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パラダイムシフト

 空気が変わった。しんと落ちた沈黙に、何か間違えただろうかと焦る。フォローの言葉を探していると、強く手を引かれて体が傾いだ。大きな手のひらに後頭部を抑え込まれる。首の痛みと唇の熱をほぼ同時に感じて、何もできずにいるうちに解放された。


「抵抗されない」


 杵島君は今日一番人の悪い笑みを浮かべた。

 不意打ちで何を言う。それに、さっき散々抵抗して殴りつけてやったばかりだ。効いてはいなかったようだけど。


「――というのは冗談として」

「ちょっと凶暴なキブン」

「すみません、調子に乗りました」


 空いている左手を拳に握れば、彼は深々と頭を下げた。でも、再び上げた顔は満面で笑っていて、とても反省しているようには見えない。


「気を許してくれているのは何となく感じてた。こうして部屋にも入れてもらえたしね。でも、最初から勝算があったわけじゃないよ」


 不審の眼差しを向けると、「本当だって」と苦笑が返ってきた。


「焦ったんだ。この一年会えなかったし、学生のときみたいに『自然に』なんて悠長なことしていたら手遅れになるかもしれない。毎日会うわけじゃないし、多少気まずくなっても一度なら許してくれるかなって期待して、踏み切った」


 彼の読みは正しい。私はこれを「なかったこと」にできるなら、彼を許しただろう。あっさりとは行かなくても、再会は半年か一年後になっただろうし、その頃には平静を装える。


「そしたらよりによって相沢さんと誤解されてるし。魔女どもの仕業とはいえ、ほんとへこんだ。でも、それが勝算になった」


 初めてあの人たちに感謝したよ、と笑う。なんだかさっきからずっと笑いっぱなしなんだけど大丈夫だろうか。何故そんなに上機嫌なのか、わけがわからない。そしてその「勝算」も。


「紗月さん、結婚するって誤解していたくせに、おれにお祝いを言わなかったよね」

「――忘れてた」

「そんなはずないでしょ」


 一蹴された。


「誕生日とかは忘れても、ひとの決断をないがしろにするような人じゃない」


 するり、と滑るように移動した硬い指先が私の指に絡んだ。つい意識が向く。付け根を合わせて握りこまれた。


「祝いたくないほど、嫌だった?」


 囚われた。

 息を、呑んだ。


「それが根拠。他の誰かと結婚してほしくない、と思ってくれているのかな、と。それで、少し暴走した」


 照れくさそうに言う。暴走、のキーワードで思い出したあれやこれやに改めて顔が熱くなる。ふと、杵島君が真顔になった。


「煽ってる?」


 二の句が継げない。

 その隙をつくように左手も取られた。指先に口づけられる。


「答えて」

「っ、煽って、ない!」

「残念」


 吐息にくすぐられる。

 答えなきゃいけないのはこんなことじゃない。わかっているけど、認めたくない。


 自分から話題を振れない私に話しかけてくれることが嬉しかった。さりげない優しさに胸があたたかくなった。白状すれば、高鳴る胸に勘違いするなと言い聞かせたこともある。いつも自然だったから、意識なんてしても後悔するだけだし、彼にも迷惑だろうと思った。妄想めいた行動の深読みに、そんなはずないとわかっていながら、自分が挙動不審になっていないか心配だった。

 とっつきにくい性格だという自覚はある。人見知りが激しくて、友人は多くない。だから関わってくれようとする人には感謝しているし、押しに弱い。優しさにも弱い。これがたぶん先輩と付き合った要因でもあって、さらには、みごとに杵島君の策略に嵌っている原因。


 全部、掌の上に載せられている気がする。こんなところで意地を張っても仕方がないのに、悔しくて認めたくない。

 唇を噛みしめて睨みつけると、杵島君はひるんだ様子なく受け止めた。その余裕が恨めしい。負けたくなくて、自分からは逸らさないつもりで見つめ続けた。繋いだままの両手が膝の上に導かれた。――祈るように。

 余裕ではないのだと、その時気づいた。眼差しの中で揺れている焦燥を理解した瞬間に、肩から力が抜けた。


「君の……」


 情けないことに声が震えた。

 ぐっと握りこまれた両手に力づけられて、呼吸を整えた。


「君の価値観を信じる」


 トラウマすら言い訳だった。記憶は鮮明でも、先輩への感情は曖昧で遠い。根拠になんてなるはずがない。選ばれなった事実を、彼が覆してくれるのに。

 だから言わなきゃ。



「好き」



 視界がぶれた。杵島君が立ち上がったのだと理解したときには、両手を押されて倒れこんでいた。天井を見上げていたのは一瞬で、すぐに、この一晩で随分至近距離に慣れた顔が降ってきた。


「キス魔か」

「照れてていいよ。かわいいから」


 暴言を曲解されて絶句していると、耳を噛まれた。めくれたTシャツの裾をさらに上へと押し上げながら熱い掌が脇腹を這う。仰け反った喉を指先でなぞられて思わず喘ぐ。今度のキスはこめかみに落ちた。やっぱりキス魔じゃないか。


「ちょっ、ちょっと待って!!」


 両手でシャツの裾を押さえると、やつは眉を寄せた。


「おれ一人がいつまでも裸なのはさすがに恥ずかしいんだけど」

「着ればいいじゃない!」


 勝手に脱いでおいて、しかも恥ずかしいとか今更信じられない。というか。


「焦る必要なくなった流れだよね。がっつくことないんじゃないの。草食はどこいった」

「六年友人に甘んじて他に彼女も作らなかったおれは、十分草食系男子だと思うけど」


 観念しなよ、と素肌に触れたままの手が侵攻を再開した。


「草食動物だって、何も食べずに生きてるわけじゃないし」

「展開が速すぎてついて行けない」


 悪あがきかもしれないけれど本心だった。私にとっては、いろんなことがひっくり返った夜だ。杵島君はおかしそうに目を細めた。


「おれにとっては、気の長い話だったよ」



 夜明けまでも、まだまだ長そうだった。




最後までお付き合い下りありがとうございました。

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