第七十三話 静かなる違和感
本日2話目の投稿です。
石碑の亀裂から姿を現した黒い爪は、ゆっくりと空を裂くように動いた。その一振りだけで祈りの間を満たしていた瘴気が渦を巻き、氷色の結界へ重くのしかかる。砕けることはない。それでも結界は悲鳴を上げるように軋み、白銀の番人は苦しげに低く唸った。封印の限界は確実に近付いていた。
「まだ……出てくるの」
ミアは思わず息を呑む。
巫女は石碑から目を離さない。
「封印は、奥に眠る存在のほんの一部しか抑えられていません。あれは、その力の欠片にすぎないのです」
その言葉に、祈りの間の空気はさらに重く沈んだ。
白銀の番人は再び前脚を踏み込み、氷の理を結界へ送り続ける。ライは正面で黒い爪の動きを抑え、クロは影から死角を狙い続ける。アカネの神炎は押し寄せる瘴気を焼き払い、ミアの生命の光は白銀の番人を優しく包み込んでいた。
その時だった。
フェリスがゆっくりと石碑へ歩き出す。
「フェリス?」
レオンが声を掛ける。
しかしフェリスは返事をしない。ただ静かに亀裂を見つめ、その場で足を止めた。いつも穏やかな瞳は石碑の奥だけを映し、何かを確かめるように微かに揺れている。
巫女はその姿を見た瞬間、わずかに目を見開いた。
「……まさか」
小さく漏れたその声は、誰の耳にも届かないほど微かなものだった。
「どうかしたんですか?」
レオンが尋ねても、巫女は静かに首を横へ振る。
「いいえ……今は戦いに集中してください」
それ以上は何も語らなかった。
次の瞬間、黒い爪が大きく振り下ろされる。
轟音とともに氷の結界が激しく揺れ、祈りの間の床へ深い亀裂が走った。吹き荒れる瘴気にレオンたちは思わず身構えるが、白銀の番人は一歩も退かず、力強い遠吠えを響かせる。その声に応えるように、ライの雷が一層激しく輝き、クロの姿は完全に影へ溶け込んだ。
「……上」
クロの短い声が響く。
ライは迷うことなく天井近くまで跳び上がり、雷をまとった拳を黒い爪へ叩き込む。ほぼ同時に、影から現れたクロの鋭い爪が黒い爪の付け根を深く切り裂いた。そこへアカネの神炎が渦を巻くように重なり、三つの理が一つとなって黒い爪を包み込む。
激しい爆音が祈りの間を震わせる。
黒い爪はひび割れ、その表面から無数の黒い結晶が砕け散った。
しかし――。
砕けた結晶は消えることなく宙へ浮かび、一つ、また一つと集まり始める。
やがて、それらは人の形を思わせる黒い影をゆっくりと形作っていった。
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