【人の夢と書いて儚いとほざくな】
【人の夢と書いて儚いとほざくな】
青空に爽やかさを感じる暇もない。
爽やかさも裸足で逃げ出そうと飛び出して、けれどあまりの熱さに戻ってくる。──そんな暑さが今年の夏も、日本を襲っている。
日本を蒸し焼きにしてほかほかの蒸し鶏にでもしたいのかと思わんばかりの、灼熱。換気扇が回っている料理中のキッチンの方が涼しいのではなかろうか。そう想えてしまうほどの、地獄の業火。
それをエアコンが効いた教室の中から眺めて微笑みを浮かべる。
「エアコン最高」
「はい黒錆、この問いを答えなさい」
「…………」
しぶしぶ答える。
別に数学は嫌いじゃない。ただめんどくさいだけだ。
「一次関数って何に使うのさぁ~」
数学が嫌いなゆゆがぶぅ、と頬を膨らませて記号と数字の羅列を睨み付ける。
「ワタシは使うよ」
「えぇ? 何に?」
「ハンドメイドショップ。と、いってもまだ身内でやってるだけなんだけど……利益を出すための計算で使うよ」
「マジか、黒錆ちんすげーな」
「ってかちゃんと計算しないと魔王がね……」
社長のスパルタをお前らも受けてみるといい。泣くから。ワタシは泣いた。
「確かにただ生活するだけなら数学は要らん。だがお前らが進みたいと考える道によっては数学が必要となることがある。そんな時、数学が分からないせいでその道を選ぶのを止めちゃおってならないよう──最低限の知識を身に付けるのが学校だ」
エセメガネ先生が珍しく先生らしいことを言ったのを締めにしてチャイムが鳴り、そうしてその日の授業は終わった。残すところ掃除タイムとHRだけである。
「やっと終わったぜ~」
ぐぐ、と大王がスレンダーな体を大きく伸ばして立ち上がる。その拍子に大王の髪に飾られているチェック柄のリボンが揺れる。ほんの少し伸びた大王の髪にアメジスト色がよく似合っている。
ちなみにこの髪飾り、ワタシが作った女子三人お揃いのリボン型髪飾りなのである。ゆゆはピンクパール色、ワタシはガーネット色である。んふふ。
「今週はオレら体育館担当だよな?」
「そっす! 行くっすよー!」
豹南中学校では教室以外に、週交代で各学年がその週の担当場所の掃除をすることになっている。普通の中学校だと一クラス四十人とかだからクラスの中で細かく分担できるみたいだけど、うち五人しかいないし。しかも今週は体育館。だから全員で取り掛かる。
「──ん? 近藤たちじゃねーか」
みんなで体育館に移動すると、中からボールの弾む音がしてまだ誰かいるのかと中を覗き込んでみれば、中三の男子どもがいた。中三はワタシたちのクラスよりも人数が多くて、男子だけでも六人。多い。いや一般的には少ないけど。
その男子どもが体育館の中でバスケをしていた。体操服を着ているところを見るに、六時間目は体育だったのだろう。で、そのまま遊んでると。
「おい! もう掃除の時間だぞ!」
いおりんが不機嫌そうに中三の男子どもに声を投げかける。
だが、男子どもはワタシたちを見て笑うだけでバスケをやめることはなかった。こいつら、時々こんな風に悪ガキぶるのよね~。普段はそう悪いヤツらでもないんだけど。
「掃除できないっすからどいてくれっす」
「や~だ~よ~」
小学生か。
だが体格はもう十分に成人男性のそれだ。いおりんと坊主はまだ成長期に入りかけたばかりでそうでもないけれど、こいつらは十二分にデカい。だから妙な迫力というのがあって、怖い。
「遊ぶんなら外でサッカーしてほしいっす」
「こんな暑いのに外でできるかよ。お前じゃあるまいし」
「〝プロのサッカー選手になるっす!〟」
坊主の声色を真似したひとりの男子にどっと他の男子どもが大笑いする。
「いい言葉教えてやるよ坂口! 人の夢と書いて──」
「人の夢と書いて〝儚い〟とほざくな」
いかにも黒歴史を大絶賛構築中の中学生が好む言い回し、それを男子どもが言おうとした瞬間──いおりんが、ワタシたちの前に立って言い切った。
そう、言い切った。
「言葉遊びで言ってやった気にでもなろうとしたかもしれねぇけど、ダサいからやめておけよ」
「なっ……」
おお、言いよる言いよる。去年の君が言っていたということは忘れてあげるよ。
「生意気だぞ庵。お前だって本当に坂口がプロ入りできるなんて思ってねーだろ?」
「そうそう。できるわきゃねーよどう考えても」
「──できるかできないか、じゃないんだよ」
いおりんの背後にすすすと寄って、ワタシもじっとりと男子どもをねめつけながら心持ち低い声で言葉を紡ぐ。
「──やるかやらないか、その二択しかないんだよ」
たとえどんなに荒唐無稽な〝夢〟だったとしても、やらなければそもそも何も始まらない。叶う叶わない云々以前に、何も起こらない。起こるワケがない。だってやっていないんだから。
「坊主はサッカー選手になりたい。だからサッカーをやっている。──それで十分なんじゃない?」
そこまで言って、ワタシはにたりと口元を歪めて笑う。
「あまり人のやっていることを嘲笑うような真似しない方がいいよ? たとえそれがどんなに世間一般的に〝変〟だと見做されるものでも」
例えば元王子。オタクというものは蔑まれやすい。
例えばお蝶。お蝶が以前やっていた仕事は見下されやすい。
けれどそんな行為が許されていいはずがない。どんな理由があろうと、どんな経緯があろうと──他人が真摯に取り組んでいることを見下し嘲って、踏み躙っていいことにはならない。絶対にない。
「ワタシは黒錆どれみ」
絶対に、ない。
「魔女である」
だから──呪う。
「ぬいぐるみになる?」
あ、逃げた。
ま、呪うといっても呪ってなんかいないし呪ってもいないんだけどね。しいて言うなら呪うってところかな。
〝魔女〟の領域に、誘う。呪う。
呪い方には色々あるのだよ、フフン。まあ多用するものではないけれどね。使いどころを間違えると呪いになってしまうから。
「アハハハハッ! 今の見たぁ? あいつらすっごく蒼褪めてんの! まじウケるぅ!!」
「ゆゆ本性。黒錆ちんナイス」
「黒錆お前……本当に〝魔女〟なんだな……」
「今更?」
ワタシは黒錆どれみ。魔女である。
当然じゃん。
──と、そこで坊主が無言なことに気付いてどうしたかと問いかける。
「……やっぱり、サッカー選手になるって難しいっすよね」
坊主はちょっと沈んだような顔でぽつりと、そんなことを漏らす。
プロ入り。言葉にするのは簡単だけれどそのためにはあまりにも多くの壁がある。坊主は確かにサッカーが上手だ。足も速いし、体力もある。けれどプロ入りを目指す人間は数えきれないほどにいる。難しくて、当然だ。
けれど。
「やってみないと分からないし、やらないと意味ないし、やるしかないと思うよ」
やっても無駄に終わるかもしれない、と不安に思うのは当たり前だ。成功する可能性よりも失敗する可能性の方が高ければなおの、こと。
だが、だからと言って〝やらない〟を選んだらその時点で百パーセント失敗の道しか残されていないし、何より〝あの時やっていたらもしかして〟という後悔がついて回る。
そこでふと、大家さんから聞いた言葉を思い出してワタシはみんなに向き直った。
「〝夢〟は諦めるものではない。〝形〟を整えゆくものなのだ」
どっかの砂漠の国の王様が言葉にしたという格言。王様の側近が王様の格言集として本にしたのがきっかけで広まったみたいだけど──ともかく。
「叶う叶わないを考えて悩むよりも、とりあえずやってみて自分に合うものを探していくのがいいと思うよ」
偉そうに言っているけどかくいうワタシだって〝夢〟全然ないからね。やりたいっぽいことなりたいっぽいことをぼんやり見つけただけで。
でもそれでいいのだ。焦る必要なんて、ない。
「ワタシもいざとなったら魔女として世界征服企む」
「企むな」
「じゃあうちはいざとなったら黒錆ちゃんの使い魔になるぅ」
「じゃあオレも」
「──いいっすね! その時はおれに魔法教えてくださいっす!」
魔法じゃねー、呪いだ。
──でも、少し沈んでいた顔からいつもの笑顔になってくれて安心した。坊主はやっぱり、笑顔でいるのが一番だ。
うん、そういうワケでワタシは黒錆どれみ。
魔女である。
◆◇◆
傷ついた犬。
血塗れの狼。
無表情な兎。
艶やかな猫。
何もない人。
飛べない梟。
怯えてる虎。
ピエロな猿。
汚れてる熊。
潰れてる鼠。
さいはて荘のエントランスに飾られている巨大なキャンパスの下に陳列されている、十体のぬいぐるみ。
今日も葛のつるに覆われて全力全開緑色なさいはて荘の、一階一〇一号室でワタシは一心不乱に手を動かし続ける。
お蝶は言った。〝関係性〟と。
先生は言った。〝社会性〟と。
爺は言った。〝人間性〟と。
元王子は言った。〝剥離性〟と。
元巫女は言った。〝安心性〟と。
元国王は言った。〝地域性〟と。
社長は言った。〝支配性〟と。
元軍人は言った。〝信頼性〟と。
大家さんは言った。〝可能性〟と。
なっちゃんは言った。〝没個性〟と。
それぞれがそれぞれに大切に想うこと。
それぞれがそれぞれに軸としていること。
それらを、詰め込む。
〝社長が大切に想うさいはて荘〟という形で。
〝社長の想い〟を、絵にする。
ワタシ自身の想いではなく、社長の想いを想いながらひたすら描く。
絵を描く。字を書く。
紙を貼る。布を張る。
木を削る。糸を梳る。
石を彫る。土を掘る。
鉄を捻る。綿を捩る。
油を塗る。革を縫う。
花を切る。藁を伐る。
ありとあらゆる絵具で。
ありとあらゆる素材で。
ありとあらゆる道具で。
ありとあらゆる手法で。
ありとあらゆる表現で。
ありとあらゆる思想で。
ありとあらゆる概念で。
社長のためだけに、描く。
「──よし、完成」
「まだだ」
「!?」
すぐ耳元で声がしてぎょっと振り返れば、社長がすぐそばでワタシの絵を眺めていた。いつの間にっ。声かけろっ。ビビったじゃないか!!
「まだ完成していない」
「なに? 描き足してほしいモノでもあんの?」
社長に依頼されて描いた、社長のためだけの一枚の絵。
さいはて荘を見上げる社長の後ろ姿を描いた、絵。
──ワタシなりに社長の想いを想って描いたんだけれど、足りないものがあっただろうか。
「お前のサインを書け。それで、完成する」
「えっ? サイン?」
「佐々呉どれみの時も書いていただろう? あれを──黒錆どれみに塗り替えろ」
そう言われて、思い出す。そういえば佐々呉どれみの時──ワタシの絵には、必ずサインがあった。
「──サインを書いたこと、ないよ。あのころはアレが描いていたから」
絵を描きさえすればあとは用済みだったから。
「そうか。なら、なおのことちょうどいい。これが天才画家〝黒錆どれみ〟の初めての絵となる」
ワタシの、初めての絵。
〝画家〟としての──はじめての、絵。
〝黒錆どれみ〟としての、デビュー作。
「そっか、そうなんだ」
そうか、ここから始まるんだ。
何が始まるのかは知らないし分からないし想像もつかないけれど、でも間違いなくこの絵から、始まる。
「うん」
身長ほどもある縦長のキャンパス、その右隅。
そこに上載せするように──絵と同系色の、けれどほんの少しだけ薄い色で〝黒錆どれみ〟と書いた。
ワタシのあかし。
誰でもない、黒錆どれみが描いた絵であるというあかし。
黒錆どれみが社長を想い、社長の想いを想って描いた絵であるあかし。
〝黒錆どれみ〟の、はじめての絵。
「──うん」
はじめてのサインは少しだけ不格好で、けれどその不格好さがなんともワタシらしくて。
──〝自分の絵〟って、感じがする。
「見事だ」
社長の声が、しんしんと鼓膜に響く。
とても短い、そっけない感想だったけれど社長がこの絵に魅入っていることは──心底惚れ込んでしまっていることは、社長がこの絵から少しも視線を外さないところを見れば十二分に伝わってくる。
視線を外さず。思考を逸らさず。意識を飛ばさず。
ただただ絵に魅入り、心身ともに絵に惚れ込んでしまっている社長の様子になんだか誇らしい気分になって、思わず口元が緩んでしまった。
「──さて、あとは俺様の仕事だ。ご苦労だったな。請求書はちゃんと作れよ」
「ふんだくるからね」
「そうしろ。それだけの価値がある」
とことん上から目線だな本当に。まあ上から目線でも褒められたことに嬉しくなっちゃうワタシもワタシだけれど。
「今後についてはおいおい話す。だがしばらくは俺様だけで動く──お前が本格的に動くのは早くともお前が高校生になったあとだ」
「そうなんだ……でも、あんま無理しないでよね」
〝佐々呉どれみ〟の名は日本どころか世界に知れ渡っている。
幼い天才画家というのは、幼い──それだけで大人の画家の何百倍何千倍も、価値を見出されるのだ。価値を植え付けられるのだ。
幼い天才。このフレーズだけでドラマ性を作ることができる。実際、ワタシも〝学校に行けないほど病弱だけれど絵を描くのが好きな幼い天才〟として何回もテレビに出たことがある。出させられていた。
考えてみれば、そんな〝佐々呉どれみ〟が突如姿を消したのだ。それも、親元から。メディアが注目しないはずがない──なんとなく嫌で、自分についてどんな噂が立っているのか調べたことなかったけれど……たぶん死亡説も流れてるんだろうな。
そういうのを社長は今の今まで、全部シャットアウトしてくれていたのだ。
〝ワタシ〟を世界から守るために。
〝ワタシ〟がさいはて荘で心身ともに癒してゆけるように。
「──ワタシは黒錆どれみ」
けれどもう、ワタシは守られるだけのワタシではない。
「魔女である」
魔女だから。
「だから大丈夫」
もうひとりじゃないから。
「ワタシにできること、やれることがあるならやるよ」
なんなら呪いだって振りまくぞ。
「──ああ。当然、やってもらう。だが俺の傍を離れることだけはするな」
いいな、と疑問形にせず首肯だけを求める社長にワタシはくすりと笑いつつ、元気よく頷いたのであった。
フシャー!!
「!?」
なんかいい感じで話がまとまった瞬間、社長の胸ポケットから威嚇が聞こえてきた。いや待て。この威嚇ワタシか!? ワタシの声か!?
「元軍人か」
「いや待てっ、あんっ、アンタ!! なんで着信音をそれにしたっ!!」
「さいはて荘関連は全てこれにしてあるが?」
「変えろっ! 変えろ!! 呪うぞっ!!」
フシャー!!
と、威嚇するワタシを無視して社長は電話を取った。こいつっ。
「──そうか、分かった。今すぐ魔女と行く」
電話は思ったよりも早く終わって、社長はスマホをしまいながらワタシを見下ろし──
「大家さんが帝王切開することになった」
そう、言った。
「行くぞ」
「っ、うん」
ぐらりと崩れかけた足は、けれど社長が支えてくれた。
どくどくと心臓は痛いほどに脈打っているのに、全身がとても冷たい。血という血が全部心臓だけに集まってしまった感じだ。支えてくれている社長の体を掴んでいないと、今にも気を失ってしまいそうだ。
「おかあ、さん──」
「大丈夫だ。むしろ大家さんの場合──自然分娩よりもずっと安全だ」
自然分娩と帝王切開。
どちらにもリスクはある。だが大家さんは体が弱い。いきむにも常人の倍以上エネルギーを要するし、万が一長引けば大家さんの生命にも関わる。それを考えるならば術後のリスクが大きくとも、手早く赤子を取り出せる帝王切開の方が大家さんにはいいのだろう。
大丈夫だ──社長が手配した産婦人科なのだし、大家さんの主治医だというお医者さんもいるそうだからきっと大丈夫だ。
元軍人だってついている。だから、大丈夫だ。
大丈夫だ──大丈夫の、はずだ。
それはわかっているのに。
わかっているのに。
「っ……」
社長の手を、強く握り締める。
いつの間にかワタシは車に乗り込んでいて、隣で運転している社長の手を強く握り締めていた。社長はそれを振り払うことなく無言でハンドルを操作している。心なしか、ワタシの手を握り返してくれているようにも思う。
「おかあ、さん……」
大家さん。
大家さん。
ワタシの、お母さん。
──もう、だいじょうぶ。
あの日──病院で目を覚ましたワタシに、優しい言葉をかけてくれた大家さんは今でもありありとまぶたの裏に甦らせることができる。
あの瞬間の解放感。
あの瞬間の安心感。
あの瞬間の──切望感。
焦がれる胸の衝動そのままに、大家さんの胸に飛び込んで縋りたいという切望。
今でも、よく覚えている。おそらくこの記憶だけはどんなに歳を重ねても薄れることはないだろう。それくらい──ワタシにとって大家さんという存在は、大きい。
「おかあさん……」
そんな大家さんの身にもしもなにかあったら?
そんな不吉な考えばかりがよぎって胸が苦しくて、喉が引き攣れて、心臓が痛くて仕方ない。
今、大家さんは頑張っている。あたらしいいのちを産むために──命懸けで、頑張っている。頑張っているんだ。
頑張っているのに、ワタシが堪えられなくてどうする。受け止めて構えなくてどうする。
ワタシは、〝姉〟になるんだ。
「着いた。行くぞ」
ぐるぐると蠢いて定まらない思考に耐えているうちにいつの間にか病院に着いたらしい。社長に促されてワタシはずいぶんと強く握り締めてしまっていた手をゆっくりと離す。社長の手にはワタシの手の跡がくっきり残っていて、けれど社長はそれに何も言うことなくワタシの頭を撫でた。
運転しにくかっただろうに振り払うことをしなかった社長の、無言の優しさが蠢いているワタシの気持ちをほんの少しだけなだめてくれる。
助手席のドアを開けてくれた社長の手に引かれて、おぼつかない足取りで病院の中に入っていく。最近建て替えられたばかりの新しい病棟で、木目調の温かみある壁が評判なところだ──けれど、前に来た時はきれいで安心できそうなところだと思えたそこも、今はただ恐怖と不安しか感じない。
「黒錆つゆりの身内だが」
「ああ! 黒錆さんのご家族の方ですね、お伺いしています。無事、お生まれになりましたよ! 今は病室に戻っておりますので、どうぞそちらへ」
「分かった」
無事──無事、お生まれに。
看護師さん──そう、言ったよね? 今──確かに、確かに。
無事って。
「自分の目で確かめろ」
そう言われてどん、と背中を押される。
気付けば大家さんの入院している病室へと通じる扉が目の前にあった。ぐ、と引き攣れてうまく息を吸い込めない喉をどうにか落ち着かせて大きく深呼吸して、すっかり感覚のない手をそうっと扉にかける。
ほんの少し力を込めただけで扉はするりと開いてしまい、心の準備を完了させるよりも先にワタシの視界に、病室の中が飛び込んできた。
「──どれみちゃん」
「ああ、来たかどれみ」
その声が鼓膜を揺らした瞬間のワタシの安心感、分かるだろうか。
思わず零れ落ちそうになった涙を堪えて病室の中央に置かれているベッドに視線を向ける。そこでは少し顔色が悪いながらも、大家さんが笑顔で上半身を起こしながらこちらを見つめていた。その隣では元軍人が椅子に座っていて、ワタシの顔を見て安心させるように穏やかな──物凄く優しい笑みを浮かべる。
そこで、堰を切ったように涙が溢れ出してきた。
「お……おがあざんっ!」
「ああ、どれみちゃんごめんねしんぱいかけて。おいで」
「おがあざんっ」
大家さんの傍に駆け寄って、けれど術後でまだ熱が下がっていないのか蒼褪めている大家さんに躊躇ってしまう。目には見えないけれどお腹を切開したばかりなのだ。腕からは点滴が伸びていて、触れていいのかどうか迷う。
けれどそんなワタシの彷徨っている手を大家さんの手が包み込んで、そっと引っ張ってくれた。
「ほら、だいじょうぶ」
わたしはげんきよ、と大家さんは覚束ないながらもそっとワタシの頭を抱き締めてくれた。そのお母さんのぬくもりに、また涙が零れ落ちる。
「──よがっだ」
「ふふふ」
「どれみ。こっちおいで」
大家さんに抱き締められてぼろぼろ泣いていると、ベッドを挟んで向かい側から元軍人が声を掛けてきて視線をそちらに向ける。
そこで、はじめて気付いた。
大家さんの伏せっているベッドの真横──そこに、もうひとつ。ゆりかごのようなベッドがあった。
「あっ……」
「おいで」
元軍人にまた呼ばれて、大家さんにぽんぽんと肩を叩かれて促されて──ワタシはふらふらとベッドを回り込んでゆりかごの元へ、向かう。
「────」
まっしろなゆりかご。
まっしろなおくるみ。
その中でくうくうと眠る、ちいさなちいさな赤ちゃん。
とてもちいさな手。とてもちいさな耳。とてもちいさな鼻。とてもちいさな口。とても小さな目。ちいさなちいさな、赤ちゃん。
それに──ワタシは、魅入る。
「──……子猿のぬいぐるみ」
「生まれたばかりの赤子はみな子猿だ。決めるのはもう少し先にしなさい」
ふはっ、と大家さんが噴き出して笑い始めた。ボケたつもりはなかったんだけど……。まあ子猿だと元王子に被るしぬいぐるみを作るのはこの子がもっと大きくなってからにしよう。
「つゆり、あまり笑うと響くぞ」
「だ、だって……ふふ、あははっ、あはっ」
たいそうツボだったらしい。笑い止まない大家さんに少し恥ずかしくなりつつ、けれどそんな大家さんを見てようやく──先ほどまで胸で蠢いていたものが融けて消えていくのを感じた。
代わりに満ちていくのは、幸福感。
「……お母さんに似てるね」
「口元は元軍人そっくりだな」
いつ病室に入ってきたのか、社長がワタシの背後から赤ちゃんを覗き込む。
確かに顔の造形は大家さんそっくりなんだけど、むっつりとした口元がまんま元軍人だ。元軍人の無愛想は遺伝しなくていいって。
「なんかむちゃくちゃお父さんみたいになりそう」
「育て甲斐はありそうだな」
「誰がアンタに育てさせるか」
アンタのねじ曲がった性格が移ったらどうする!
「つゆり、みんなが来たぞ」
──と、ワタシが赤ちゃんに魅入っている間に病室を出て行ったらしい元軍人が扉を開けて入ってくると同時に──さいはて荘のみんなが、満面の笑顔で飛び込んできた。
「疲れてる時に悪ィ、すぐ帰るからよ! とりあえずお疲れさん!!」
「この世界にまたひとつ、新たなプリズムハートが誕生したことにボクは感謝の祈りを捧げよう! 偉大なる聖母、大家さん──ありがとう、お疲れ様」
「大家さま、おめでとうございます。そして──本当に、お疲れ様でございます。大家さまの健やかそうなご様子を拝見できて──とても、安心いたしました」
「大家さんよく頑張ったね~本当にお疲れ様。よかった、大家さん元気そうで」
「大家さんおめでとぉ~! 帝王切開って聞いた時はびっくりしたけどぉ……無事生まれてよかったぁ!」
「大家さん、お疲れさん。すまんな大勢で。無事に生まれてよかったわい……おめでとう」
「──みんな、きてくれてありがとう。すごくうれしい」
産後すぐの母子の元へ赤の他人が押しかけるなんて、本来ならば母体にストレスを与えるものでしかない。
だがワタシたちは〝さいはて荘〟だ。
むしろ──こうであった方が、よっぽど安心できる。
「やべぇ可愛い。大家さんに似てるな。可愛い。やべぇ」
「かわいいなぁ~。元軍人さんに似なくてよかったね」
「どういう意味だ、元国王」
みんなでわいのわいのやいのやいのとゆりかごの中でくうくう眠っている赤ちゃんを眺める。そんな様子を大家さんは本当に嬉しそうに、幸せそうに眺めていて──その笑顔にワタシも幸せな気持ちになる。
「──で、名前は何じゃ? 決めておるのか?」
ふと、爺が口にした問いに大家さんと元軍人は顔を見合わせて──それから、ワタシを見た。え?
「どれみ」
「どれみちゃん、どんななまえがいいとおもう?」
「えっ。ワタシ?」
「ああ。なんせ──お前の〝弟〟だ」
その言葉に、はっとゆりかごの中の赤ちゃんを見る。
弟。そうだ、弟。
この子は──ワタシの弟なんだ。
あんなにいいお姉ちゃんになるって意識していたのにすっかり抜け落ちてしまっていた。
そうだ、そうなんだ。
ワタシは──〝姉〟になるんだ。
この子の、姉に。
「…………」
ワタシの弟。
大家さんと元軍人の子ども。
さいはて荘の、新しい仲間。
さいはて荘の、新しい家族。
気付けば、みんなの視線がワタシに集まっていた。
不思議と──あまり悩むことはなかった。
「──巡」
さいはて荘は今年も巡る。
春を巡り、夏を巡り、秋を巡り、冬を巡り。
お蝶を巡り、爺を巡り、元巫女を巡り、元王子を巡り、なっちゃんを巡り、社長を巡り、元国王を巡り。
大家さんと元軍人を巡り。
ワタシを、巡る。
巡り巡りて巡りゆく。
巡りゆき巡らせて巡り着いた果てに、また巡る。
──そうして、ワタシたちは繋がってゆく。
「黒錆巡」
それが、この子の名前。
「巡ると書いてめぐる、か。──いい名前だ」
「ええ、ほんとうにすてきななまえ。よろしくね、めぐるくん」
「巡! いいねぇ、どんな風に成長するか楽しみだぜぇ」
「うむ、そうじゃの。はてさて巡はどう呼ばれるようになるか。楽しみじゃわい」
「ふむ、めぐる──めぐる、メグルン! よし、メグルンのために早急に正義のヒーロー、まんじゅうマンのDVDを揃えるとしよう!」
「めぐるくん、かわいい名前だねぇ! きっとむちゃくちゃイケメンに育つぞぉ~!」
「いいねぇめぐるくん。さいはて荘がますます楽しくなるねェ~優しいおじさんとして頑張るよぼく」
「めぐるさま──素敵な名前でございます。これからめぐるさまは色々なものを巡ってゆき、培っていくことでしょう」
「巡か。──悪くない」
ワタシの名付けた名前はまるで最初からそうであったかのようにみんなに浸透して、さいはて荘に染み込んでいく。
こうして〝さいはて荘〟に巡という新しい仲間が──新しい家族が、加わったのであった。
けれどこれは終わりではない。始まりの始まり、始まる前の始まりでしかない。ワタシは改めて赤ちゃんの──巡の顔を見下ろして、そっと巡の小さな手に指を伸ばす。
人差し指ほどしかないとてもちいさいちいさい、頼りない手。
けれどこの手はさいはて荘で過ごしていくうちにきっと、どんどん大きくなっていくのだろう。
ふと、きゅうっと巡の小さな手が人差し指を握った。そんなかわいい仕草にワタシはまた、笑顔を零す。
ワタシがこれからどんな道を歩んでいくのかと同じように、巡がこれからどんな風に成長していくのか──楽しみで仕方ない。
──〝さいはて荘〟にようこそ、巡。
最果ての地に朽ちるは最廃ての荘。
最廃ての荘に住まうは最排ての者。
最排ての者に揺れるは最凡ての噺。
さいはての、ものがたり。
【季節は巡る】
これにて「夏」の章は完結です。
ここまで読んでくださりありがとうございました!
次は「秋」の章に続きます。




