廃屋での会話
輝きが消え失せると空気がすっと変わり、あたりは暗く、冷たくなった。
いよいよ死ぬんだと頭の片隅で思ったら、
「女を離せ」
風話と同じ声が命令した。
パッと首の拘束が解かれ、体は地面に崩折れる。
途端に激しく噎せて、大きな咳と呼吸を繰り返した。
さっきまで空っぽだった肺に新鮮な空気がわぁっ、と入ってきて、涙が出た。
本能が猛烈に酸素を求めて暴れ狂い、あたしは自分がどんな格好をしているのかも分からないくらい必死に呼吸を繰り返した。
焼け付く喉と肺が痛い。
喉のあたりに熱感がわだかまっていて、そこにまだ指がある気がしてならなかった。
自分の手で喉元を押さえ、呼吸を妨げる異物がないことを確認する。
肩で息をしつつも、頭に浮かんだのは『生きてる』の文字だった。
死ななかった。
殺されなかった。
呼吸の激しい苦しみと喉の痛み、死への恐怖がゴチャゴチャになってあたしを襲い荒れ狂っていたが、生き残れたという深い安堵が心を占めていた。
もちろん、完全に安全な場所でないことは分かっていた。
それでもまずは『殺されなかった』という安堵が大きかった。
生きていればなんとかなるかもしれない。
ラディウスに会えるかもしれないという希望を、捨てないでいられる。
ひとしきりの呼吸をして、ようやく咳が治まると、やっと目を開ける事ができた。
そこは廃屋だった。
屋根がなく、天井からどんよりした厚い灰色の雲が見える。
辛うじて繋がっているドアは今にも崩れそうで、ノブはおかしな方向に曲がっていた。ベッドはひしゃげ、原形を留めていない。
もう何十年も誰も使っていないと分かる朽ちた小屋だった。
そして、そこに立つのは廃屋に不釣り合いな服装をした男。
上等な生地とわかる光沢あるシャツ、ベスト、暖かそうなコート。
靴もピカピカで曇り一つない。
そしてそれを着る男の顔。
人懐っこそうな丸い目に柔和な笑顔。どちらと言うと童顔で、目が大きく口角が上がっているので、パッと見ると話しかけやすそうな雰囲気を醸し出していた。
似顔絵の中に無い顔だった。
「えらく怪我をしていますね」
男はまるでショウウインドウの商品を眺めるような、のんびりとした口調で言った。
「ここまで痛めつけろ、とは言わなかったはずですが?」
大柄の男に向き直ってそう言うと、
「あいつの仕掛けた罠魔法のせいだ」
肩をすくめる大柄の男は悪びれる様子もなく、ただ見た事実を話した。
「こいつの張っていた防御魔法の中でたまたま発動した。ズタズタに引き裂かれて死んだと思ったんだがな。魔力抑制をかけたせいで、そこまでの威力じゃなくなったんだろう。こいつにとっては不幸中の幸いだな」
指示を出していた男はまたあたしの方を向き、
「ポーションは持っているのでしょう?それでさっさと回復して下さい」
じっとあたしが動くのを待った。
どういうこと?
ついさっきまで殺そうとしていたくせに、今度は助けようとするの?
あまりの矛盾に警戒して動けずにいると、
「ポーションは持っていないのですか?先ほどので最後でしたか?」
そう尋ねてきた。
先ほど?
わけがわからず、じっと彼を見つめると、
「おや?俺が誰か分かっていないようですね?」
楽しそうににっこりと笑った。
まるで同級生と談笑する男子のような無邪気な顔だった。
男は屈んであたしに近づくと、
「俺ですよ、俺」
ハンカチを取り出した。
薄く血で汚れているが、鮮やかな青い羽根に、目の周りに黄色い縁取りがある顔、特徴的な胸の白いミカヅキ模様の鳥が、とても丁寧に刺繍されている。
あたしは絶句して彼を見た。
微笑む彼は、そんなあたしを見てまた笑った。
さっきまで好青年だと思っていた彼の輪郭までもが、急激に歪んでいくような笑顔だった。
「あぁ……。嬉しいなぁ。そんなに驚いてくれるなんて――。痛い思いをした甲斐がありましたよ」
完全に絶句してしまい、まったく声が出なかった。
なぜ?
奥さんと、これから生まれてくる子供がいるじゃなかったの?
言葉にしていないのに、彼は嬉しい顔を崩さず勝手に話し出した。
「俺は独身です。妻も子供もいない。あんな口だけの情報を信じるなんて、つくづく馬鹿ばかりでした」
ひらひらとハンカチを振り、
「これは我がアザレイン家の象徴の動物。モリサライトの鳥、と言いましてね。それはそれは美しい声で鳴くんですよ。この森にいれば、聞こえてくるかもしれません」
また笑った。
あたしはその笑顔に強い嫌悪を感じ始めていた。
まったく目の奥が笑っていない歪な笑顔。寒気がした。
「俺はわざと無茶苦茶な闘い方をしました。ソルセリル軍の近くで、死なない程度、でも動けなくなるまでの怪我をした。とても仲間思いの馬鹿な彼らは、俺を心底心配して医療班を呼んでくれました。少しでもお前の情報が得られればいいと思っていましたが、まさか本人が来てくれるとは……。何たる幸運」
「なぜ……あたしだと分かったの……?」
変貌魔法を使って、髪留めで髪色も変えた。名前だってマリにしてた。
あたしとわかる要素はどこにあったのか、分からなかった。
「分かりますよ。麻酔に鎮痛剤を使い、外科的治療をする女……。どこの国を探したって、そんな治療をするのはお前しかいない」
あたしは頭を殴られた気がした。
自分が進んでやってきた医療行為が、自分の首を絞めたことになる。
「やっとお前を特定できた。変貌魔法で顔を変えても、装飾品は変えられない。右手につける二本の銀の指輪が目印だと、この男に伝えれば十分だ」
すぐ隣に立つ大柄の男を指でくいと示す。
だからソルセリル本陣に突入してきて、あたしを見分けられたのか……。
「今は髪留めが壊れたせいで、黒髪が丸見えですからね。見間違えるわけがない」
あたしは指摘され、初めて髪がまとまっていない事に気がついた。
両肩にかかる黒髪が、無造作に垂れている。
防御魔法の中で攻撃を受けた時、壊れてしまったに違いない。
男はにんまりと笑うと、あたしを崖から突き落とすようなことを言った。
「治療の時、ソルセリルの陣営に駆けていった彼も、付き添っていた男も、今頃は死んでいるでしょう。特攻隊員として、最前列に並ばされていましたからね。大怪我をした俺は、救護天幕からのんびりとそれを眺め、頃合いを見て抜け出してきたわけですが」
凍りついたあたしの目を見て、
「お前が俺を助けたせいで、あの2人は死に、ラディウスとその仲間は大怪我をし、ソルセリルを守る騎士達は死ぬことになった」
冷たく大きな風穴が空いたように、心が冷えた。
あたしはこんなやつを治療した……。
あんな檄を飛ばして、治療するよう説得までして……。
男は暗い穴に落ちたあたしに、さらに言葉を続けた。
「婚姻の指輪を選びに行った時とは違う、いい顔です。お前は笑っているよりも絶望の顔をしている方が似合いです」
そう言われ、あたしは恐る恐る口を開いた。
「婚姻の指輪…………?」
「ええ。わざわざ見に行ったんですよ、ソルセリルまで。この俺が魔族が蔓延る場所に足を踏み入れることになるなんて、思ってもいませんでした。復讐心とは怖いですね?そこまでの勇気をくれるんですから」
「勇気……?」
「お前とラディウスは、それはそれはにこやかに、幸せそうに笑っていましたよ。まったく憎らしい事です……。あの場で爆発魔法か竜蒼の息吹か龍炎の雨か――。強烈な攻撃魔法を繰り出すのを、なんとか我慢しました。あの時の自分の自制心を褒めてあげたいくらいです」
悲劇のヒロインよろしく、彼はほぅ……とため息をついた。
「しかし、今こうして目の前にお前がいる。あんなにも遠かったお前が、手の届く場所に……」
ゆっくりと手を伸ばされ、あたしは反射的に手を叩いた。
心臓が早鐘を打つ。
走ってもいないのに、息が上がって苦しかった。
「ずっと……ずっと……あなたがあたしの暗殺を企てていたの?」
叩かれた手を痛そうに擦りながら、男は「いいえ」と返事した。
「俺の他にも同胞がいましてね。ソルセリル……お前とラディウスに強い復讐心を持つ同胞です。しかしお前を殺すか、生かしたまま捕らえるかで散々揉めまして……。つい先ほど決着がつき、俺がここにきた次第です」
だから首を絞めるのを止めて、生かす方向になった、と?
「そう言うわけだから、お前は戦場に戻れ」
大柄の男を振り返ると、強い口調で命令した。
「ラディウスは殺すな。俺が手を下す。他は好きにしろ」
大柄の男は何も言わず、音もなく次元魔法で姿を消した。
あたしと男の二人きりとなると、男はまたにっこりと笑い、
「そういえば、自己紹介がまだでしたね?俺はアザルス国の元貴族、テオドール•アザレインです。召喚者のイセ•ヒカリ、よろしくお願いします」
手を差し出してきた。
当然、握手に応じることなんてせず、あたしはテオドールから体を引いて、一歩でも多く離れようとした。
後ずさるあたしを見て、
「おやおや……国王の婚約者としてはあるまじき対応ですよ?」
悲しそうに言う。
「何で……あたしを生かすことにしたの?」
動きを見逃さないよう、テオドールを凝視したまま尋ねた。
少しでも目的を聞き出さないと。
テオドールはその意図を分かっているようで、
「今のうちに色々と聞き出しますか?」
立ち上がってあたしを見下ろした。
「ラディウスには二度と会えないのに?ラディウスどころか、ソルセリルに帰ることも出来ないのに?」
脅し文句に挫けることなく、テオドールを睨みつけ、
「なんでさっき、あたしを殺さなかったの?」
口調強く言い返した。
テオドールは怯えないあたしにがっかりしたのか、つまらなそうに顔をしかめる。
「お前が生きていることで、ラディウスへの術が完成するからです」
術……?
あたしが生きている事で完成する?
「……――どういう意味?」
「説明するより体感したほうが早いでしょう」
そう言うと、テオドールは懐からナイフを取り出した。
ビクッとするあたしの手首を素早く掴むと、ナイフを近づけてきた。銀色に冷たく輝く鋒が、あたしに向けられる。
「や、やめて!!」
抵抗すると、
「あまり動くと予定外に深く刺さりますよ?」
楽しそうに笑った。
「言ったでしょう?俺はお前を生かすことにした。みすみす殺しません」
テオドールはおもちゃを持つようにナイフをゆらゆらと眼前で振ってみせる。確かに、護身用に持つにしても小さいナイフで、果物を切るにも足りない華奢な刃物だ。
あたしは強く緊張しながらも、ジタバタ足掻くのをやめた。
テオドールはあたしの手をぐいと引くと、指先を少し切り、血を出した。それをナイフに付着させると、なんと、ペロリと舐めた。
「なっ……」
驚くあたしを尻目に、テオドールは人差し指を立てる。
すると人差し指全体に金に光る糸が見え始めた。幾何学模様を形成すると、それが輝き出す。
「これで準備は完了です」
テオドールは微笑を口角に浮かべると、自身の指の幾何学模様を見つめた。
すると模様はキュッ、キュッと縮み始める。人差し指にまとわせた状態から、徐々に指を締め付け、食い込んでいく。
それに合わせて、あたしは息苦さを覚えた。
これまでに感じた事のない、心臓が締め付けられる息苦しさ……。
「うっ……」
まるで直接手で心臓を握られているかのようだった。
そしてその締め付けは、テオドールの指の締め付けがきつくなればなるほど、増していく。
「苦しいでしょう?」
テオドール自身も指が痛いだろうに、鬱血して紫になる指を気にもとめず、彼はあたしに説明する。
「俺は命そのものを握れる。発動条件は縛る相手の最大の弱みを握ること、血を手に入れること。
心臓を縛るキツさによってこの模様は変わり、締めれば締めるほど小さくなり指を締め上げます。最終的には指を落とすことになりますが、指1本を犠牲に、一人を殺せる。この術のいいところは、防御魔法が効かないことです。『守りの風殻』であっても防ぎきれない」
あたしは本で読んだ内容を思い出していた。
『先天的に持つ特殊魔法の一部には非常に稀な魔法が存在し、後天的に得る防御魔法では敵わないことがある。』
つまり術は防ぎようがなく、発動してしまえばラディウスでさえ対抗できないということだ。
唯一防ぐ方法は発動条件を満たさないこと。
テオドールが締め付けを緩めると、途端に胸が軽くなった。
ハァハァと胸を押さえつけるあたしを見下ろして、彼は続ける。
「しかし、お前にこの術は利かない。『魔力があるものを殺す力』。召喚時に得たお前の力は、俺の術を解除できる。忌々しい限りですが」
テオドールは指の幾何学模様を消し去った。
心臓にあった違和感が消え去ったので、意図的に術を解除したのだとわかる。
「この術のことは誰も知らない。なぜなら、術をかけられた者は全員死んでいるからです。それなのに、なぜお前にこの話をするか分かりますか?」
怖いくらいににんまり笑うと、
「この術はかけられた本人が術を自覚すると、倍の拘束力が生まれます。あの強大な魔力を持つラディウスでさえ、どうにもできないくらいの拘束力が生まれる」
胸を鋭いもので貫かれるような衝撃を感じた。
でも大丈夫。
術の発動条件を満たしていない……。
縛る相手の最大の弱みを握ること、血を手に入れること。
最大の弱みは……あたし…………だとして――血は……ないはず。
だって、テオドールはラディウスには直接会っていないのだから。
「ラディウスはお前と違って、俺の術の解除ができません。つまり、ラディウスに術を発動できた時点で私の勝ちということです。そして――」
テオドールは嬉しそうに空間収納魔法から、短剣を取り出した。
愛おしい者を見るかのような目つきでうっとりと、短剣に付着した血を眺めた。
「ラディウスの血は手に入った」
あたしは戦慄した。
ラディウスの腹部を貫通した、あのナイフだった。
テオドールがソルセリル本陣を襲撃した理由が分かった。
あたしを殺すためでも、ラディウスを殺すためでもなかった。
ラディウスの血を手に入れることが目的だった。
呆然として何も言えないあたしに、テオドールは心底嬉しそうに笑う。
「さぁ。まずはお前の愛しいラディウスに、連絡を取りましょうか?この距離では術の発動ができないので。目視できる位置に来てもらわないといけません。さぞ心配しているでしょうから、安心させて、その後しっかりと絶望を味わってもらわないと」




