第30話 橘修は、家と学園のあいだで笑っている
橘修という人は、たぶん“境目”に立つのがうまい。
教師と生徒のあいだ。
先輩と後輩のあいだ。
軽口と本音のあいだ。
優しさと探りのあいだ。
どちらにも完全には寄らない。
でも、片方に立っているように見せることはできる。
そういう人間は厄介だ。
明確に敵なら、こっちも警戒の仕方を選べる。
味方なら、少なくとも反応に困ることは減る。
でも橘先輩は、そのどちらにも見えないまま、気づけばこっちの懐に半歩だけ入っている。
だから嫌なんだよ。
火曜日の放課後、俺は職員室前の掲示板を何となく確認していた。
確認する必要が本当にあったかと言われると微妙だ。
文化祭準備の張り紙の位置がずれていないか。提出締切の紙が別の案内に半分隠れていないか。そういう小さいことは見ておいて損がない――というのは、半分言い訳みたいなものだ。
最近はもう、何かを確認している時間そのものが癖になっている気がする。
誰も壊れていない。
今のところは。
でも、その“今のところ”を保つために、少しずつ動くことが当たり前になっている。
それが普通のことじゃないのは、自分でも分かっていた。
「御影くん」
後ろからかけられた声に、肩がわずかに固くなる。
振り返る前に分かった。
この穏やかで、でも妙に人の耳に残る声は橘修だ。
「……こんにちは」
「こんにちは。そんなに警戒しなくても取って食べたりしないよ」
「してるつもりないです」
「そう?」
橘先輩は笑っている。
その笑い方は柔らかいのに、目はちゃんとこちらを見ている。
やっぱり苦手だ。
「何か用ですか」
「用、というほどじゃないんだけど」
その前置きが一番信用できない。
橘先輩は俺の見ていた掲示板に視線をやる。
「最近、こういうのよく見てるよね」
「……たまたまです」
「その返し、評判になってるよ」
最悪だ。
「やめてください」
「何を?」
「評判とか」
橘先輩は少しだけ目を細めた。
「うん、やっぱりそこ嫌なんだ」
「……」
「目立つこと」
その言い方が妙に静かで、少しだけ息が詰まる。
嫌だ。
目立ちたくない。
変に見られたくない。
そこはもう、今さら誤魔化しようがないくらい本音だった。
「嫌いです」
短く答えると、橘先輩は素直に頷いた。
「だろうね」
「分かるなら放っといてください」
「そうしたいんだけど」
「だけど?」
橘先輩はほんの少しだけ笑みを薄くした。
「君、放っておかれるように振る舞うのが前より下手だから」
そこを言うな。
俺は思わず視線を逸らしかけて、やめた。
この人の前で露骨に反応すると、それも全部拾われる気がする。
「前より、ですか」
「うん」
「……何を知ってるんですか」
少しだけ低くなる声を自覚しながら聞くと、橘先輩は首を傾げる。
「それ、前にも聞かれたね」
「答えてませんでした」
「うん。今も全部答えるつもりはないかな」
やっぱりそう来るか。
橘先輩は廊下の窓の外を一度見てから続ける。
「御影家って、それなりに有名なんだよ」
その言葉で、心臓が一拍だけ重く沈む。
御影家。
その名前を学校の人間、それも橘先輩みたいな立場の人にさらっと出されると、思っていた以上に落ち着かない。
「有名、ですか」
「地域の中ではね。お父さんの仕事柄もあるし」
「……」
「だから、君の名前を最初に聞いた時、ああ御影家のって思った」
そこまでは想定内だ。
地元で多少知られている家なら、そういうこともあるだろう。
でも問題はその先だ。
「それだけじゃない、って顔してますね」
橘先輩が言う。
「自分で言うんですね」
「最近そういう会話が多いから」
それもどうなんだよ。
橘先輩は壁に軽く寄りかかる。
「理沙さん、元気?」
その名前が出た瞬間、空気の質が少し変わった気がした。
「……知ってるんですか」
「少しだけ」
「少しって何ですか」
「大学の関係で」
それは予想外だった。
理沙は大学生だ。
橘先輩は三年。接点がまったくないわけじゃない。
けれど、“知っている”と自然に言えるほどの距離があるとは思っていなかった。
俺の沈黙をどう受け取ったのか、橘先輩は少しだけ肩をすくめる。
「そんなに驚く?」
「驚きますよ」
「そっか」
「理沙に会ったことあるんですか」
「一度だけ。ちゃんと話したのはその時くらいかな」
その“ちゃんと”が気になる。
「どういう」
「御影くん」
橘先輩が静かに言葉を切る。
「君、自分の家のことになると一気に声が硬くなるね」
図星だった。
分かってる。
家の話は苦手だ。
父の話も、御影家の話も、理沙の話ですら少しだけ身構える。
学校の中で起きることは、まだある程度コントロールできる気がする。
でも家の話は違う。
俺自身の土台に近すぎて、ちょっと触れられるだけで揺れる。
「……詮索するつもりですか」
そう聞くと、橘先輩はすぐに首を振った。
「しないよ」
「信用できません」
「正直だなあ」
面白がるな。
「でも、本当にしない」
橘先輩は少しだけ真面目な声になった。
「ただ、君が学校と家を完全に切り分けられると思ってるなら、それは難しいかもしれないって言いたかっただけ」
その言葉は、妙に静かだった。
学校と家。
別の場所。
別の空気。
別の役割。
俺はずっと、そうやって分けて考えていた。
学校では原作のクズ役として目立たないようにしながら、でも破滅だけは避ける。
家では御影家の息子として、余計な波風を立てずに過ごす。
でも理沙は俺の変化を見ている。
父もたぶん見ている。
そして今、橘先輩はその二つが完全には切り離せないと言っている。
「……それ、脅しですか」
「違う」
「じゃあ何です」
「忠告、かな」
橘先輩はほんの少しだけ笑う。
「家のことで学校が揺れることもあるし、学校のことで家の見え方が変わることもある」
「……」
「君は最近、その真ん中にいる感じがするから」
返事ができない。
それはたぶん、かなり正しい。
学園の空気が変わっている。
日和も、透子も、凛も、俺との距離を少しずつ変えている。
理沙はそれを“今の方が好き”と言った。
父は“余計なことはしていないだろうな”とだけ言った。
真ん中にいる。
そう言われると、嫌になるくらい納得してしまう。
「……俺、そんなに分かりやすいですか」
ぽろっと出た問いに、橘先輩は少し意外そうな顔をした。
「そこ聞くんだ」
「悪いですか」
「いや」
橘先輩は小さく息を吐く。
「分かりやすいっていうより、変わったのが見える」
その表現は、理沙の言い方に少し似ていた。
「前の君をよく知ってるわけじゃないよ」
橘先輩は続ける。
「でも、今の君には“何かを選んでる人”の感じがある」
「何を」
「人との距離とか、関わり方とか、そういうの」
そこまで見えるのか。
「前は、全部から引いてた感じだった」
橘先輩はまっすぐこちらを見る。
「今は、引きながらも切らないよね」
その言葉に、思わず小さく息が漏れた。
引きながらも切らない。
たしかに、そうかもしれない。
日和の時も、透子の時も、凛の時も。
完全に距離を断つことはしなかった。できなかった。
それが良いことなのか、悪いことなのかはまだ分からない。
でも、たしかに“前より選んでいる”のは事実なんだろう。
「……嫌な観察ですね」
「ごめん」
橘先輩は笑う。
「でも、嫌いじゃないでしょ」
「何が」
「そういうふうに見られるの」
即答できなかった時点で負けだった。
嫌いだ。
でも全部が嫌というわけでもない。
その曖昧さが、自分でも一番面倒だ。
橘先輩はそれ以上追及しなかった。
「まあ、今日言いたかったのはそこだけ」
「そこだけで十分面倒です」
「それは申し訳ない」
まったく申し訳なさそうに見えない。
「理沙さんによろしく」
最後にそう言って、橘先輩は生徒会室の方へ戻っていった。
廊下に一人残され、俺はしばらくその場を動けなかった。
家と学校のあいだ。
その真ん中に自分がいるという感覚が、今さらになって妙に重い。
◇
教室へ戻ると、相馬がすぐに振り返った。
「また橘先輩?」
「見てたのか」
「たまたま」
「便利だな」
「だろ」
だろ、じゃない。
相馬は俺の顔を見て、少しだけ目を細める。
「やっぱあの人、なんかお前に言うと効いてるよな」
「言い方やめろ」
「でもそう見える」
「……」
「何言われたかは聞かねえけど」
相馬はそこで肩をすくめた。
「家の話とか?」
ぎくりとした。
「何で」
「いや、なんとなく」
こいつの“なんとなく”は地味に嫌だ。
「別に」
「出た」
「うるさい」
「でも図星っぽい」
「殴るぞ」
「こわ」
軽口は軽口のまま流れていく。
けれど、そのやり取りのおかげで少しだけ呼吸が戻る。
相馬は深く掘らない。
でも、ちょうどいいところで気配だけ合わせてくる。
あいつはそういう普通の友達ポジションとして、思っていた以上に貴重なのかもしれない。
◇
帰宅すると、理沙がリビングで大学の資料を広げていた。
「おかえり」
「ただいま」
「今日は早いね」
「まあ」
言いながら靴を脱ぐ。
理沙は俺の顔を見るなり、わずかに目を細めた。
「……橘くんに会った?」
今度は本気で言葉が止まった。
「何で」
「顔」
「もういいよその文化」
「だって分かるんだもん」
理沙は苦笑する。
「前に話した時と同じ顔してる」
そこまでか。
「大学で会ったことあるんだよね」
理沙はさらっと言う。
「ちゃんと話したのは一回だけだけど、頭のいい人だなって思った」
「……」
「何か言われた?」
その問いに、俺は少し迷ってから正直に答えた。
「家と学校は切り離せない、みたいなこと」
理沙は少しだけ黙った。
「うん」
「そうなのか」
「そういう時もある」
即答ではない。
でも否定もしない。
「……面倒だな」
「うん」
「理沙、お前もそう思う?」
「思うよ」
理沙は資料を閉じる。
「でも、そうやって面倒が増えるくらいには、今の悠真くん、前よりちゃんと人と関わってるんだと思う」
その言い方もずるい。
面倒と成長を同じ場所に置くな。
でも、否定しきれない。
最近はそういうことばかりだ。
◇
夜、自室で机に向かい、スマホのメモを開く。
橘:理沙を知っている。大学接点あり。
「家と学校は切り離せない」
「前は全部から引いていた、今は引きながら切らない」
危険。だが、観測精度が高い。
そこまで打ち込んで、手が止まる。
引きながら切らない。
その表現が、思った以上にしっくりきてしまったからだ。
日和を切らなかった。
透子も、凛も、真琴先輩も。
橘先輩ですら、完全に避けきれていない。
それは弱さなのか。
それとも今の俺が、原作の御影悠真と決定的に違う部分なのか。
「……面倒くさい」
小さく呟く。
でも、たぶんこの面倒くささの先にしか、次の物語はない。
橘修は、家と学園のあいだで笑っている。
その笑顔のまま、少しずつ境目を薄くしていく。
その役割は、たぶんこれからますます効いてくる。




