38、
ノエルの言葉に背中を押され、俺は意を決して部屋を出た。
話さなければならない。
このまま曖昧にしておくわけにはいかない。
「……兄様、リアムです」
部屋の前でノックをする。
けれど、中からの返答はない。
不安が胸に広がり、扉をそっと押し開けて中を覗く。
整えられた寝具、静まり返った空間、机の上に積まれた数冊の本。
けれど、その中にキースの姿はない。
「……どこに行ったんだろう?」
書斎か、それとも庭か。
そう思って屋敷中を探し回るが、どこにも見当たらない。
執務室も使用されておらず、温室も静まり返っていた。
ちょうどそのとき、廊下の角でアンと鉢合わせた。
「リアム様? どうなさったのですか?」
「兄様を知らない? ちょっと用があって」
「キース様ですか? キース様なら……先ほどお出かけになりましたよ」
「……出かけた?」
意外だった。
キースはいつも俺がどこへ行くにも付き添いたがるし、自分が出かけるときも必ず一言、報せてくれる。
今日に限って、それがないなんて――
「……どこに行ったか聞いてる?」
「いいえ、特には。ただ『急ぎの用事だ』とだけ仰っておりました」
急ぎの用事。
その響きに、心臓が少し跳ねた。
用事があるとしてもこんなことは初めてだ。
俺に何の言伝てもなく、なんて。
「リアム様?」
アンに呼ばれて我に返る。
「あ……うん。それならいいんだ。ありがとう」
俺がそう答えると、アンはほっとしたように微笑んで、足音も静かにその場を後にした。
※
自室に戻ると、ソファの上でノエルがだらしなく寝転がっていた。
「あれ? お兄? 早かったね?」
部屋には彼だけで、ナイジェルの姿は見当たらない。
俺はその向かいに腰を下ろし、静かに告げた。
「キースが、いなかった」
ノエルは驚きもせず、「へぇ」と軽く相槌を打つ。
「ま、一人で出かけたいこともあるんじゃないの?」
「……そう、だな……」
たしかに、キースにも彼自身の時間がある。
けれど、それでもなお、胸の中には釈然としないものが残る。
俺のことで、何かが起きてるんじゃないか──
誘拐事件、レジナルドとのやりとり、ディマスの存在……
頭の中に浮かぶ断片が絡まり合い、やがて不安という名の塊になってのしかかってくる。
「あー、またお兄が長考モードに入ってる」
すみませんね、考え過ぎる性格で!
心の中でノエルに毒づいたが、それを外に出す余裕もなく。
目の前のノエルは、お菓子をぽいぽいと口に運び続けていた。
そのとき、ノック音が響く。
「リアム様、失礼いたします」
扉の向こうに立っていたのは、再び姿を現したナイジェルだった。
「どうしたの?」
「実は……キース様が少し前、隣国のディマス殿下に会いに行かれました」
「ディマスに……?」
その名が口にされた瞬間、背筋がすうっと冷える。
あの男は、俺を攫い、害そうとした張本人だ。
キースがそんな相手に単身会いに行くなんて、ただ事ではない。
「……何のために?」
「詳細は不明ですが、近頃ディマス殿下が不穏な動きを見せているとの噂がございます。密貿易や、他国との非公式な取引に関与しているとも……。キース様が、それを牽制しに行かれたのかもしれません」
ナイジェルはそこで口を噤んだ。
もし、密貿易の問題が事実ならば、本来それに動くべきは父であって、兄ではないはずだ。
それでも彼は、自ら進んで単独で動いた。
……ならば、理由は一つしかない。
──俺だ。
思い出すのは、あのときのディマスの目だ。
冷たい笑みを浮かべ、俺を弄ぶように見下ろしていた、あの視線。
あれが嘘であるはずがない。あれは本物の、狂気だ。
それに、密貿易の件にしても、関与しているのがディマス本人とは限らない。
側近の暴走という可能性もある。
でも……それでも、キースが行ったのなら、それは俺のためだ。
そうとしか思えない。
「ナイジェル。馬を準備して。僕も行く」
「しかし、リアム様! キース様は、リアム様には安全な場所にいていただきたいと……!」
はあ……。そんな指示、いつの間に出したんだ、あの人は……。
「そんなの関係ない。僕が原因で何かが起きているなら、僕が止めるしかないだろ!」
言葉に強い意志を込めると、ナイジェルはしばし沈黙し、やがて小さく頷いた。
「私もついていくよ!」
ノエルが勢いよく身を乗り出す。
「……いや、お前はここにいて」
俺は首を横に振り、彼女の申し出を制した。
「二時間……、いや、三時間待っても僕からの連絡がなかったら……レジナルドに伝えてほしい」
この世界には携帯も連絡端末もない。
だが、魔術を使えば伝令を飛ばすことは可能だ。
俺には幸い、そのための魔力もある。
ノエルは不満げに唇を尖らせたが、それ以上は何も言わず、こくりと頷いた。
数十分後。
鞍の上に飛び乗り、馬の手綱を取る。
「キース……一体、何を考えてるんだ?」
頬を冷たい風が撫でる。
耳に響くのは、馬の蹄が地を打つ重たい音だけ。
胸の奥に残るざわめきが、静寂の中で鋭く脈打っていた。
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