アンドレイの手紙 その二
夜、酵母の仕込みを終わらせたあと、ミハイルは二階に上がって寝室に向かう。
オリガは寝台の背もたれに体を預け、本を読んでいた。
「どうしたんだ、それ?」
「借りたんだ」
「へえ、なんの本?」
「恋愛もの」
意外だった。なんでも、村の婦人の間で流行っているらしい。
「高貴な身分の女性が、使用人と道ならぬ恋に落ちて……」
「最後は結ばれる?」
「か、どうかを読んでいる」
ミハイルは寝転がってぼやく。
「お貴族様の身分社会はえげつないからなあ」
「そうなのか?」
「上流階級、中流階級、労働者階級、きれいに分かれていて、価値観はまったく異なっている。一時期の恋の熱に浮かされて、自分よりも下の階級の人と結婚なんかしたら、苦労に苦労を重ねることになるんだよ」
森の暮らしはいいと呟く。
「皆、平等に恵みを受けられる。誰が上で、誰が下だということもない。頑張ったら、頑張っただけ報われる」
「頑張っても無駄に終わる世界もあるのだな」
「ある」
それが貴族だ。
ミハイルは伯父のもとで数ヶ月暮らすだけで、ウンザリしてしまった。
「もう、都には行きたくねえ。でも、よくよく考えたら、世話になった人……パン屋の親父さんに金を返したいし、無事か確認もしたい」
「そうか、ミーシャが働いていたパン屋もあるんだったな」
「でも、内戦があったっていうから、今もあるかどうか」
オリガは本を閉じ、寝台近くに置いている円卓の上に置いて、ミハイルに寄りそうように横たわる。
「オーリは、行きたいんだよな?」
「ミーシャが行きたくないというのならば、それに従うが」
「う~~ん」
都の状態も分からない。まだ、反乱組織の残党が残っているのならば、危険だろう。
「都には、クマやトラよりも恐ろしい存在がいるのか?」
「ある意味、クマやトラよりも、人のほうが怖いかもな」
じっと、ミハイルはオリガの顔を覗き込む。
「なんだ?」
「あ、いや、オーリは街で目立ちそうだなって」
頬にかかっている金の髪を、ひと房手に取る。
都には、オリガのように綺麗な金髪を持つ者はほとんどいない。
「この前商人が鬘についてどうこう言っていたが、あれを被って変装するのもいいかもしれねえな」
貴族の間でオシャレ用の鬘が売れているらしく、髪の毛の買い取りをしたいと言ってきたのだ。
オリガは美しい金色の髪なので高価で買い取ると交渉してきたが、ミハイルが大反対した。
「オーリの背丈くらいあったら、男の恰好をして」
「ミーシャが女性の恰好を?」
「なんでそうなる!」
オリガくらいの背丈の男はいるが、ミハイルくらいの背丈の女はいないので却って目立ってしまう。
「変装についても、薬師のじーさんに聞かないとな」
「ああ」
明日辺り、家に招こう。一緒に食事をして、そのあとに話せばいい。
ミハイルは欠伸をしながら提案する。
「スープ作って、ウサギのパイを焼いて、あとは――」
「お菓子は?」
「う~~ん、メレンゲ焼きでも作るか」
眠たくなってきたので、角灯の明かりを消す。部屋の中は闇に包まれた。
布団を深く被って瞼を閉じたら、くいくいと上着を引かれる。
「ミーシャ」
「なんだ?」
「おやすみのキスは?」
「は!?」
まるで、いつもの勤めを果たしていないかのような口ぶりであった。
初めて聞く要求に、ミハイルは目が点となる。
「なんだよ、突然」
「他の家では、おやすみのキスがあると聞いたから」
「他所は他所、うちはうち」
なんだか照れてしまい、そんな言葉を返してしまう。
「嫌なのか?」
「いや、嫌じゃねえけど」
「だったら」
暗闇の中、キスを要求される。
ミハイルは明るい場所でするよりはマシかと、上半身を起こす。
手探りで、オリガの頬を探した。
「ミーシャ、それは首」
「もう少し上か」
指先を重ねてそっと移動される。頬かと思ったら、唇だった。
「……間違った」
「そこ以外、どこにする?」
「頬かおでこかと」
オリガは沈黙する。どうやら、唇にして欲しかったらしい。
「あの、オーリさん?」
「まさか、子供だましのおやすみのキスだったとは」
「っていうか、俺、おやすみのキスとかされたことねえし」
「ミーシャ、そうだったのか」
「ああ」
ミハイルの母親は夜不在だった。いつも、冷たい寝台の中独りで眠っていた。オリガ以外の誰かと眠った記憶はない。
「だったら、私がしてあげなきゃ……」
オリガも起き上がり左手でミハイルの頬に触れた。右手は、前髪を優しくかき上げる。
少しくすぐったくて、目を閉じた。
「おやすみなさい、ミーシャ」
「ああ、オーリも、おやすみ」
このように、おやすみを言える相手がいることを、ミハイルは改めて幸せだと思う。
オリガはそっとミハイルに近付いてキスをした。
「え、結局唇にするん……うわっと!」
そのまま、ミハイルは押し倒される。
「な、なんだよ」
圧しかかったまま、じっと見つめられているようなので、質問してみる。
「ミーシャのおやすみのキスは?」
「それって、互いにし合うもんなの!?」
「そうだ」
「いや、そんなわけないだろ!」
「嫌なのか?」
「べ、別に、嫌じゃねえけど!!」
主に恥ずかしいという理由で、躊躇っているのだ。
こうなったら期待に添わなければならない。ミハイルはオリガの頬を両手で包み込む。
「よし、行くぞ!」
「なんか違うような気もするが……いいか」
ミハイルは気合と共に、オリガにキスをした。
甘い雰囲気はゼロであったが、初めてのおやみのキスだったので、許してもらった。




