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41/52

40、

あの後。──ディマスが闇に飲まれた後。


俺たちは、ナイジェルの手引きによって邸を抜け出した。


あの邸宅はディマスの所有物ではあるが、普段彼が暮らす本宅とは別だったようで、警備の手は思った以上に薄かった。恐らく、彼に従って来ていたのは門前に立っていたあの二人の護衛のみ。……それが、俺たちにとっては唯一の救いだった。


侯爵家へ戻ると、ノエルが玄関で出迎えてくれた。俺たちの顔を見た瞬間、張りつめていた空気が弛み、安堵の笑みが浮かんだ。そして、その日は何も聞かずに部屋へと戻っていった。


「リアム、少し……部屋に来てくれるか」


キースの呼びかけに、俺は黙って頷いた。

断る理由はなかった。──いや、放っておけなかったのだ。あの出来事の後の彼を。


キースは変わらないようでいて、どこかが微かに違っていた。

目の奥に、言葉にできない翳りが宿っている。けれど、俺と目が合うといつものように穏やかに微笑んでくれる。その笑顔に、また心が揺れた。


ソファへ座らされた俺の隣に腰を下ろしたキースが、そっと頬に手を伸ばしてくる。


「……怖い思いをさせたね。大丈夫かい?」


柔らかい問いかけだった。

──怖い思い、か。


確かに、あの光景は──今思い返しても背筋が粟立つ。ディマスの叫びが耳に残り、黒い闇が彼を呑み込んでいった瞬間は、脳裏に焼き付いて離れない。


軽々しく「大丈夫」とは言えなかった。何と答えればいいのか分からず、俺は言葉を失ったまま、口を閉ざす。


キースは小さく苦笑すると、優しく俺を抱き寄せ、その腕の中へと包み込んだ。


「……僕が、怖いかい」


頭上から落ちてきたその問いに、はっと息をのむ。


キースが、怖い……?


考える。

あの闇の力。迷いのない手つき。命を奪うという、明確な意志。

──それでも俺は、キースを恐れていなかった。

彼の好意に戸惑っても、自分の気持ちに答えを見出せずにいても。


「……怖くは、ないです」


はっきりと、そう答えた。

違和感は、ある。けれど、それが恐怖に変わることはない。

見上げると、キースの目がわずかに見開かれていた。


「……あの光景を、見ても?」

「はい。兄様が怖いとは思っていません」


俺の声は自然と穏やかだった。


……俺の感覚がおかしいのだろうか?

もしかしたら、前世風に言えば──キースは「殺人犯」と呼ばれる立場にあるのかもしれない。それでも、キースを責める気にはなれなかった。俺のために動いてくれたという気持ちが、どこかで理解できてしまうから。


理屈ではいけないことだと分かっていても、感情はいつも別の顔をする。


「リアム、君は……君だから……」


囁くような声とともに、抱きしめる腕にぐっと力がこもった。


その時──


バン、と扉を打つ音が響いた。


「リアム様!キース様!」


ナイジェルの声だった。慌ただしい気配に、俺たちは動きを止める。


キースが腕をほどき、姿勢を正して声をかける。


「どうしたんだ?」

「レジナルド殿下が……お見えです。リアム様に、急ぎ話があると……」

「先輩が?」


驚いて立ち上がる。こんな時間に?──タイミングが良すぎる。何か察知して動いたのだろうか。


「リアム、行くのかい?」


キースの目が、警戒を宿したまま俺を見つめていた。その視線に、胸がざわつく。


「……ええ。話を聞いてきます」


そう言うと、キースは少し躊躇いがちに頷いた。


「……分かった。でも、僕の目の届かない場所には行かないでくれ」


「行きませんよ。どこにも」


約束するように言ったが、キースの不安は晴れていないようだった。

その視線に締めつけられるような痛みを感じ、俺はそっとキースの手を取った。


その手は冷たく、僅かに震えていた。


「兄様、大丈夫です」


キースが、俺の名前を低く呟いた。


──その声音に宿った感情が、胸にじわりと染み込む。

思わず、俺は彼の手を引き寄せ、唇を重ねた。


触れるだけのキス。けれど、キースの体が小さく震え、次の瞬間には静かに目を伏せ、微笑んだ。


「……ここで、待っているよ。リアム」


その穏やかな笑みに、ほんの少しだけ心が救われた気がした。



応接室の扉を開けた瞬間、レジナルド先輩の険しい顔が目に入った。

普段の柔らかな気配は消え、王太子としての鋭さが張り詰めていた。


「リアム、話したいことがある。いや……聞きたいことがある」

「……何を、ですか」

「──ディマスの件だ」


その名前が落ちた途端、全身の空気が凍りついたように思えた。


逃げ場を探すように視線をさまよわせる。……だが、隠しても無駄だろう。

先輩はかつて、俺に“密偵をつけている”と告げた。それがまだ続いているのかは分からない。が、今この話が出たということは、何かしら掴んでいるに違いない。


俺は覚悟を決め、息を吸って、彼の瞳を正面から見返した。


「……僕は、見ました」

「見た?」

「ええ。兄様とディマス様が口論になって……その直後に、ディマス様が……闇に飲まれて、消えていくのを」


レジナルドは目を細めた。


「……闇に?」


頭に焼きついている。ディマスの断末魔と、闇に呑まれていくあの光景。

けれど、キースが力を使ったとは明言できない。いや、してはいけない。


「その後、兄様は僕に『もう安全だ』とだけ言いました」


真実の一端を、歪めずに。けれど核心には触れないように──

レジナルドは沈黙ののち、低く呟く。


「キースは……何かを隠している」

「……僕も、そう感じています。兄様の顔に一瞬、迷いがあった。そして……何かを覚悟したような」


そのとき、胸の奥にひっかかっていた“違和感”が、ようやく輪郭を持ち始めた。


「リアム。君は、兄上を信じているのか?」

「……信じています。けど、同時に……分からなくもあります」


率直な答えが口をついて出た。レジナルドの表情が、ほんの少しだけ柔らいだ。


「なら、もっと知るべきだ。キースがどこまでを引き受けようとしているのか、その力の代償が何なのかを」


その言葉の重みが、俺の胸にずしりとのしかかる。


「……分かりました」


レジナルドは席を立ち、肩に落ちた影のまま、扉の方へと歩き出す。


「隣国がディマスの失踪を知れば、我が国に責任を求めてくるかもしれない……。これは、国家の問題にすらなり得る」


俺の心がかすかに震えた。

キースが選んだ選択は、そんな次元の重さを持っていたのか。


「リアム。困った時は、私にも頼ってほしい」


レジナルドが最後にそう告げて部屋を後にする。

その背中が見えなくなったあと──

俺はただ立ち尽くした。キースのこと、ディマスのこと、レジナルドの警告……すべてが頭の中で回り続ける。


「……俺は、どうすれば……。兄様のために、俺にできることって……」


声にならない祈りが、静かな廊下に溶けていった。


読んでいただいてありがとうございます!

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