【おやこどん】
「大家さんが入院することになった」
学校帰り、校門に停まっていたお高い車から降りてきた社長が開口一番に発したその言葉に、ワタシの喉がひゅっと鳴る。
「息をしろ。大丈夫だ」
どん、と社長の手のひらがワタシ胸元を打って、その拍子にごほっと止まっていた息が出た。痛い。
「まだ予定日には遠いが、大家さんの体を考えるといつ何が起きてもおかしくない。大家さんは顔に出さないが……あの体でお腹を支えながら生活するのは苦しいはずだ」
「……うん。少し歩いただけで息切れするし、心臓がばくばく鳴っていた」
大家さんのお腹がすっかり大きくなって、大家さんはああいう人だからいつも通り笑っているけれど、大変なのは目に見えて分かった。だからワタシと元軍人で大家さんからあれこれ家事を取り上げてなるべく安静にしてもらっていたんだけど……それでもやっぱり、少し不自由な体で小さないのちを抱えるのは大変そうだった。
「現時点で何か問題が起きているわけではないが、どちらにしろ出産となればこの町にある産婦人科では不安がある。だから都市部の大病院に今から入院してもらう」
「そっか。うん、その方が確かに安心する。もう行ったの?」
「ああ。お前も行くだろう?」
「うん」
ワタシは頷いてから背後を振り返ってこちらを静観していたゆゆと大王に向き直る。
「ごめん、ショッピングはまた今度で」
「おう。弟生まれたら見せてくれよな」
「今からお祝い用意しておかないとねぇ~」
にこやかに見送ってくれるふたりに手を振って、ワタシは社長の車に乗り込んだ。音もなく走り出す車に、そういえば自転車置き去りじゃんと脳の片隅で考えながらこれからについて考える。
大家さんが入院。それはいい。ワタシもその方がいいと思う。大家さんの体を考えると臨月に入った今、万が一に備えるべきだと思う。
むしろ今まで何事もなく母子ともに健やかであれたことがすごいのだ。ひとえに大家さんを支えた元軍人のおかげだろう。
出産に備えて色々準備はしてきたけれど、大丈夫だろうか。一度さいはて荘に戻って持っていっていないものがないか確かめた方がいいだろうか。いや、大家さんも自分でチェックしただろうし元軍人もちょっと抜けてるところあるけど大家さんに関することだからしっかりするだろうし……。おくるみはちゃんと持っていったのかな。あっ、シャンプーとかせっけんとか忘れてないかな?
あ! ワタシが作ったドーナツクッション持っていってくれたかな? あ~、大丈夫かなあ。
「心配するな。お蝶が付き添っている」
「お蝶が?」
「同性がいた方が安心だろうからな。さいはて荘の中ではお蝶が一番手慣れている。臨時休業して大家さんや元軍人と一緒に病院に行っている」
「そうなんだ、じゃあ安心だね」
お蝶が前、働いていたお店にはシングルマザーも多かったとかで手伝いをよくしてたらしい。そんなお蝶がいるのなら大丈夫だろう。
「しばらく忙しなくなる。お前がひとりになることも増えるだろう」
「うん。大丈夫」
大家さんが入院することになって、元軍人も大家さんにかかりきりになるだろうからひとりの時間は間違いなく増えるだろう。
でも、大丈夫。ひとりは寂しいけれど、そのひとりはあのころのようなひとりぼっちじゃない。誰にも助けてもらえない孤独じゃない。
家族を迎えるための、ひとりぼっちだ。
それに──さいはて荘にいるんだからそもそもひとりじゃない。
「親子丼」
「ん?」
「親子丼喰いたい」
「……いつ帰ってくんの?」
「明後日」
「明後日ね」
はいはい。
明後日の夕飯は親子丼、と。
「卵は半熟にしろ。パサついたのは好かん」
「命令すんな! 何様よっ!」
「俺様」
「呪うぞ」
とことんねじ曲がってるヤツだ。素直に〝ふわとろ卵の親子丼が食べたいなぁ。明後日帰るんだけど魔女、作れない?〟ってお願いすりゃいいものを──いや、だめだ。
想像しただけでぞわっと来た今。
「社長はやっぱりそのままねじ曲がった嫌なヤツでいた方がいいわね」
「ねじ曲がった? 俺様はいつでも正直だが?」
「つまり元がねじ曲がっているってことね。知ってたけど」
「選ばれた人間なのだから貴様ら愚民と違って当然だ。まさか俺様とお前如きが同じとでも?」
「呪うぞ」
「呪ってみろ。後悔させてやる」
「アンタそれでも大人?」
「俺様だと言っているだろう? そこらの人間どもと同じにするな」
「最悪な大人がここにいる」
──と、社長と言葉のドッジボールをしているうちに病院に着いて、ワタシたちは大家さんが入院することになる個室へ向かった。
大家さんはとても元気そうで、いつもと変わらない笑顔を浮かべていてとても安心した。入院とはいってもベッドに伏せきりになるわけじゃなくて、わりあい出歩きできるらしい。感染病のリスクがあるから行ける場所には制限があるようだけれど。
元気そうな大家さんを見て安心したワタシは──仕事を抜けてきたから戻るといつの間にか消えていた社長に、明後日とびきりおいしい親子丼を作ってまいりましたと言わせてやろうと心に誓ったのであった。




