番外編 とある遊牧民の青年の、異国人観察日記
四季とともに遊牧する我らが部族は、冬から春は南へ行き、春から秋にかけては、北に移動する。
夏営地として選ばれるのは、針葉樹林の森である。
冬は厳しい寒さで、草を食み、温暖な気候を好む我らが家畜は生きていけない。
しかし、夏の時季は、豊かな緑が広がって、低温で少湿という、過ごしやすい地となる。
今日も女と子ども達は森に行き、ベリーを摘んできた。
これらは、ジャムや酒に加工される。貴重な保存食となるのだ。
牧草地を求めて移動する遊牧民の暮らしに、安寧を求めてはいけない。常に警戒し、万事に備えるのだ。
そう言われて育って来た。しかし、ラゥ・ハオ様――部族長に代替わりしてからは、ごくごく平和な日々を過ごしている。
他の部族は遊牧民同士の諍いごとや、商会との取引などで頭を痛めているらしいが、我らはそんな苦労などないに等しい。ラゥ・ハオ様が、円滑に、周囲と問題が起きないよう、取り計らうからだ。
十年前――弱冠十八歳で部族長に選ばれただけあって、部族長はかなり切れる。ニコニコしていて何も考えていないようで、頭の中ではさまざまなことを画策し、我らを良き道へ導いているのだ。
しかし、それを続けることはかなりの重圧なのか、部族長は不眠症を患っている。
どうにか救って差し上げたいが――。
そんな中で、我が部族に客人を迎えることになった。
驢馬を従え、我が部族の遊牧地にやって来たのは、オレーク・エゴロヴィチ・ウヴァーロフ。
青星の村の薬師らしい。ある者からの手紙を届けるために、やって来たと言う。
手紙の主は、ミハイル・イヴァーノヴィチ・リューリク。
族長の長年の友人、オリガ・アンドレーエヴナ・グラトコヴァの夫である。
大変な事態に巻き込まれているようで、すぐに、部族の男達を率いて、青星の村のほうへ向かった。
不在中、部族長より異国人の監視を命じられる。相手は一応、味方であるが、万が一を考えて、とのこと。
オレーク・エゴロヴィチ・ウヴァーロフは、うちの部族長よりも切れ者であるということがわかる。詳しくはないが、ウヴァーロフ家というのも、あまり良い噂を聞かない貴族であった。警戒するのも無理はない。
オレーク・エゴロヴィチ・ウヴァーロフ――薬師殿は、まず、子ども達を陥落させた。
都で語り継がれている童話を、聞かせていたようだ。
女達は子守をしなくてもいいと、喜んでいた。
続いて、腰を悪くした老人を診たり、妊婦の出産に立ち会ったりと、医者顔負けの診療を行ってくれた。
おそらく、都では医者をしていたのだろう。薬師と名乗るとは、なんとも謙虚である。
と、このように、薬師殿はあっという間に部族に溶け込んだ。
翌日。部族長は戻って来た。
オリガ・アンドレーエヴナ・グラトコヴァとミハイル・イヴァーノヴィチ・リューリクを連れて。
どうやら、しばらくの間、彼らを匿うつもりらしい。
客人のおかげで、部族内は活気づいている。いいことだろう。
しかし、部族長は、友人である夫婦の見張りも命じてきた。なんとも慎重な御方だ。
私は部族長に、不眠症について、薬師殿に相談してみたらどうかと進言してみた。しかし、良い顔はしなかった。
自尊心というものが、邪魔をしているのだろう。
しかし、部族長にはこの先も我らを率いてもらわなければならない。不眠症などで、命を削ってはいけないのだ。
部族長がただの男ならば、ここまでしつこく言うこともなかっただろう。しかし、まだ、次代の跡取りは幼い。
まだまだ生きていてもらわなければ、我らは困ってしまう。
想いが伝わったのか、薬師殿の診断を受けに行ってくれた。
薬師殿の診断を受けに行った部族長は、ポカンとした顔で戻ってくる。
なんと、治療法は驚くべきものだった。
不眠症の治療法――それは、眠る前に腹式呼吸をすることである。
なんでも、寝たままの状態で腹の上で手を組み、息を吸って、ゆっくり吐くだけ。これだけで、眠れるようになると。
薬師殿曰く、息を吸う時に横隔膜が伸びて、吐いた時に緩む。これが、交感神経――活動している時に働く神経の優位の状態から、副交感神経――眠っている時に働く神経が優位になる方法らしい。
この状態になると、眠ることができるのだとか。
信じがたい話であるが、とりあえず試すことになったらしい。
翌日。
族長に叩き起こされる。なんと、昨晩は久々にゆっくりと眠れたようだ。薬師殿の言っていたことは本当だったのである。
予想以上の効果があったので、驚いた。それは、族長も同じだった模様。
薬師殿には感謝しかない。
一方、青星の村の夫婦は、遊牧民の暮らしに戸惑いつつも、なんとか馴染んでいる模様。
ミハイル・イヴァーノヴィチ・リューリク――黒髪に青い目を持つ見目麗しい青年。一見して高貴な雰囲気があるものの、喋ると親しみやすいという、都の自尊心だけ高い紳士とはまったく違う存在であった。
元パン職人で、我らに蒸しパンをという、おいしいパンの作り方を教えてくれた。
妻であるオリガ・アンドレーエヴナ・グラトコヴァは、素晴らしい猟師である。
夏季に針葉樹林の森で狩猟をしないということを誓う代わりに、罠の作り方や、獲物の仕留め方、解体についてなど、伝授してくれた。
これで、冬の間は肉に困らないだろう。
彼女もまた、夫同様に高貴な雰囲気があり、とても美しかった。
近寄りがたい美貌である。その印象は、喋っても同じ。
針葉樹林の森に生息するトラのような、こちらが触れてはいけない存在であることは、ひしひしと感じる。
なので、部族の男達は、誰も下心を抱かなかった。
夫であるミハイル・イヴァーノヴィチ・リューリクから聞いたことであったが、他の地では『猛虎』と呼ばれているらしい。
トラのように美しい金の髪といい、鋭い目付きといい、ぴったりな二つ名だと思った。
長年、部族長が懸想していたのも、頷ける。
彼女が妻となっていたら、どれだけ心強かったか。
相手は心を許さない猛虎なので、仕方がない。
しかし、そんなオリガ・アンドレーエヴナ・グラトコヴァも、夫の前だとただの猫になってしまうようだ。
キリリとしていた青い目は、ミハイル・イヴァーノヴィチ・リューリクの前ではとろけるような甘い色彩を滲ませている。
間違いなく、女の顔をしていた。
猛虎を手懐けるミハイル・イヴァーノヴィチ・リューリクとはいったい……。
どのようにして陥落させたのか、気になって仕方がなかった。
このように、客人達は我らに大いなる益をもたしてくれた。
彼らと過ごした二ヶ月間はあっという間に過ぎていった。
叶うならば、来年の夏も会いたいと思う。




