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39、

キースが向かったという市街外れの邸宅は、馬で四十分ほど走った先に佇んでいた。


ナイジェルが邸の裏手に馬を繋ぎながら、小声で囁く。


「情報によれば、こちらがディマス殿下の所有する邸宅のひとつかと」


俺たちは二人で、灰色の石造りの館を見上げた。その威圧的な静けさが、胸の奥に冷たいものを忍び込ませる。誘拐事件の首謀者──そう考えるだけで、肌が粟立った。俺は足を早め、ナイジェルと共に正門へ向かう。


門前には、王族のものと思しき重装備の兵が数人立ち並んでいた。だが、ナイジェルが侯爵家の紋章を掲げると、驚くほどあっさりと門は開いた。


「……ずいぶん、簡単だな」

「侯爵家からの使者は通せ、という指示が出ているのでしょう。……いや、あるいは“余裕”のつもりなのかもしれません」


ナイジェルの呟きに、俺は喉の奥で息を呑んだ。敷地内に踏み込むたび、胸のざわつきは増していく。だが、引き返すつもりはなかった。


館の扉の前に立ったとき、中から微かに声が漏れ聞こえた。


「君は何をしたいんだ、ディマス」

「私の目的は明確だ。君こそ、そんなザマでリアムを繋ぎ止められると思うのか?」


その声に、俺の心臓が跳ねた。キース──そしてディマス。俺は反射的に扉へと身を寄せ、耳をすませた。



広間では、キースが冷ややかな眼差しでディマスを睨んでいた。


「リアムに手を出した時点で、君の終わりは決まっていた。僕がここに来たのは、それを告げに来ただけだ」


「終わり?フ……君こそ、執着に囚われすぎじゃないか?あの少年が君を選ぶと、本気で思っているのか?」


ディマスの唇が歪み、余裕を見せるように笑う。キースの目が鋭く光った。


「それが君に関係あるのか?……リアムは僕の大切な存在だ。彼を傷つける者は──僕が裁く」

「ほう……だがその執着が、いずれリアム自身をも蝕むだろう」


ディマスの皮肉に、キースの拳がかすかに震える。だが彼はその動揺を押し殺すように、ゆっくりと両手を組み直し、言い放った。


「君の力を──僕に差し出してもらうよ」

「……なんだと?」


ディマスの表情が凍りついた。


直後、キースの背後に、黒くうねる気配が立ちのぼる。それはまるで生き物のように蠢き、牙を剥いてディマスに襲いかかろうとしていた。部屋の空気が一気に凍りつく。


「キース、お前……まさか……!」

「言っただろう、リアムに手を出した時点で、君は終わりなんだ」


キースの声が、容赦なく響き渡った。ディマスの顔から、余裕が見る間に消えていく。



扉の外。キースの声が、刃のように鋭く胸に刺さった。足が竦みそうになる。

けれど──見過ごすわけにはいかなかった。


「兄様!」


扉を押し開け、広間へと駆け込む。俺の声に、キースは動きを止めて振り返った。ディマスは片膝をつき、息を荒げていた。


「リアム……どうしてここに」

「兄様こそ、何を……ディマスに、その力は……!」


キースは一瞬だけ迷うような色を浮かべたが、すぐに平静を装い、俺に歩み寄ってくる。


「ここは危険だ。僕が片をつける。ナイジェルには君を屋敷に留めるよう伝えておいたのに……」

「僕が無理を言ったんです。でも兄様、何を終わらせるって……ディマスは確かに許せないけど、殺すなんて……!」


その力の使い道が“命を断つこと”だと直感して、俺の中に強烈な拒否感が走った。正当に訴え、法で裁くべきだ。それが兄様の選ぶべき道じゃない。


「兄様……!」


喉の奥から絞り出した声に、キースが静かに呟いた。


「君は、優しいね。……けれど、君を守るには僕が汚れるしかない。そう決めている」

「違う……そんな守り方、僕は望んでない!」


その言葉に、キースの瞳が一瞬だけ揺れる。だが、次の瞬間には、またあの炎のような執念を宿した目に戻っていた。


「それじゃ足りないんだ、リアム」


まるで呪いのように、優しい声音でそう言われた。


そのとき、ディマスが立ち上がった。


「──やはり、君は執着の化身だな、キース!」


その手から雷光が放たれる。光が唸りを上げて俺たちに迫る。咄嗟にキースが俺を抱き寄せ、その一撃から身を挺して庇ってくれた。


「……そこまでして、そのウジ虫を守るのか」


ディマスが嘲笑う。だが、その目には明らかな焦りが宿っていた。


闇の気配──キースの背に纏うそれは、明らかに尋常ではなかった。彼が扱うはずだった風ではない。闇。……希少属性。俺たちが思い出せない過去に、それが関係しているのだろうか。


キースの掌から、紫煙が静かに立ちのぼる。俺たちの周囲に張られたそれは、結界──いや、闇の守護だった。


「兄弟もろとも、消えろッ!」


ディマスの怒声が響き、詠唱とともに雷撃が再び奔る。キースがそれを迎え撃つように、黒い炎を放った。雷と炎。光と闇が、広間の空気を切り裂き、激しく衝突する。


「リアムなんて、レジナルドにふさわしくない!」


怒りと嫉妬に満ちたディマスの叫びが、空間を震わせた。


「レジナルドが本当に愛すべきは、この私だッ!」


その目が、燃えるような憎悪を湛えて俺を射抜いた。


「……僕は、レジナルド先輩に興味なんかない」


呟いた俺の言葉に、ディマスは狂ったように笑い出した。


「ふざけるな……お前が来てから、すべてが変わった!あの方の目は、私ではなく、お前ばかりを……!」

「それは……」


否定したいのに、言葉が出てこない。あの想いは、俺にではなく“前のリアム”に向けられたもの。それでも、事実だけを見れば──俺が、レジナルドの目を奪ったように見える。


ディマスの叫びが続く。


「ふっ……君は本当に愚かだね」


キースが静かに口を開いた。

その瞬間、ディマスの掌にも──黒炎が灯る。

……まさか、ディマスまで。


「君のような歪んだ愛に、誰が応えると思う?」

「……黙れ……!」


怒りに満ちたディマスが闇を爆ぜさせるが、キースはまったく怯まない。


「僕は、リアムを脅かすものを──必ず排除する」


その声に込められた“所有”の響きに、俺の心がざわめいた。


「うるさい、うるさい、うるさい‼︎」


ディマスの絶叫が響き渡る。黒い炎が襲いかかるが、キースの一振りでそれは掻き消される。


「リアム、僕の後ろにいて」


俺は一歩踏み出そうとするが、闇の圧に阻まれ、動けない。ただ、その背中を見つめるしかできなかった。


「──これが最後の警告だ」


キースの言葉に、ディマスは狂気にまみれた瞳で叫ぶ。


「お前らさえいなければ、レジナルドは──ッ!」


「……やはり、選ばせるべきじゃなかったな」


低く響いたその声と共に、広間が闇に飲まれていく。


「兄様、やめて‼︎」


俺の叫びに、キースが一瞬だけ振り返る。その目には、悲しみと、どうしようもない覚悟が滲んでいた。


「……僕が手を汚さなければ、リアムを守ることはできない」


かすかに微笑み、闇を操るその姿は──誰よりも優しく、そして、誰よりも孤独だった。

ディマスの叫びが空気を裂いた後、すべての気配が沈黙した。

広間に残ったのは、焼け焦げた床の痕だけ。そして、キースはその場に膝をつき、荒く息を吐いていた。


「兄様……」


震える声で名を呼ぶ。キースの肩が微かに揺れた。


「……君を守るためなら、僕は……どんな代償でも払うよ」


──その想いが、誰かを傷つけるものだったとしても。


俺はそっと手を伸ばした。

今にも崩れてしまいそうなその背中に、触れたくて仕方がなかった。



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