第三十五話 赦しの空
本日3話目の投稿です。
その金色の瞳には、青空が映っていた。
千五百年ぶりに見る、本当の空だった。
黒竜はゆっくりと空を見上げる。
青く澄み切った空には、災厄が現れる以前と変わらない穏やかな雲が流れていた。風は静かに黒竜の頬を撫で、長く閉ざされていた世界の終わりを祝福するように優しく吹き抜けていく。その景色を見つめる黒竜の瞳には、もう絶望の色は残っていなかった。
王都には静かな沈黙が広がっていた。
誰一人として声を上げられない。目の前にいるのは世界を滅ぼしかけた災厄の黒竜でありながら、その姿はあまりにも穏やかだった。深く頭を垂れたまま動かない巨体からは敵意も殺気も感じられず、人々は恐れるべきか信じるべきか、その答えを見つけられずにいた。
「剣を下ろせ」
低く響いた声に、兵士たちが一斉に振り返る。
そこへ歩いてきたのは、王国騎士団長だった。鎧は幾度もの戦いで傷付き、肩には包帯が巻かれている。それでも真っ直ぐ黒竜を見据える姿には、この国を守ってきた騎士としての覚悟が滲んでいた。
「団長、本当によろしいのですか!」
若い兵士が叫ぶ。
その表情には焦りと恐怖が入り混じっていた。仲間を失った者もいる。家族を失った者もいる。目の前の存在を簡単に許せるはずがなかった。
騎士団長は静かに頷く。
「分かっている」
短い言葉だった。
だが、その声には迷いがない。黒竜を見つめる眼差しは鋭いままだが、剣を向ける意思は感じられなかった。
「だが見ろ」
騎士団長は黒竜へ視線を向ける。
「今のあの竜から、敵意を感じる者はいるか」
兵士たちは言葉を失う。
誰も答えられなかった。
巨大な黒竜はただ静かに頭を下げたまま動かない。その姿は敗者でも勝者でもない。長い苦しみからようやく解放された、一人の命のように見えた。
レオンは騎士団長を見る。
「ありがとうございます」
騎士団長は小さく笑う。
「礼ならまだ早い」
そう言って空を見上げた。
崩れかけていた黒い雲は少しずつ晴れ始め、暖かな陽射しが王都へ降り注いでいる。瓦礫に埋もれた街並みも、人々の疲れ切った表情も、その光に照らされるだけで少しだけ希望を取り戻したように見えた。
「だが、一つだけ確かなことがある」
騎士団長はゆっくりと続ける。
「世界は救われた」
その言葉を聞いた瞬間だった。
王都のどこかで、一人の子供が小さく拍手をした。
乾いた音が静かな広場へ響く。
それは本当に小さな音だった。
けれど、その音は不思議なほど人々の胸へ届いた。
「助かったんだ……」
誰かが呟く。
「終わったんだ……」
別の誰かが涙を流す。
やがて一人、また一人と座り込んでいた人々が顔を上げ始める。抱き合って泣く家族。無事を確かめ合う友人。疲れ切ったまま空を見上げる兵士たち。その光景を見て、ようやく誰もが現実を受け入れ始めていた。
黒竜はその様子を静かに見つめていた。
誰も傷付けようとはしない。
誰も憎もうとはしない。
ただ人々が笑い合う姿を見守っている。その穏やかな横顔には、守護竜だった頃の面影が確かに戻り始めていた。
『これでよかったのだな』
黒竜が小さく呟く。
レオンは頷いた。
「はい」
その返事に迷いはなかった。
「あなたが守りたかった景色は、ちゃんと残っています」
黒竜は目を閉じる。
ゆっくりと息を吐き、その言葉を噛み締めるように静かな時間を過ごした。千五百年前には届かなかった答えが、ようやく今になって胸へ染み込んでいく。それは失われた時間を取り戻すことはできなくても、未来へ進む理由には十分だった。
その時、不意に猫神が空から舞い降りてきた。
白い尾をゆったりと揺らしながら、黒竜の前へ降り立つ。その黄金の瞳は穏やかだったが、どこか懐かしい友へ語りかけるような優しさも宿っていた。
「長い眠りだったね」
黒竜は静かに頷く。
『本当に長かった』
「なら、もう終わりにしよう」
猫神は空を見上げる。
「災厄の時代は終わった」
風が吹いた。
その風は王都を駆け抜け、崩れた城壁を越え、遠い森や山々まで届いていく。まるで世界そのものが、新しい時代の始まりを静かに告げているようだった。
しかし、その穏やかな風の中で、猫神だけは静かに目を細める。
その視線は遥か北の空へ向けられていた。
誰も気付かないほど遠く。
世界の果てに近い空で、紫色の光が一瞬だけ静かに揺らめいた。
猫神は誰にも聞こえないほど小さく呟く。
「……間に合ったか。でも、本当の試練はこれからだよ」
その言葉は風に溶け、誰の耳にも届かなかった。
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