濃紺の着物 下
薄くて固い布団に丸まって眠るあの子を私は見下ろす。
日が昇ればまた出ていってしまうのだと思うと、また寂しさが押し寄せてきた。
だけどこの子が選んだ道なのだ。応援し、笑って送り出さないと……。
―――この里の隊長方から聞いていた話では、この子はこの一月で驚くべき速さで武芸の実力を向上させていたという。
“まさに武術の申し子、白藤様に選ばれた理由が今ならよく分かる”と、手を叩いて褒めてくださっていた。
かつて狼棋が幼いあの子に押し付けたあの無茶な訓練を、私は今も正しかったとは思わない。……ただ、あの子には間違いなく武術に関しての天賦の才があり、それをあの子も是として受け入れたのだ。
あの子がいいなら私もそれでいい。だけど……。
私はふと、昨晩あの子が舞ってくれた優美な舞いを思い出して溜息をこぼした。
可愛かった。本当に可愛かった。
先月まで毎日見ていたのに、この子はこんなに美しかったのかと目を疑った程だった。
だからこそ、あの子の“娘”の名を誰も呼んでやらない事が、酷く残念に思ってしまうのだ。
尤も以前私が何度呼んでも、その名にこの子が応えてくれたことはなかったのだけれど。
私は眠るあの子の髪を撫で、もう二度と呼ばれないであろう名を最後にそっと呼んでみた。
「麗蒼……」
返事はない。
あったとしても、またきっと蒼狼であると訂正されるのだろう。……そう思っていた。
なのに不意に、しっかりとした淀みない口調で返されたのだ。
「はい。どうかされましたか、白藤様」
思いがけず初めて返されたその返事に、私は思わず上ずった声を上げてしまう。
「え?」
驚く私に気付き、あの子はすぐにハッと身を起こすと、気まずそうに頭を搔いて苦笑いを浮かべた。
「え? ……あ、あぁ、なんだ紺婆か。駄目だな、ちょっと寝ぼけてた。気を抜き過ぎだな」
「い、いえ……私こそ用もないのに声を掛けてしまって……。あぁ、羽織が出来上がりましたよ」
「そう。ありがとう紺婆。無理言ってごめんな」
そう言いながらも、あの子は嬉しそうに尻尾をはためかせて笑う。
その嬉しそうな様子に、私の胸の内がソワソワとざわつき始めた。
……宮内での事を口外するのは御法度。この子が未熟故に口を滑らしそうになったなら、私は注意してやらねばならないと思っていた。―――なのに、私は堪えきれず尋ねてしまったのだ。
「白藤様が、……何故貴方を“麗蒼”の名で呼ぶのですか?」
「え? 何故って……女の格好に扮装する機会があってさ。呼び名は何にしようってなった時、ポロッと言っちゃったんだよ」
「ポロッと……!?」
あんなにその名で呼ばれる事を嫌がっていたのに、まさか自己申告をしたというのか!
それに扮装って……み、見てみたい!!
白藤様の前ではこの子が淑やかにそれらを受け入れていた事に、私が驚愕し言葉を詰まらせていると、この子は「あ」と何かを思い出したように声を上げて言った。
「そう言えば覚えてるかな? 紺婆、前に“蒼い反物”を織り上げてただろ。あれが白藤様のお召し物として仕立てられて宮廷に納品されててさ」
「えぇ。商人の方が良い品だと喜んてくれていたものですね。あれが宮廷に卸されたとは光栄だこと」
私はふと一旦の反物を思い出した。晴れた早朝の空のような、あの子と同じ髪の色をした薄っすらと蒼い反物。
あの布でこの子に着物を誂えてやれば、さぞ似合うだろうと思いながら織り上げ、結局この子が触れることもなく送り出した品。
「そう! で、それなんだけどさ。白藤様が“自分よりオレが着るほうが似合う”なんて言い出して、それをオレにくださったんだよ」
「なっ、……ゴフ!!」
思いがけないあの子の爆弾発言に、私は勢い余って咽せてしまった。
「似合うかどうかで言えば絶対に何千倍も白藤様の方がお似合いなのに、どうしてもって押し切られてさ。なんか着物に申し訳なくて、一応紺婆に報告して謝っとこうと……」
そう言って申し訳無さそうに耳を垂らすあの子の言葉を、私は必死で呼吸を整えながら押し止めた。
「謝るなどっ、寧ろ本望……っ、ゴホッ!」
「だ、大丈夫? 紺婆。水くんでこようか?」
「ゴホ……いえ、結構です。そ、それよりそれは着てみたのですか? もしや今ここに持ってきたなどということは……?」
見てみたい。
そんな一縷の思いを懐き、私は矢継早に尋ねてみたが、あの子は首を横に振った。
「向こうでは何度か着たよ。お世辞かもしれないけど白藤様は“似合う”とか“可愛い”とか言って下さってた。だけど今回あれを着るのはキツく禁止されたから持ってきてない」
「そう……ですか」
私は内心肩を落とし頷いた。
当たり前だ。何を浮かれていたのか……この子が一時でもここに帰ってきてくれただけで十分なはずなのに、これ以上の何を望もうとしたのか。
私がそう自分に言い聞かせ戒めていると、あの子がふいっと視線を逸らせ、少し口を尖らせながらボソリと言った。
「ってかさ。別に元々着てくるつもりもなかったのに、白藤様が“あれを着て豹牙と市井を歩くな!“って凄いクドクド言ってきてさ……」
「……え?」
「なんかあの着物を着てる時は、白藤様でない者と並び歩いてはいけないらしいんだ。……いつもは“オレは白藤様の神獣だからずっと側に居たい”って言っても、豹牙よりよくお使いに行かせるくせにさ……意味分かんないよな」
憂鬱げにため息を吐くあの子。
意味が……分からない? 本当に分からないの? だってそれって明らかに……。
「それに染め着なんか着たら、花嫁の朔黄さんより目立つだろ。オレだってそのくらいの常識ちゃんと弁えてるよ」
いや。常識で考えて、それって……。
私は唖然としながら突っ込もうか悩んだが、得意気に胸を張るあの子を見て、結局何も言わない事にした。
―――もう私は余計な事は言わず、全て白藤様にお任せしよう。そう思ったのだ。
私は静かに目を閉じ、あの子にただ深く頷いた。
「……そうですね。主役を立てることは大切ですからね」
「だよなっ」
「ええ。……それより起こしてしまってすみませんでしたね。また御宮に戻れば忙しいのでしょう? もう少し寝ていていいですよ」
「そうだな。んじゃもう少しだけ寝とくよ」
そう言ってあの子が再び薄い布団に潜り込み、私に背を向けると、私は今しがた畳んだ羽織を再び拡げた。
そして再び針を手に取り、羽織の裏に幼い狼の図柄の刺繍を始めた。
―――私は白藤様が実は皇姫ではない事を知っていた。
それは不思議な縁による偶然によるものだったが、そのせいであの子から“男性用の着物を”と言われも、驚きはしなかった。
ただ、あの子の武芸の上達ぶりを聞くに、白藤様はあの子を“兵士として迎え入れた”のだと思っていた。なのに……―――。
「ふふっ」
刺繍をしながら、私は思わず笑い声を漏らしてしまった。
―――私はチラリと薄くて固い布団に丸まって眠るあの子を見る。
日が昇れば、あの子はこの羽織を持って出ていくのだと思うと、年甲斐にもなく胸が弾んだ。
これをあの子から贈られた方は、一体どんな顔をなさるのか……。
私はまもなく来る別れを“楽しみだ”とすら感じながら、羽織に針を刺した。
私はこの子が選んだ道を、今こころから応援している。
そしてまもなく来る別れの時も、きっと笑顔で送り出せるだろう。そう確信したのだった




