シャルロッテ王女
ミハイルはパン教室のあと、薬師やオリガのために蒸しパンを作った。
先ほどと同じものでは味気ないので、砂糖の代わりに蜂蜜を入れてみた。
子どものようなキラキラした目で、蒸す鍋を見ている薬師に、ミハイルは話しかけた。
「なあ、じいさん。俺、オリガが異国のお姫様だということを、伝えたほうがいいと思うんだ」
漂う湯気で眼鏡を真っ白にしたまま、薬師は言葉を返す。
「そうですね。私も、そう思います」
針葉樹林の森で、ミハイルと二人仲良く暮らすだけならば、何も問題なかった。
だが、状況は一変する。村を出入りしていた商人の手引きで、居場所がバレてしまった。
「お話したほうが、いいでしょう」
知っていることでできる用心もある。それからもう一点、薬師より驚きの情報がもたらされた。
「先日保護した貴族様なのですが、どうやら、同盟国の方みたいで」
「え!?」
収容所から逃走した者達は、オリガと同郷の異国人であった。
ユスーポフ公爵家に手を貸していると思われていたようで、収容されていたらしい。
「事実無根らしいですよ。酷い話ですね」
長年、大使として都に身を置き、二つの国の友好のために働いていたのに、この仕打ちである。
「実を言えば、その同盟国も内乱があり、国民が革命を起こして、絶対王政と封健制度が崩壊してしまったようです」
オリガの祖国も、この国と似たような状況だった。
「私も黙っていようかと思っていたのですが、大使一家が故郷に帰りたいと言いだして……」
ラゥ・ハオには伝手があったので、大使一家の願いを叶えようとしていた。そこで、薬師は待ったをかけたのである。
「その判断が正解だったかは、今もわかりませんが」
今、帰ったら、貴族である大使一家は確実に処刑される。
それらの話を聞いた大使一家は気落ちして、ラゥ・ハオが与えた家屋から出て来ず、引きこもっていた。
「そっか。だから、昨日の宴にもいなかったんだな」
「はい」
大使一家にオリガの出生がバレたら、大変な事態となる。その点は、注意しなければならない。
と、ここで、オリガが戻って来た。
簡易かまどの前に寄り添って座る二人を見て、ぽつりとオリガは呟く。
「……仲良しだな」
ミハイルは慌てて薬師から離れた。
「そんな、ミーシャさん、私のことは遊びだったんですね……」
「じいさん、何言ってんだ! 俺はオリガだけが本命だ!」
「だ、そうですよ」
薬師は笑顔でオリガに話しかけていた。
三人で朝のスープの残りと、蜂蜜蒸しパンを食べる。
「わあ、これは老人の歯には優しい柔らかさですね。フワフワで、美味しいです」
「昨日、羊の骨に齧りついていた奴の発言とは思えんな」
薬師は美味しいと言い、嬉しそうに頬張っている。
「確かに、これは美味い」
オリガも大絶賛してくれた。
最初に蒸したものよりも、ふっくら柔らかに仕上がっていた。生地はしっとりモチモチしていて、蜂蜜の甘さがちょうどいい。
コクのある羊の乳のスープとも良く合う。
「蜂蜜でしたら、健康にもいいですし、皆さんも喜ばれるかと」
「だな」
秋になると、蜂蜜市が至る場所で開催される。それに参加したのちに、ラゥ・ハオ達は南へ移動するのだとか。
「蜂蜜市か~」
「この辺の蜂蜜市は大がかりなんですよ。都のものは目じゃないです」
黒星の村で行われるものは、自由市の倍以上の規模で開催される。
「蜂蜜の飴に、蜂蜜酒、あ、そうそう。白星の村の、蜂蜜を練り込んだパンがもう、絶品で。毎年楽しみにしていました」
「うわ~~、行きたくなるじゃねえか」
しかし、今、村に戻るのは危険だろう。しばらくは、ラゥ・ハオの遊牧に付き合わなければならない。
「まあでも、国は崩壊寸前で、一年も保たないとは思いますよ」
「そっか」
だったら、そこまで気にすることでもない。
遊牧民の暮らしも、のんびりとしていて悪くない。ラゥ・ハオと同じく、明るい気性の者ばかりで、ミハイルとオリガのことを温かく迎えてくれた。
今は、村に帰ることを目標に、できることを頑張ればいい。
オリガと顔を見合わせ、互いに頷いた。
「あ、そうだ。オリガに、話をしなきゃいけないことがあって」
「どうした?」
薬師が急に真面目な顔つきになったので、オリガは身構えてしまう。
ミハイルはチラリと薬師を見た。
「はい、私から話しましょう」
居住まいを正した薬師の口から、オリガの出生の真実が語られた。
「今まで黙っていましたが――あなたは異国の姫君なのです」
「なん、だって?」
オリガのアイスブルーの目は、驚きで見開かれる。信じがたいといった表情であった。
これまでの経緯がわかりやすく、丁寧に薬師の口から紐解かれる。
悪政蔓延る国を崩壊に導くために、まだ一歳にも満たなかったシャルロッテ王女――オリガは誘拐されたこと。生まれ故郷は革命によって荒れ果て、親族たる王族は全員処刑されてしまったこと。
包み隠さず、すべてが語られた。
「あなたは、私を恨んでいい。事の発端は、すべて私にあります。アンドレイさん――養父を唆したのも、私です」
オリガは顔を押さえ、ぶんぶんと首を横に振る。
まだ、受け入れられない話なのだろう。
ミハイルは、オリガを抱きしめた。縋るように、強く抱き返される。
肩が震えていた。ショックが大きいのだろう。胸が締め付けられるような感覚に襲われる。
「オーリ、大丈夫だ」
耳元で囁く。
異国の王家の一員だったという事実は、簡単に理解できるものではない。
背中を撫でているうちに落ち着いたのか、オリガはミハイルから離れた。
目は赤くなっており、潤んでいる。痛々しい様子だった。
そんなオリガに、薬師は話しかける。
「たぶん、アンドレイが、針葉樹林の森で倒れていたミーシャさんのもとへ、オーリを導いてくれたんじゃないかと思っています」
「父上……」
薬師は話す。オリガを村に馴染ませるよう、一人前の狩人として育てながらも、王女としての気高さも失わないように育てていたと。
「アンドレイも心揺らいでいたのでしょう。あなたは、本当はたくさんの人に愛されるはずだった姫君なのに、こんな森の奥地で、隠れるように暮らすなんて。もしも、社交界に戻れることがあっても困らないように、礼儀なども叩き込んでいたようです」
誘拐されたことによって、オリガの人生は激変した。
苦労を知らないで育てられるはずだったシャルロッテ王女は、針葉樹林の森の中で、逞しく育った。
「だから、あなたは、私を恨んでも――」
「いいや、違う」
オリガは頭を振った。そして、迷いのない目を薬師に向けながら、話し始める。
「私は、ミーシャに出会うために、ここに来たのかもしれない」
ミハイルと過ごす毎日は、幸せで、豊かな日々だった。
「父は、私を本当の子のように、育ててくれた」
薬師や、その奥方は、祖父母のように優しく見守ってくれた。それが、監視の目だったとしても、慈愛に満ちたものだとオリガは感じていた。
「今の私が在るのは、育ててくれた皆のおかげだ」
もしも、誘拐されていなかった場合の人生を考えると、公爵家と皇家の血が流れるミハイルとは出会う機会もあったかもしれない。
「けれど、王族として育った私は、ミーシャに惹かれなかったと思う」
王宮の贅沢な暮らしを送る生活の中に慣れきったオリガでは、ミハイルの良さに気付かなかっただろうと。
「今、私は幸せだ。だから、誰も恨んでいない」
その言葉を発した瞬間、薬師の目じりから一筋の涙が零れる。
きっと、長年隠し事を胸に抱え込んでいたことを、重圧に思っていたのだろう。
薬師は赦された。それどころか、オリガは感謝すらしている。
「私は……」
「すまない。今は、あまりたくさんの言葉をかけられないだろう」
「ええ、わかっています。あなたの強さに、感謝をしなければ……なりませんね」
話が終わった途端に、外から声をかけられる。
男性の声だった。
「すみません、薬師様がここにいらっしゃると聞いたのですが!」
「はい、ここにいますよ」
訪れたのは、ラゥ・ハオに助けられた大使だった。
年頃は五十くらいで、酷くやせ細っている。憔悴しきった様子だった。
「どうかされたのですか?」
「いや、妻が錯乱していまして」
「ほう?」
「先ほど、湖のほうで、女王様を見たと言うのです」
大使の話に薬師は言葉を失う。
さきほど、オリガは湖の辺りで、遊牧民の男達に狩猟を教えていたのだ。
大使の妻が見た女王は、オリガだった。




