【魔女の絵本① さいはてのものがたり】
最果ての地に朽ちるは最廃ての荘。
最廃ての荘に住まうは最排ての者。
最排ての者に揺れるは最凡ての噺。
さいはての、ものがたり。
【魔女の絵本① さいはてのものがたり】
中学三年生の秋というのは、思春期で神経質になりやすい時期に高校受験という精神的プレッシャーが圧しかかることで心身ともに不安定になりやすく、摩耗しやすい季節である。
そんな精神的に参りやすい時期に──ワタシ、黒錆どれみは身体的に参っていた。
「待ぁあてぇええぇぇえ!!」
秋は夕暮れ。
夏の名残を麓だけに残して紅葉しきった山の向こうに沈みゆく夕陽から、さざ波のように夕焼けが打ち寄せてきている。寂莫とした感傷をもたらすその景色に、けれどワタシは浸る余裕がない。
何故か。
〝暴君〟を追っているからである。
「うっきょっきょっきょっ!」
たたんっ、と軽快に縁側を蹴って裏庭に降りた〝暴君〟は悪魔のような笑い声を上げながら俊敏かつ無駄のない動きで畑を駆け抜ける。畝に足を取られながらもぜえぜえと息を切らしつつ追うワタシに、その〝暴君〟は時折振り返っては悪魔のような笑顔を浮かべる。目元の泣きぼくろがよく似合う──まさに悪魔のような笑顔だ。
「こら! 待て! 待ちなさい巡!! せめて靴を履けっ!」
ワタシをおちょくって嘲笑っているこの悪魔は黒錆巡──通称〝暴君〟、夏に一歳の誕生日を迎えたばかりのワタシの弟である。
そう、一歳。一歳児なのだ。一歳児なのになにこの俊敏な動き!?
五ヶ月を過ぎたあたりには既に歩き出していたバケモンである。元軍人曰く、〝さすがは私の息子〟──やかましいわ!
元軍人、そう、元軍人。ワタシの父は元軍人だ。そして素手でイノシシを一撃で仕留められるバケモンである。血は水よりも濃し──やかましいわ!!
「待ちなさい! 怒るわよ巡っ!!」
「ねーた、もーおーってりゅ」
「そうね!! もう怒ってるわね!! 待ちなさい!!」
「やーの! うっきょきょきょきょ!!」
コラァアアアァァァア!!
おどれ一歳児のくせにいっぱしに喋りおって!! ちなみに最初に喋ったのは〝ねーた〟!! ねーたん! ねえちゃん! 姉ちゃん! つまりワタシ! イェイ! ──じゃない!!
「あっ、爺!」
「──ん? なんじゃい、姉弟で鬼ごっこか? 元気じゃの」
畑を抜けた先の、裏山へと通ずるあぜ道──そこで釣りにでも出かけていたのか、釣り竿をしょい込んだ爺と鉢合わせた。
「じいー!」
「おう、元気じゃの──ホアァ!?」
爺に向かって一直線に駆けていった巡は、爺が実におじいちゃんらしい緩んだ笑顔を見せるのと同時にぐっと膝を折って足に力を込め、勢いよく爺の顔面目掛けて飛び付いた。驚いた爺が仰け反るが、巡の勢いは留まるところを知らない。たん、と仰け反った爺の額に手を置いて跳び箱の要領で乗り越える。同時に、ゴキッと嫌な音が響いた気がした──気のせいじゃなかった、爺が仰け反った格好のまま硬直している。目を見開いて天を仰いだまま、体を震わせている。
腰が逝ったな。
「こら巡!! 爺は大切に扱いなさいッ! ごめん爺、後で呪うッ!!」
謝罪しながら動けない爺の横をすり抜けて巡を追う。後で梟のぬいぐるみに五寸釘ぶっ刺して呪わないと。──呪いじゃないわよ? 呪いよ。
「巡! 本気で怒るわよ!!」
「やーの!」
うっきょっきょっきょ、と悪魔の笑い声を上げながらぐるりと畑を一周してさいはて荘の前庭に出た巡を追ってワタシも落ち葉が降り積もった地面に足を踏み入れる。
秋は夕暮れ。
町まで自転車で三十分。バスはなし。町にはスーパーといくつかの飲食店があるだけで、スーパーに衣服類はあるものの年齢層が高めの婦人服が中心。都市部に行けば大きいお店があるが、町から電車で一時間揺られる必要があり。
そんな素朴な田舎町の郊外にぽつんと位置する、葛のつるに覆い尽くされてしまっている鉄筋コンクリートのアパート〝さいはて荘〟──ワタシの、故郷である。
極寒の真冬さえもその強靭な生命力で乗り越えてしまう葛は今日も今日とてさいはて荘を緑色に染めている。が、さすがに秋も深まってきたこの時期となると成長が落ち着き、色にも若干のくすみが見える。このまま大人しくしていてくれればいいものを、春になれば再び全力でさいはて荘を這い回って内部にまで侵入してこようとするから厄介である。
さてさてそんなさいはて荘の前庭。
「巡! 滑ったら危ないから落ち葉の上走らないの! てかさっき掃除したハズよね!? さては散らかしたわね巡ッ!!」
「うっきょー!」
うっきょーじゃねぇえ!!
「おー、今日もやっとるやっとる」
前庭に植えられた桜の木、その周りをぐるぐる駆け回っているとふいに上から声が降ってきて、さいはて荘の二階を仰ぐ。お蝶が手すりに頬杖をつきながらワタシたちを見下ろしていて、ワタシの視線に気付いてにかっと笑顔を浮かべた。
最近染め直したという、ホワイトイエローカラーの明るく長い髪がアプリコットカラーのインナーヘアーと合わせって風に靡いている。明るい肌色に猫のような大きな目を持つお蝶によく似合う髪だといつ見ても思う。──シャツにパンツ(間違っても短パンではない。下着のほうのパンツである)という痴女スタイルでなければもっとよかったのにとも思う。いや、痴女ではなくおっさんか。お蝶を痴女と呼ぶのは痴女に失礼だってこの間元国王が言っていた。すごいセリフだった。
巡がおちょー、と大きく手を振る。それに合わせてお蝶も大きく手を振、る──今だッ!!巡に手を伸ばすッ!! ──何!? 見抜かれていただとッ!?
「あみゃーい!!」
「おどれ一歳児のくせに何言うちょるんじゃあァ!!」
「魔女、口調変わってんぞー。暴君、がんばれー」
巡を応援すんなッ!!
「ああ、騒がしいと思ったらやっぱり巡くんだった。相変わらず仲いいねえ」
ワタシたちの騒ぎ声を聞きつけてか、前庭にある共用の浴場の裏から元国王がやってきた。洗濯をしていたのか、手には洗濯物を詰めたかごがある。
元気だなあ、と柔和な微笑みを浮かべる元国王は今日ももりのくまさんっぽい。温和で柔和、でっかい体に見合った深い懐。そこが巡も大好きで、よく元国王に遊んでもらっている。……元国王で遊んでいる、気がしないでもないが。
そんな大好きな元国王に声を掛けられたものだから、巡も進行方向を変えて元国王目掛けて一直線に駆ける。おや、と元国王が嬉しそうに頬を綻ばせてかごを下ろし、手を広げた。
「もちょーおー! やーの!!」
「ごはっ!?」
微笑ましい光景? 甘ぇ! とばかりに元国王のみぞおちに巡大砲が炸裂した。
「やーの! めーはぼーきゅーなの!」
「いだだだだだだそうだねそうだね〝暴くん〟だね、ごめんごめんいだっ!」
巡大砲を喰らわせて元国王が悶絶するも休む暇など与えず、元国王の頭に登ってぐいーっと髪を引き千切りにかかる巡。悪魔だ。悪魔だ!
──この弟、一歳児にしてさいはて荘の特性──互いを本名ではなく通称で呼び合う不思議な特性、を理解して住人には自分を〝暴君〟と呼ばせている。つうか呼ばないと怒る。巡って呼んでも怒らないのはワタシと両親と、あと何故か社長に対してくらいだ。
ちなみに巡に〝暴君〟って通称付けたのはワタシだけど、反省はしていない。だって暴君なんだもの。
「元国王! そのまま巡捕まえて!」
「え? ──のああ!!」
「あっ! コラー!」
ワタシが迫ってきたことに気付いた巡は瞬時に元国王を踏切板にして逃げてしまった。
──が、その進路を元王子が遮る。颯爽とプラチナブロンドの流水のような髪を靡かせて、キラリと実に腹立つイケメンスマイルを浮かべて──どこぞの正義のヒーローのコスプレをした元王子が。
「いけないラストエンペラーメグルン! まんじゅうマンも悲しんでいるよ! ほら──愛を右手に、勇気を左手に、正しき心を胸に……」
「まっみゅっむめぇもー!」
毎週金曜日のお昼前から放送されている幼児に大人気のアニメ番組、まんじゅうマン(八頭身)(全身タイツ)(しかもお面や被り物じゃなくてメイク)(なまじ超絶イケメンなだけにキモさ倍増)を前に、さしもの巡も腹に据えかねるものがあったらしい。
まんじゅうマンの天敵、サイキンマンのセリフを真似してスピンしながら元国王に突っ込んだ。改めて思うけれど、巡の身体能力どうなってんのよ。
「OH……クリティカルヒット……」
何処に当たったとは言わないが、急所に巡のスピンタックルが決まった元王子はそのまま地面に倒れ込んでしまった。ぱさりと地面に散る輝くような金髪がなんとなく腹立つ。
その横からすたこらさっさーと再び裏庭に逃げ込んでいく巡を追って、ワタシも元王子に同情的な視線を投げかけつつ走る。
「──やっほぉ! たっだいまなのだ~、暴君ちゃん魔女ちゃん!」
違和感。
UNKNOWN。
秋は夕暮れ。夏の名残りを弛ませて靡く涼しい風にざりっとした砂嵐が一瞬混ざった違和感を抱いてワタシと、そして前方を駆けていた巡の足が止まる。
野菜のお裾分けを貰いに管理人室にでも寄っていたのか、いくつかの野菜が入ったざるを抱えてなっちゃんが縁側から降りて来た。背中にはリュックを背負っていて、腕からはドーナツチェーン店のロゴが入った紙袋をぶら下げているところを見るに、帰ってきたばかりなのかもしれない。
秋らしい紅葉色のスカートにダークブラウンの、クラシカルな太いヒールが印象的なショートブーツを合わせていて、けれど上に羽織られただぼっとした白いパーカーがうまい具合に服装をここさいはて荘に馴染ませている。風景と調和する女子力の、なんと見事なことよ。
「なっちゃんおかえり。今帰ってきたの?」
「そ~なのだぁ。ドーナツもいっぱい買ったし、今日の夜ごはんはフレッシュなサラダとドーナツで決まりぃ! たまにはこ~んなごはんもいいよねぇ」
「……なーた、おーちゅ」
なっちゃんに笑いかけられて巡がびくっと肩を震わせつつも、気丈に手を挙げてなっちゃんを労る。
「ありがとぉ~今日はお仕事じゃなくてお買い物に出かけていただけどねぇ」
にっこりと女の子らしい、ふわふわとして可愛い笑顔を浮かべて──ざりざりと違和感を迸らせながら、なっちゃんはワタシたちを通り過ぎていった。
なっちゃんの姿が完全に消えるころにようやく、張り詰めていた空気がふっと弛緩して巡がほうっと息を吐く。ワタシも軽く息を吐きつつ、巡の肩に手を置く。
「よっしゃ捕まえ──脱皮ッ!?」
「めーはあーぶの!」
掴んだと思った手には巡の服しか残されていなくて、上半身すっぽんぽんとなった巡はすたこらさっさーと逃げ去っていた。ぬあああああまだ逃げるかっ!!
また畑に逃げるか、と思ったけれど軽快に跳ねて縁側に登り、一階一〇一号室──ワタシの部屋に入ってしまった。土まみれの靴下のまま。しかも上半身すっぽんぽん。
「コラー!」
サンダルを脱ぎ捨ててワタシも部屋に上がる。が、姿が見えない。どこかに隠れたようだがバカめ、土まみれの足跡がある。バレバレだ巡ッ!
勢いよく布団を剥がす。
「なにッ……」
「──ねーた、あみゃーい」
剥いだ布団の下には土で汚れた枕があるのみ。驚愕に目を見開くワタシの耳にそんな、甘くあどけなく、嘲笑う悪魔の声が届くとともにベッド脇のキャビネットの裏から巡が飛び出してきた。
囮ッ──……!!
いや、アイツ何歳よッ!! 本当に一歳児!?
「待てぇっ!!」
「やーの!」
再び縁側に飛び出した巡はそのまま縁側を伝って隣の部屋に逃げ込んだ。一階一〇二号室、元巫女の部屋。
「──暴君さま、いかがなさいましたか?」
とても清らかで澄んでいて、心地よい清流の音色を彷彿とさせるしとやかな声。聞くもの全てに安心感と、そして規律感を与える声に思わず身が引き締まって、けれど心地よさに浸りたくもなる。
「う……」
巡も巡で、一歳児のくせに元巫女の清廉な空気に当てられたらしい。あるいは、元巫女の塵ひとつない綺麗な部屋に土まみれの足で踏み込んだことに罪悪感を覚えたか。硬直した巡を、ひょいっと背後から抱き上げる。
「あっ! やーの! ねーた、やーの!」
「やっと捕まえたわよ巡! ──ごめん元巫女、床汚しちゃった」
「いいえ。掃除の最中でございましたからどうかお気になさらないでくださいませ。暴君さまとおにごっこをなさっておられたのですね」
ぴちぴち暴れる巡を羽交い絞めにしているワタシを見て、元巫女がとても微笑ましそうな、楽しげできれいな笑みを浮かべる。いや、微笑ましい要素今ない!! こいつ、ちょっ、コイツ強いッ!! 強いのよッ!!
力抜くと拘束外れるッ!! びったんびったん暴れるサケかお前は!!
「お風呂行くわよッ!!」
「やー! やーの! めー、あーぶの!!」
「今日はお外で遊ぶのもう終わりッ!! もう日も暮れるし、お母さんもごはん作ってるのよ? お外で遊んでたらごはん食べられないわよ?」
「むー」
〝お母さんのごはん〟は効いたのか、びったんびったん跳ねていた巡の体が大人しくなる。ああ、腕もげるかと思った。
巡を抱っこし直してひと息吐いたワタシに元巫女がくすくす笑いながらいってらっしゃいませ、と手を振ってくる。床の汚れを改めて謝罪しつつ、元巫女の見送りを受けながら部屋を後にした。
「さーて、お風呂入ってあったかするわよー」
「あったかー」
うん。悪魔だが実にカワイイやつだ。
──そういうわけで、ワタシの名前は黒錆どれみ。
魔女である。
◆◇◆
傷ついた犬。
血塗れの狼。
無表情な兎。
艶やかな猫。
何もない人。
飛べない梟。
怯えてる虎。
ピエロな猿。
汚れてる熊。
潰れてる鼠。
さいはて荘のエントランスに飾られている巨大なキャンパス。そしてその下に絵本と一緒に陳列されている、十体のぬいぐるみ。
お風呂上がりのほかほかもちもちぬくぬくな巡を片手に、風呂に入る前にぶっ刺しておいた五寸釘を梟のぬいぐるみから抜く。爺も元気になったことだろう。よしよし。
「ねーた、えほー」
「ん? 〝さいはてのものがたり〟を読んでほしいの?」
「あい!」
「ごはんまでまだ時間あるだろうし……部屋で読もーか」
「あい!」
今から一年と少し前。巡が生まれる少し前、ワタシが描き上げた一冊の絵本。それを大家さんが印刷会社に持ち込んで製本してくれて、世界でたった一冊だけの──〝さいはて荘〟のためだけの絵本として、ここにある。
巡もお気に入りの一冊だ。
「ただいまあ!」
「たたみゃー!」
さいはて荘の一階西端、管理人室──ワタシたち黒錆一家のおうち。そこにふたり揃って元気よく帰還すれば、大家さんの──お母さんの声が出迎えてくれた。
「おかえりなさい──どれみちゃん、めぐるくん」
キッチンに立っていた大家さんの笑顔にワタシたちも笑顔を返す。今日の夜ごはんはハンバーグ、匂いでわかる。腕の中で巡が嬉しそうにはばーきゅ、と声を上げた。
「めぐるくんといっしょにおふろ、ありがとうね。きょうははんばーぐだけど、じゅーすはなにをのむ?」
「ん~、梅シロップまだ残ってるよね? じゃ、梅ジュース!」
さいはて荘の裏庭から畑を抜けて少し歩いた場所、そこに元軍人が梅の木を植えていたらしくって、それが育ってとうとう今年の初夏に梅の実が採れたのだ。
その梅を氷砂糖やお酒に漬け込んで梅シロップと梅酒を作ったのだ。この梅シロップを炭酸で割ったのがたまらなくうまいのである。夏にぴったりで、夏の間ごっきゅごっきゅ飲みまくった。
「めーも! かーた、めーも!」
「うめじゅーすはすこしね。みっくすじゅーすをおとうさんがつくってくれているから」
「あーい!」
と、元気いっぱいに挙手してぴちぴち跳ね出した巡を床に下ろす。足が床に着いた瞬間弾丸の如くリビングへ消えた巡は本当に一歳児なのだろうかと思案しつつ、大家さんに手伝うことはあるかと問う。
「えほん、めぐるくんによんであげるんでしょう? だいじょうぶ、ありがとうねまじょちゃん」
「うん。巡本当にこの絵本好きだねぇ」
「まじょちゃんがかいたえほんだもの」
だいすきなおねえちゃんがね、と重ねて言いながら笑う大家さんに少し気恥ずかしくなりつつもにやにやと笑ってしまった。
料理の続きに取り掛かった大家さんを横目に、キッチンとリビングを区切っている仕切りを回り込む。
「おかえり、どれみ」
先ほど弾丸のように飛び出して行った巡を肩の上に載せて、元軍人が──お父さんがリビングの片隅から出迎えてくれる。綺麗に整えられた口髭のせいでわかりづらいものの口元にはゆるんだ微笑みが浮かんでいて、巡が生まれてからより一層やわらかくなったなあとしみじみする。
「ただいまお父さん。巡の人外化止めてくれない?」
「それは無理な相談というものだな。──私の息子なのだから」
うるせー! 追っかけるこっちの身にもなれ!
「めーはとーたになりゅー?」
「そうだな。そのうち鍛えてやろう。私を超えられるよう、頑張ることだ」
「あい!」
「頑張らなくていい! 人外にならなくていいっ!」
生まれたばかりのころは大家さんにそっくりだって思ったけれど、育っていくにつれて元軍人の血が目立つようになって困る……!!
巡の目元にある泣きぼくろもそうだ。生まれたばかりのころは肌が赤らんでいたこともあって気付かなかったけど、巡の目元には泣きぼくろがある。それは元軍人のお母さん、つまりおばあちゃん譲りらしい。会ったことないけどね。元軍人が成人を迎えるころには既に鬼籍だったらしい。
何度も言うが、人外にならなくてよろしい。
「ねーた、えほー!」
「ん、そうね。絵本読もっか」
そう言ってぼふりとソファに座れば、巡がぴょーんと膝に飛び乗ってきた。ぺちぺちと急かされるままに絵本を開き──かけたその時だった。
ぴんぽーんと、ドアチャイムの音が鳴り響く。耳が悪い大家さんにも聞こえるようにと相当通る音にしているのだが、大家さんがぱたぱたとキッチンから出る前に元軍人が応対した。画面越しに見える客人の顔に、ワタシはあっと声を上げる。
「……獺野先生」
ワタシが通う豹南中学校の進路指導担当だった。
社会科の先生でもある五十代半ばの女性で、ワタシはこの先生が苦手だった。表情を硬くしたワタシに気付きつつも、元軍人は静かに対応して大家さんとともに玄関に向かった。キッチン横にある裏口はさいはて荘のエントランスから通じているが、表玄関は外に通じている。リビングからは壁と扉に遮られて、見えない。
ずしりと胸に重いものが圧しかかったのを自覚しつつ、巡を抱っこしてのろのろとリビングを出る。
廊下の先に見える玄関、そこに獺野先生がいるのが見えてさらにずしりと心が重く、淀む。ねーた、と巡が声を掛けてきたけれど応じる気力もなく、のろのろと歩を進めた。
「ああ、黒錆さん。安心しました。進路のことで少しご両親とお話がしたかったので失礼させていただきました。黒錆さんのご両親でいいのかわからなくて心配しましたわ」
「〝娘〟が何か?」
獺野先生のあでやかな、赤い唇が紡いだ言葉に心が沈むよりも先に、ワタシの前に元軍人が立って判然とした声で力強く応じる。
お父さんの大きな背中に、目の奥が熱くなった気がした。
「黒錆さん──どれみさんは勉学の成績こそ体育以外はとても優秀と校内でも評判でございます。けれど……勉学が全てではございません。どれみさんももうすぐ高校生ですが……高校生になるという自覚が些か、不足しているように思えましたので対策をと」
「不足しているとは、具体的に?」
「ああ、いえいえ……そんなに硬くならず。ご家庭の事情を顧みますと、仕方ない面があるのかもしれません。ご両親ともども、大変でございましょう?」
「どれみはどりょくかで、めんどうみもいいこなのでわたしもとてもたすかっています」
言葉の節々に小さな、時にはあからさますぎる刺を含ませてべらべらと甲高い声で喋る獺野先生に、けれどお母さんは動じない。笑顔で、ワタシはとてもいい娘なのだとほめてくれる。
「真面目にお話いたしましょう。どれみさんは今冬、高校入試がございます。どれみさんの進路は公立綾松高校となっておりますが、今のままですと面接で少々、いい印象をいただくことが難しいと思いますの」
「面接で? 確かに昔から人見知りするほうではあるが──自分の意見をしっかり言える娘だ。問題があるようには思わないが?」
「そこですわ」
元軍人に遮られているワタシをあえて覗き込むように体を傾けて、獺野先生が憐れむような視線をワタシに向けた。
「ご家庭の事情と、小学校六年間の不登校という経歴を慮ってみなさま口にはしませんが……どれみさんは少々、過ぎるところがございますので」
仕方のないことですけれど、と重ねて同情しているような言葉を口にして獺野先生は口元を手のひらでそっと覆う。ワタシを心から想っているのだとばかりに、目にたっぷりの憐憫を込めて。
「本来ならば自由でのびやかな、と申すところではありますが……高校入試を控えた今、あえて厳しいことを言わさせていただきましょう。どれみさんには、謙虚さが足りないところが目立つのです」
人間、謙虚で在らなければならないのです。
獺野先生の口癖だった。
謙虚になれと、謙虚であれと、お前には謙虚さが足りないと、謙虚さがない人間はだめだと。
「人間に必要なのは〝謙虚さ〟でございますから。身を弁え、自己を顧み、慎み深く、驕りを持たず」
きいきい、きいきいと獺野先生の声が鼓膜の奥で鳴り響く。
「仕方ないと理解してはいるのです。ご家庭の事情が事情でございますから、自分が注目されたい欲に駆られるのは仕方ないと、理解してはいますの」
ぎいぎい、ぎいぎいと鼓膜の奥で反響し合った声が脳を引っ掻く。ぎいぎい、ぎいぎいと引っ掻く。引っ掻かれる。
「ハンドメイドだとか絵だとか……才能があるのは素晴らしいことではありますけれど、才能だけで生き抜けるほど社会は甘くありませんわ。謙虚に、身相応のふるまいをしなければ社会から見放されてしまいます」
もしかしたら耳の奥で出血したのかもしれない。ぎいんぎいんと獺野先生の声が鳴り響いている耳の奥で、痛みとともに湿気った感覚がする。溢れ出た血で耳が詰まったのかもしれない。少しでも頭を傾けたらどろりと血が零れ落ちてしまいそうで、少しも身動きが取れない。
「クラスメイトもどれみさんの影響を受けて最近は〝自分のやりたいこと〟を優先させるようになってしまって……いいえ、それ自体はとても良いことなのです。けれどほら、今は高校入試を控えていますでしょう? 面接で不必要に我を出して悪目立ちするのはよろしくないのです」
腕の中の巡がワタシの様子がおかしいことに気付いてか、心配そうな顔でぺちぺちと頬を叩いてきた。ねーた、と巡の声が耳の奥でずたずたに引き裂かれたであろうワタシの聴覚器官を癒してくれる。
「──本当のお子さんもいらっしゃることですし、どれみさんの扱いに難儀しておられるのかもしれませんが」
それで、限界だった。
限界だと思った瞬間、バゴンッと扉がひしゃげる勢いで吹っ飛んだ。いや、開け放たれただけだ。乱暴に開け放たれすぎて壁に激突したのだ。
無情緒に扉をあけ放ったのは、これまた無情緒に眉間に皺──ってかヒビを彫り込んだ俺様何様イヤミ野郎。
「腹減った。夕飯はもう出来ているんだろうな?」
飾り気のないフレームの眼鏡を乱雑に外して玄関の飾り棚に置き、くしゃりと髪を掻き上げた社長は何の感情もこもっていない無情緒な視線をこれまた無情緒にワタシたちに向け──不機嫌そうに、獺野先生を見下ろした。
元軍人の強面にも臆さない獺野先生も、さすがにこれには臆したらしい。怯えたように喉の奥をひっと鳴らして一歩下がる。
「にぃた! おかー」
「おかえりなさい。ごめんなさい、いまどれみちゃんのがっこうのせんせいがいらしていて」
「邪魔したか?」
「いいえ、いまおかえりになるところです」
ね、と大家さんが優しい微笑みを獺野先生に向ける。その微笑みを見て巡と、あと社長がびくっと肩を震わせた。
うん、あれだ。
笑ってない。笑ってるけど、笑ってない。
てか今気付いた。大家さんの手が元軍人の腕を押さえている。そっと添えるだけで力は入っていないけれど、押さえられている元軍人の腕はぶるぶると小刻みに震えていて、血管が浮き出ている。
「あ……あたくしはまだ」
「どうぞ、おきをつけておかえりください」
有無を言わせぬ笑顔で、優しく──あくまで優しく諭すように、けれど決して否定は許さない声で。
慈愛に満ち溢れた笑顔で、けれど笑っていないというのはとてもつなく恐ろしいと今日学んだ。ワタシや巡を怒る時はいつだってきゅっと眉をひそめて、口元もむっつり硬く引き締めていたからわからなかった。
大家さんは──本気で怒ると、怖い。
「……今年から入ってきた生徒指導だな」
今一度己のふるまいについてようく見つめてください、と呪いのような捨て台詞を残して車に乗り込んで去っていく獺野先生を遮るように扉を閉めて、社長が吐き捨てた。
「……うん。ワタシのことが嫌いみたい」
「何で言わなかった」
「別に……社長にどうにかしてもらうほどじゃないし」
あんなの、無視しておけばいいだけだ。内申点を操作されていたらさすがに言ったろうけど、その権限はあの先生にはなかったし。ネチネチ言われるくらいならスルーしておけばいいだけのことだ。
「どれみ、確かにくだらない言いがかり程度ならば捨て置けばよい。だが限度というのはあるし、相手にもよる──いつもあんなことを言われていたのか?」
「…………」
元軍人の言葉にワタシはう、と言葉に詰まる。
獺野先生が赴任してしばらく経ってから、ワタシの境遇や趣味についてあれこれ言うようになった。エセメガネ先生がワタシの境遇について漏らすわけないし、おおかたPTAとか口さがない噂話好きなところから漏れたんだろうけど。
大王やゆゆ、いおりんに坊主たちが獺野先生から庇ってくれることもたくさんあった。エセメガネ先生が注意してくれたこともある。
でも、獺野先生は止まらなかった。
ワタシが本当の子どもじゃないから、愛情に飢えているのだろうと。
ワタシは注目されたくて仕方ないから、目立ちたがりなのだろうと。
ワタシは不登校児だったから、調和能力が欠如しているのだろうと。
ワタシはかわいそうで仕方ないと。ワタシは哀れな子どもなのだと。
毎日、毎日、毎日。
ワタシがハンドメイドした小物を大王たちにあげているのを見かけるたびに。ワタシが社長から教わった学習術をいおりんたちに教えているのを見られるたびに。ワタシが強気な態度で先生と議論しているのを見つかるたびに。
毎日、毎日、毎日。
「…………」
「どれみ。お前が私たちの家族なのは間違いない。そこに誇りは今まで通り持っていい。同時に、その誇りを傷付けるような輩には甘くならなくていい」
「……甘くならなくて」
「ああ。貴様は甘い。甘すぎるな。何故あんな害虫の存在を許す? 取るに足らぬ矮小な害虫如き、放っておけばいいとでも思ったか? 甘い。害虫如きだからこそ全力で駆除しろ」
つまらん虫に些細な時間を許すこと自体、許すな。
そう言ってワタシを見下ろす社長は──〝帝王〟そのものだった。獅子は兎を捕らえるにも全力を尽くす、なんて甘いものじゃなかった。
虎は、虫の存在さえ許さない。
「よく考えろ。あの害虫に貴様がどれだけ時間を取られ、手間を取らされたかじゃない。貴様とあの害虫の確執に周囲がどれだけ時間を取った?」
「あ……」
「やはりか。あのクラスメイトと担任であれば貴様と害虫の間に入らないはずがない。いいか。害虫はあちこちに被害を巻き散らすから害虫なんだ。貴様の甘さひとつで大切なものが害されると思え」
ワタシと獺野先生だけの問題だと思うな。
社長の正論に、ワタシはぎゅっと腕の中の巡を抱きしめる腕に力を込める。
「それだけじゃないわ。あのねどれみちゃん。わたしもおとうさんも、しゃちょうさんもめぐるくんも……おちょうさんもおじいさんももとみこさんも、なっちゃんももとこくおうさんももとおうじさんも。ゆゆちゃんもだいおうちゃんも、いおりんくんもぼうずくんも──みんなみんな、どれみちゃんがすきなのよ」
だいすきで、しかたないのよ。
──だからそんなだいすきなどれみちゃんをわるくいうことを、ゆるしちゃだめ。
大家さんのその言葉に、はっとする。
それはいつだか、ワタシが大家さんに対して言った言葉だった。大好きな大家さんを悪く言うのは、いくら大家さんでも許さないと──そう大家さんに啖呵を切ったのは、もう何年前だろうか。
懐かしい心地になると同時に、ああと自分の行いの意味を理解して吐息を漏らす。
「……ごめん。社長にチクるべきだった」
「その通りだ、馬鹿」
「お父さんとお母さんに……言うべきだった」
「ああ。だが言いにくい気持ちはわかる。誰だって、馬鹿にされていることは知られたくないものだ──特に、親にはな。だからこそ社長がいる。父親として悔しくはあるが」
「ふふふ」
──そうだ。何でワタシは、今まで耐えていたんだろう。
つまらない言いがかりだからと、くだらないやっかみだからと無視することなんかなかった。無視するのが大人の対応? そんなことはない。まともに相手してやる道理はないが、好きにさせておく道理もないのだ。そんな当たり前のことに、なんで思い至らなかったのだろう。
ふと、エセメガネ先生が〝社会性〟について語ってくれた時のことを思い出す。社会性。人との関わり方。人への頼り方。なるほど、確かにワタシには社会性がない。あると自負していたけれどただの驕りだった。
──巡の姉としてちゃんとしないとって思っていたけど、まだまだ子どもだな、ワタシ。
「どれみちゃんはとってもいいおねえちゃんよ。ねー、めぐるくん」
「あい! ねーたしゅき!」
むきゅーとほっぺたをくっつけてきた巡にやさぐれのささくれでトゲトゲしていた心がズッキューンと打ち抜かれてぬっはーんと大量のハートに包まれる。なんと安上がりな姉よ。
「め~ぐ~る~」
「むきゃー!」
ぎゅーって抱き締めてすりすりむにゅむにゅほっぺたをもっにゅもっにゅしてああ、最高に幸せ。
「おい魔女、巡。いつまで玄関に立っているつもりだ? 俺様は腹が減っているんだ。とっとと行け」
「はいはい。社長はおなかぺっこぺこなんですってーたいへんねー」
「にーた、ぺこぺこー。たーへん」
「ふふふ。ごはんにしましょうか」
「社長、梅酒呑むか?」
「ああ」
いつものやりとり。いつもの光景。
ワタシと、巡と、お父さんと、お母さんと、そして時々社長。
──ああ、やはり〝家族〟はいい。
〝さいはて荘〟は、とてもいい。
一階一〇一号室──〝魔女〟
一階一〇二号室──〝元巫女〟
一階 管理人室──〝大家さん〟と〝元軍人〟と〝暴君〟
二階二〇一号室──〝社長〟
二階二〇二号室──〝なっちゃん〟
二階二〇三号室──〝お蝶〟
二階二〇四号室──〝爺〟
三階三〇一号室──〝元王子〟
三階三〇二号室──〝元国王〟
三〇三号室と三〇四号室は空き部屋。
総勢十一人が住む小さなアパート──さいはて荘。
十人十色どころか十人十界の、まるで違う世界を生きた人々が集う最果ての場所。
そこで紡がれる温かくも凡庸で、つまらなくも心安らぐ物語が今年も始まりの音を告げた。
【また巡ってきた】




