内通者の末路
テオドールは右手の人差し指――先ほどヘナンに仕掛けたと言った指とは違う指――に紫の幾何学模様を出現させてみせた。美しいまでに光る幾何学模様は夜の闇に映え、キラキラと美しく輝く。
その輝きから目が離せなくなった。
ラディウスへの『心臓縛り』が成功している……?
テオドールの台詞がわんわんと頭の中で反響し、何度もあたしを打ちのめした。
なんで?
いつ?
テオドールはいつラディウスを目視したの……?
体中は凍てついたように動かず、手足がすくみ、喉に綿を詰められたみたいに立ちすくんだ。
反応しないあたしに、
「茫然自失ですね」
テオドールは縫い留められた足を無理やり動かし、敷地の結界が反応するギリギリまで迫った。ミシミシと音が聞こえる。骨折しようが構わないというくらいの異常行動だ。
あたしの顔を覗き込むと、
「いつラディウスに術をかけたか気になるでしょう?気になりますね?」
ふざけた態度と表情に我慢できず、テオドールに平手打ちを食らわせた。今度は素手だった。
パァーン!
小気味よい音が夜陰に響く。
テオドールは怯むどころか嬉しそうに、
「俺が憎いですか?俺が忘れられないでしょう?」
顔をのぞき込み続ける。
「ラディウスに術を施したのは、もうずっと前です。そうですね……ヒカリがこの家に戻ってきた直後です」
「…………――は?」
また言葉が頭の中で響いた。
直後……?
直後って…………。
そんな前に…………?
目の前が真っ暗になり、音という音が耳から消えた。
テオドールに目が釘付けになり、彼の声しか入ってこなくなった。
「昨日、随分な覚悟をノボルに話していましたね?ガラテアから遠視の結果を聞いて焦ったんでしょう?あの内容は俺にもよくわかりませんが……場所については心当たりがあります。半月も経たずしてその時がくる、というのも的中でした。ガラテアの能力は本物だと、身に沁みて思い知らされましたよ!
アザレイン家についてもよく調べていました。やはりヘルムートは優秀ですね。術の等価交換が寿命というのは正解です!素晴らしい!しかし俺があと一人に術を施せば死ぬ、というのは間違いですよ。そこは残念でしたね!」
イタズラが成功した子供のような言い方、表情……。
見たくもないのにあたしの視線はテオドールから離れず、凝視し続けていた。
いや、正確には固まって動けなかったのだ。頭の中身が抜け落ち、何も考えられなかった。
「術は鳥を介した『目』で見て発動させました。直視する必要はないんですよ!家でラディウスが甲斐甲斐しくヒカリの看病をしている時でしたね。実に愛に溢れた光景でしたよ」
テオドールの声が耳に入り、ただ通過していく。回送列車のようなもので、通過する車内に誰も乗っていないのと同じだ。言葉に温度も感情も乗っていない。ドイツ語とかフランス語とか知らない国の言葉のように、意味を持った言語としてではなく、ただの音として耳を通過していく。
術は発動した……。
あんなにもラディウスとの時間を守りたいと思っていたのに……。ここでの生活を――二人の未来を掴むんだと追い求めたのに、知らないうちに終わりを迎えていた。
いざとなったらテオドールを――殺してでも止めると決意したあたしの不退転の想いは、試されることもなく終わりを告げた。
ラディウスの命はテオドールが握っている。
あの右手の指に輝く幾何学模様が憎くて仕方がなかった。それ以上に、遊びのようにニヤつくテオドールが憎かった。
「衝撃で言葉も出ませんか?それも致し方ないですね。あんなにも覚悟を決めていたのに、全くの徒労に終わったのですから」
前のめりになっていた姿勢を伸ばし、人差し指の幾何学模様を消すと、今度はヘナンを見た。
「さて、ヘナン。ラディウスを捕らえた今、お前はもう必要ない」
今度は中指に模様を出す。ヘナンを縛っている方の模様だ。
ヘナンは黙って、冷めた目でそれを見ていた。
「そうそう。ノボルが忘れている記憶ですがね、ヘナンが死ねば戻りますよ」
思い出した補足事項を喋るようにテオドールは言う。
「『傀儡』は発動中に術者が死んでも、操られている者は死にません。操られていた時の記憶が一気に流れ込んでくるだけです」
それにピクリと反応した。
「流れ込ん……で……?」
手応えのある反応が返ってきたのを見たテオドールは、話を続けた。
「傀儡中の行動の記憶は、術者であるヘナンに蓄積されます。ヘナン自身はそれを見ることは叶いません。ただ記憶を入れる器となっているだけです。他人の記憶を自身に入れ込むことは相当な精神負担がかかりますが、ヘナンは心を壊すことなく3年耐え続けました。そこは称賛に値しますね」
長年に渡り仕えてきたヘナンに、主として言葉を送るテオドールはほくそ笑む。
「これから術を解除しますから、苦痛から解放されますよ。戦争孤児として野垂れ死ぬだけだったお前の人生は、他人を欺き、命を刈り取ることで続いてきた。それもようやく終わるというわけです。良かったですね、ヘナン?」
一瞥を向けただけのヘナンの瞳には、何の感情も見えなかった。
嬉しいも、悲しいも、死を目前にした恐怖もない。
「術者が死ねば、記憶の欠片は本人に戻ります。ノボルは完全な記憶を取り戻す、というわけです」
完全な記憶……。
――それは……つまり…………。
田岸さんがこれまでの裏切りの行動を……自覚するってこと?!
事実に気がつくと、抜け落ちていた頭の中身が戻ってきた。
テオドールはあたしが茫然自失から回帰したことを確認すると、氷の目で笑みを崩さず言う。
「ノボルは言っていましたね?『ヒカリの覚悟を見届けます』と。彼の願い通りにしてあげましょう」
「っ……!」
『傀儡』に囚われ続けて欲しくないが、解除された代償があまりにも大きく残酷だった。
あんなにも頭を悩ませ続けた内通者と暗殺者の影。沢山心配し、心を砕いてくれていたのに、その全てを自分がやっていたなんて知ったら………――田岸さんは……。
テオドールは人差し指の幾何学模様を眩しいばかりに光らせると、縮めていった。
ヘナンは「うグッ……」と胸を掴み背中を丸める。崩れるように膝を突き、呼吸を大きく乱している。冷や汗が止まらず、顔面蒼白だ。
先ほどとは違う苦しみ方に、思わず駆け寄った。
「ヘナン……!」
丸まった背中は硬く緊張し、震えていた。冷や汗でじっとりした体は熱いくらいで、痛みがどんどん強くなるのか、ヘナンは頭を地面に突き、声にならない声で呻き続けた。
「ヘナン……ヘナン!」
どうしてあげることもできず、でもなんとかしたくて、あたしは腰に下げていたウエスポーチに手を突っ込んだ。
ガサガサ乱暴に中を探り、麻酔を掴むと背中にぶっかける。
あたしの意味のない行動にテオドールは呆れ、
「そんな事に何の意味があるのです?あと数分もしないうちにそいつは死ぬというのに……」
「黙れっ!!!!」
憤激の雄たけびを上げるとテオドールは驚いていたが、すぐに笑みを取り戻した。
あたしはヘナンの背中を擦り続けた。
確かに彼は裏切っていた。
でも……でも……――
こんな激痛に襲われて死にたい人はいない。
悪事を働いていたヘナンだとしても、あたしの中では剣を教えてくれた師匠だった。それは紛れもない事実。
だから少しでも……せめて痛みだけでも……楽にしてあげたかった。
麻酔が効いたのか、ヘナンは早い呼吸を続けながらも僅かに顔を動かしてあたしを見た。
彼の目には恐怖も後悔も良心の呵責もなかった。
ただあたしの瞳をまっすぐに見返し、これでいいんだ、と言っていた。
丸ごと現実を受け止めたヘナンは、この世を憎んでいるわけでも、テオドールを恨んでもいないようだった。侍のように静かに自身の死を受け入れた彼は、風のない海面のようだった。
あたしもそれを受け入れ、ぐっと唇を引き締めて受け止めた。
これがヘナンの死に様だ。
彼を信用していたグスタフやヘルムートに……ちゃんと伝えてあげなくちゃ……。そう思って目を逸らさなかった。
標的と裏切り者がなにやら通じ合っているのを感じたテオドールは、
「面白くないが――まぁいいでしょう……」
氷点下の声で言った。
指の幾何学模様をより締め上げると、ヘナンはぐっと目を閉じて呻き、苦痛から呼吸を止めてしまう。
テオドールの指はミシミシ音を立て血が噴き出していた。そんなこと意に介さず、ヘナンを温度のない表情で見つめたまま喋り続ける。
「長年に渡りお疲れ様でした、ヘナン。もし……もし向こうで妹に……エリアナに会えたら――『兄も直にいく』と伝えてください」
指はどんどん模様に喰われ、血が吹き骨が見えた。
残忍な光景を見ていられず、思わず目を逸らしてヘナンを見た。
激痛に襲われながらも、最後にこの世を見ておこうというよに、ヘナンの瞼が開かれる。
切れ長の目、その奥には崩れた鈍い光があった。
その光を脳裏に焼き付ける。
あたしが忘れなければヘナンは死なない。本当の意味では死なないのだ。
やがて聞いたこともない音がし、テオドールのこもるような低い痛みの声がしたかと思うと、ヘナンの瞳孔は止まり、弾いたように見開いた。
あれだけ荒かった息は止まり、もともと少なかった表情は人形のように固まる。
やっと顔を出した月光に、血の通わなくなった青白い顔が照らされた。激痛にもがいて握りしめられ、へしゃげ、引きちぎられた草がはっきり残っていた。
誰の声もしなくなった林の中は、ここへ来た時と同じように夜行性の鳥が鳴き、葉が擦れる僅かな音しかしない。風はない。
一人の人間が激痛に呑まれ死んだというのに、この世界は何も変わらなかった。
医療者として繰り返し死を看取ってきたあたしだが、ここまで辛く感じる死はなかった。親族や友人との死別とは全く違う穴を感じた。
穴は漆黒で底は見えない。ただ大口を空けているだけの穴を上から見下す。投げ込む花もなく、かける言葉もなく、心の中でそっと手を合わせた。
現実世界のあたしは、見開かれたヘナンの瞼を閉じた。この姿勢では苦しいだろうと、丸く蹲った体を横に向けて胸の前で手を組ませてあげた。
すでに体温を失い始めたヘナンの手は傷だらけだった。決して剣だけで負った傷ではないんだろう。
今は穏やかになった彼の顔を見つめていると、
「…………ヒカリ……?」
呆然と呟く田岸さんの声がした。




