね」
テオドールは臆することなく軽い口調でそう返す。
何を言っても、どんな表情をしても焼け石に水で、早くも疲れてきた。負け惜しみで、
「今後もそうなる予定はないから」
冷たく言い返した。
「そうですかね?共に暮らしていれば、万が一もあるかもしれませんよ?」
一瞬で沸点に到達した勢いと怒りは、同じくらいのスピードで氷点まで下がり、呆れてものも言えなくなった。本当に疲れる……とため息が漏れる。
テオドールしかいない場所に移らなきゃいけない。
田岸さんもヘルムートもエッダもグスタフも……ラディウスもいない場所に。
深い深い絶望の谷へと落ちていくような、足元が崩れ二度と這い上がってこれない暗黒へ自分から踏み込むようだった。
でもどうすることもできない。
ラディウスを生かすためには決意するしかない。
選択肢は残されておらず、何の準備もなく、飛びたくない高所から踏み切る事を強いられている気分だった。
「……――あたしに選択肢はない。テオドールと一緒に行く……」
「ありがとうございます」
満面の気持ち悪い笑みを浮かべ、テオドールはうっとりとあたしを見た。
彼はあたしに生理的に、としか言いようのない嫌悪感を与えた。足の多い昆虫を目撃した時と似た不快感だ。
そんな奴と共にいなきゃいけない。
これからずっと。
「支度があるでしょう。ノボルの事もある。それと、渡したい物があるのでこの拘束を解いて頂けませんか?」
ちらりと一瞥を向けた後、仕方なく結界を解いた。
手足が自由になったテオドールは、ポケットに手を突っ込むと手の平サイズの袋を取り出す。
「準備が終わったら、この袋に火をつけて下さい。合図となる煙が出ます」
ポン、と投げて渡される。
随分と軽い音を立てて地面に転がったそれは、麻袋だった。
手に掴むと鉛のようにズシッと重く感じられる。これはあたしの気持ちの重さだ。実際は指先で摘めるほどに軽い。
麻袋の中身を探ると、粉が入っているらしいと分かった。
「あまり遅くならないようにして下さいね。馬車で移動する予定なので、御者も馬も待ちくたびれてしまう」
テオドールは身を返し、
「楽しみに待っています」
世の中で最も目にしたくない笑顔を向けた。
「どこへなりとも連れていけばいいけど、あたしはあんたのこと、生理的に嫌いだから」
精一杯示した嫌悪感なのに、テオドールにはやはり効果がなかった。変わらずのニタニタ顔で、
「知っています。それでもあなたは俺の言いなりになるしかない。共に来るしかない。愉快ですね」
闇の中へ消えていった。
田岸さんと2人残され、一気に安穏とした夜が戻ってきた。夜行性の鳥が鳴き、葉が擦れる僅かな音しかしない静寂。空は晴れ渡り洗われたように澄んで、星が美しく瞬いていた。
呆然と見上げ、まるであたしの心とは正反対だと笑えてきた。
体は砂袋になったように重く、ここから動くことを拒否していた。
ずっと握ったままの田岸さんの手を掴む。
こうしているわけにはいかない。今にもラディウスが来るかもしれない……。
ラディウスにヘナンの死体を見られるわけにはいかない。
田岸さんの事を説明するわけにはいかない。
ずっと折り曲げていた足をゆっくりと伸ばし、立ち上がった。田岸さんもそれに釣られて立つと、手を引かれるままに歩き出した。
夜の漆黒の林を抜けていく。足を踏み出すたびに、自分の身体が黒く染まり、さらに足を出すと、大事なものがボロボロと落ちていく気がした。
あたしはラディウスに別れを告げるために家に帰る。
こんなにも絶望して家に帰るのは、後にも先にも、これが初めてだった。




