39、
キースが向かったという市街外れの邸宅は、馬で四十分ほど走った先に佇んでいた。
ナイジェルが邸の裏手に馬を繋ぎながら、小声で囁く。
「情報によれば、こちらがディマス殿下の所有する邸宅のひとつかと」
俺たちは二人で、灰色の石造りの館を見上げた。その威圧的な静けさが、胸の奥に冷たいものを忍び込ませる。誘拐事件の首謀者──そう考えるだけで、肌が粟立った。俺は足を早め、ナイジェルと共に正門へ向かう。
門前には、王族のものと思しき重装備の兵が数人立ち並んでいた。だが、ナイジェルが侯爵家の紋章を掲げると、驚くほどあっさりと門は開いた。
「……ずいぶん、簡単だな」
「侯爵家からの使者は通せ、という指示が出ているのでしょう。……いや、あるいは“余裕”のつもりなのかもしれません」
ナイジェルの呟きに、俺は喉の奥で息を呑んだ。敷地内に踏み込むたび、胸のざわつきは増していく。だが、引き返すつもりはなかった。
館の扉の前に立ったとき、中から微かに声が漏れ聞こえた。
「君は何をしたいんだ、ディマス」
「私の目的は明確だ。君こそ、そんなザマでリアムを繋ぎ止められると思うのか?」
その声に、俺の心臓が跳ねた。キース──そしてディマス。俺は反射的に扉へと身を寄せ、耳をすませた。
※
広間では、キースが冷ややかな眼差しでディマスを睨んでいた。
「リアムに手を出した時点で、君の終わりは決まっていた。僕がここに来たのは、それを告げに来ただけだ」
「終わり?フ……君こそ、執着に囚われすぎじゃないか?あの少年が君を選ぶと、本気で思っているのか?」
ディマスの唇が歪み、余裕を見せるように笑う。キースの目が鋭く光った。
「それが君に関係あるのか?……リアムは僕の大切な存在だ。彼を傷つける者は──僕が裁く」
「ほう……だがその執着が、いずれリアム自身をも蝕むだろう」
ディマスの皮肉に、キースの拳がかすかに震える。だが彼はその動揺を押し殺すように、ゆっくりと両手を組み直し、言い放った。
「君の力を──僕に差し出してもらうよ」
「……なんだと?」
ディマスの表情が凍りついた。
直後、キースの背後に、黒くうねる気配が立ちのぼる。それはまるで生き物のように蠢き、牙を剥いてディマスに襲いかかろうとしていた。部屋の空気が一気に凍りつく。
「キース、お前……まさか……!」
「言っただろう、リアムに手を出した時点で、君は終わりなんだ」
キースの声が、容赦なく響き渡った。ディマスの顔から、余裕が見る間に消えていく。
※
扉の外。キースの声が、刃のように鋭く胸に刺さった。足が竦みそうになる。
けれど──見過ごすわけにはいかなかった。
「兄様!」
扉を押し開け、広間へと駆け込む。俺の声に、キースは動きを止めて振り返った。ディマスは片膝をつき、息を荒げていた。
「リアム……どうしてここに」
「兄様こそ、何を……ディマスに、その力は……!」
キースは一瞬だけ迷うような色を浮かべたが、すぐに平静を装い、俺に歩み寄ってくる。
「ここは危険だ。僕が片をつける。ナイジェルには君を屋敷に留めるよう伝えておいたのに……」
「僕が無理を言ったんです。でも兄様、何を終わらせるって……ディマスは確かに許せないけど、殺すなんて……!」
その力の使い道が“命を断つこと”だと直感して、俺の中に強烈な拒否感が走った。正当に訴え、法で裁くべきだ。それが兄様の選ぶべき道じゃない。
「兄様……!」
喉の奥から絞り出した声に、キースが静かに呟いた。
「君は、優しいね。……けれど、君を守るには僕が汚れるしかない。そう決めている」
「違う……そんな守り方、僕は望んでない!」
その言葉に、キースの瞳が一瞬だけ揺れる。だが、次の瞬間には、またあの炎のような執念を宿した目に戻っていた。
「それじゃ足りないんだ、リアム」
まるで呪いのように、優しい声音でそう言われた。
そのとき、ディマスが立ち上がった。
「──やはり、君は執着の化身だな、キース!」
その手から雷光が放たれる。光が唸りを上げて俺たちに迫る。咄嗟にキースが俺を抱き寄せ、その一撃から身を挺して庇ってくれた。
「……そこまでして、そのウジ虫を守るのか」
ディマスが嘲笑う。だが、その目には明らかな焦りが宿っていた。
闇の気配──キースの背に纏うそれは、明らかに尋常ではなかった。彼が扱うはずだった風ではない。闇。……希少属性。俺たちが思い出せない過去に、それが関係しているのだろうか。
キースの掌から、紫煙が静かに立ちのぼる。俺たちの周囲に張られたそれは、結界──いや、闇の守護だった。
「兄弟もろとも、消えろッ!」
ディマスの怒声が響き、詠唱とともに雷撃が再び奔る。キースがそれを迎え撃つように、黒い炎を放った。雷と炎。光と闇が、広間の空気を切り裂き、激しく衝突する。
「リアムなんて、レジナルドにふさわしくない!」
怒りと嫉妬に満ちたディマスの叫びが、空間を震わせた。
「レジナルドが本当に愛すべきは、この私だッ!」
その目が、燃えるような憎悪を湛えて俺を射抜いた。
「……僕は、レジナルド先輩に興味なんかない」
呟いた俺の言葉に、ディマスは狂ったように笑い出した。
「ふざけるな……お前が来てから、すべてが変わった!あの方の目は、私ではなく、お前ばかりを……!」
「それは……」
否定したいのに、言葉が出てこない。あの想いは、俺にではなく“前のリアム”に向けられたもの。それでも、事実だけを見れば──俺が、レジナルドの目を奪ったように見える。
ディマスの叫びが続く。
「ふっ……君は本当に愚かだね」
キースが静かに口を開いた。
その瞬間、ディマスの掌にも──黒炎が灯る。
……まさか、ディマスまで。
「君のような歪んだ愛に、誰が応えると思う?」
「……黙れ……!」
怒りに満ちたディマスが闇を爆ぜさせるが、キースはまったく怯まない。
「僕は、リアムを脅かすものを──必ず排除する」
その声に込められた“所有”の響きに、俺の心がざわめいた。
「うるさい、うるさい、うるさい‼︎」
ディマスの絶叫が響き渡る。黒い炎が襲いかかるが、キースの一振りでそれは掻き消される。
「リアム、僕の後ろにいて」
俺は一歩踏み出そうとするが、闇の圧に阻まれ、動けない。ただ、その背中を見つめるしかできなかった。
「──これが最後の警告だ」
キースの言葉に、ディマスは狂気にまみれた瞳で叫ぶ。
「お前らさえいなければ、レジナルドは──ッ!」
「……やはり、選ばせるべきじゃなかったな」
低く響いたその声と共に、広間が闇に飲まれていく。
「兄様、やめて‼︎」
俺の叫びに、キースが一瞬だけ振り返る。その目には、悲しみと、どうしようもない覚悟が滲んでいた。
「……僕が手を汚さなければ、リアムを守ることはできない」
かすかに微笑み、闇を操るその姿は──誰よりも優しく、そして、誰よりも孤独だった。
ディマスの叫びが空気を裂いた後、すべての気配が沈黙した。
広間に残ったのは、焼け焦げた床の痕だけ。そして、キースはその場に膝をつき、荒く息を吐いていた。
「兄様……」
震える声で名を呼ぶ。キースの肩が微かに揺れた。
「……君を守るためなら、僕は……どんな代償でも払うよ」
──その想いが、誰かを傷つけるものだったとしても。
俺はそっと手を伸ばした。
今にも崩れてしまいそうなその背中に、触れたくて仕方がなかった。
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