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タイガの森の狩り暮らし〜契約夫婦と東欧ごはん〜  作者: 江本マシメサ


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異変

 朝。野鳥のケーッ、ケーッという甲高い鳴き声で目を覚ます。緑星の村周辺に生息する鳥はアグレッシブな鳴き方をする。そんなことを思いながら、ミハイルは瞼を開いた。

 オリガは背中を向けて眠っていたが、ぴったりと密着している。寒いのか、体をぎゅっと丸くしていた。まるで猫のようだと、ミハイルは思う。

 窓からは太陽の光が差し込んでいた。枕の下に置いていた時計を見ると、時刻は七時過ぎ。いつもは五時過ぎには起きているので、ずいぶんとゆっくり眠っていたことが発覚する。

 しかし、施術院は休みである。のんびり過ごしていても、問題はない。

 隣で眠る猫のような女性を起こさないよう、ゆっくりと起き上がったら、もぞりとオリガは動き出す。寝返りを打ったその場がしっくりこないからか、むくりと起き上がる。うっすら開いた青い目と視線が合った。起きたかと思っていたが――今度はミハイルの膝を枕に寝始めた。


 ミハイルはふと、公爵家での暮らしを思い出す。

 屋敷には数匹の猫がいた。触れようと手を伸ばしたら避けられ、餌が欲しい時だけ甘い声で鳴く。膝の上を陣取って、立ち上がれなくなる時もあった。

 気まぐれで、美しく、可愛い猫。


 ミハイルの膝を枕にするオリガはすうすうと穏やかな寝息を立てて、起きそうにない。

 頭を撫でてやると、オリガの口元が孤を描く。手を止めたら、ぎゅっと眉間に皺が寄った。

 ミハイルは微笑みながら独りごちる。


「本当に猫かよ」


 実に平和な朝の出来事である。


 ◇◇◇


 オリガは十分後に目を覚ました。

 ミハイルを枕にしていたので、恥ずかしそうにしていた。


「すまない。まさか、そんなことをしていたとは……」


 可愛かったらいいよと言いかけて、口を閉ざす。危うく恥ずかしいことを口にしそうになった。


 二人は身支度を整えて、小屋の掃除をする。その後、チミールの妻アンヌが小屋までスープとパンを持って来てくれた。

 かぶと燻製肉のスープで、食材の旨みが溶け込んでいた。

 じっくりと煮込まれた蕪はホクホク。燻製肉の脂身はプルプルしていて、ほんのりと甘味がある。パンはかまどで温めてくれたからか、ふっくらほかほかだった。


 朝食後は、昨晩の猟の結果を報告する。

 解体されたシカ肉を見て、チミールは大喜びしていた。


「わあ、すごい! さすが、ミハイルさんとオリガさん!」


 小躍りしそうなほど喜ぶチミールに、ミハイルはシカ肉のおすそわけをする。

 二人では食べきれないので、家族で味わってほしいと手渡した。


「ありがとうございます。こんなに新鮮で良いお肉、自由市の時でしか食べられないので、嬉しいです」


 チミールが素直に受け取ってくれたので、ミハイルとオリガはホッとする。


「しかし、本当に素晴らしい」


 息がぴったりで、熟年夫婦のようだと言われてしまった。


「喜んでいいんだか、悪いんだか、わかんねえ」

「す、すみません。しかし、お二方を見ていると、夫婦二人で一人前になることを目指すと言っていた祖父母夫婦の話を思い出します」


 他人同士の夫婦が共に暮らし、生きることは難しいことである。

 自然と相手に期待し過ぎて、がっかりすることも多々ある。


「なので、夫婦は成長する子どもと同じといいますか、結婚一年目ならば、よちよちの赤ちゃん。十年目ならば、やんちゃ盛りの子ども、二十年目ならば、年若い大人。年を追うごとに、夫婦も成長していけばいいと、言っていました。祖父と祖母の、仲良しの秘訣だそうです」


 夫婦も日々成長する。二人で一つという考えのもと、相手にできないことを補い合い、暮らしていく。

 自分だけ頑張ろうとか、思ってはいけない。夫婦力を合わせて、日々の生活を送るのだ。


 その話は、ミハイルの心にも深く響いた。


 チミールはシカを退治してくれた礼として、妻アンヌ手作りの麦わら帽子をくれた。村の男の頭に合わせて作った物なので、かなり大きい。被ると、目元が隠れる。


「す、すみません。ぶかぶかでしたね」

「いや、手巾かなんか巻いて被ったら、ちょうどいいだろ」

「あ~、そうですね。蒸れると、抜け毛の原因になりますし」


 薄くなった頭部をさすりつつ、チミールは朗らかに言った。髪の毛が薄いことに関して、まったく気にしている様子はないようだ。


 ミハイルとオリガは、もらった麦わら帽子を被って帰る。


 今日は日差しが強いので商人から氷を買い、革袋に肉と共に詰めて待って帰ることになった。

 氷は報酬でもらった野菜と交換する。

 精算を終えると、氷売りの若い商人が話しかけて来た。


「旦那さんは、遊牧民出身ですかい?」

「そうだが、どうかしたのか?」

「いやあ、ちょっとですね、都のお貴族様から、黒髪に緑色の目をした少年を探しているという話を聞きましてね」


 ミハイルという都から逃げた貴族の少年に、懸賞金がかかっているらしい。都に出入りしている商人の間で、そんな話が広がっていると話す。


 話を聞いたオリガは一歩前に踏み出し、帽子を取ってジロリと商人を睨みつけた。


「私の夫が、何か問題でも?」

「あ、いいえ、この辺では珍しい黒髪だったものですから!」


 帽子から、わずかに黒髪が見えていたのだ。なので、商人は声をかけたと言う。

 幸い、深く被った麦わら帽子のおかげで、目元は見えていなかった。


「いや、まあ、捜しているのは少年ですし、旦那様は男性ですものね!」


 ここに来てから、ミハイルはぐっと背が伸びた。今はオリガより高くなっている。

 それに、豊かな食生活のおかげで、ガリガリの状態から、肉付きがよくなり、筋肉質にもなっていた。今はもう、少年のようには見えない。


 商人と別れたミハイルとオリガは、無言で村を通り過ぎ、預けていた馬に跨って家路に就く。


 帰り道も逃げるように馬を走らせ、森の並木道を駆けて行った。


 家に戻ると、馬を厩に連れて行き、褒美として角砂糖を与える。

 犬や他の家畜にも、餌を与えた。

 鶏小屋、犬小屋の掃除を黙々とこなし、卵を回収して、やっと家に入る。


 居間の長椅子に、ミハイルはどさりと体を預けるようにして座り込んだ。オリガも隣に腰かける。


 麦わら帽子を脱いで、噴き出た汗を手巾で拭う。

 労働の汗ではなく、焦りからの汗だった。

 震える声で、ミハイルはオリガに話しかける。


「……俺のことを、捜している奴がいる」

「みたいだな」


 それは、ミハイルを捕えた反乱軍なのか。それとも、母方の実家であるユスーポフ公爵家の者なのか。

 どちらにせよ、今の生活を邪魔する存在に違いはない。


「大丈夫だ、ミーシャ。ここは、迷いの森の村とも言われている。きっと、奴らは見つけられないだろう」


 五つの村の中でも、青星の村は特に森の深い場所にある。

 民家も木々に囲まれるようにして建てられているので、商人や旅人などが偶然発見できるものでもない。


「でも、出入りの商人が喋ってしまったら――」

「そう、だな」


 青星の村馴染の商人には、顔がバレている。

 一応、遊牧民だったと話したこともあったが、黒髪に緑目と特徴が同じなので、情報が漏らされたら確認しに来るかもしれない。


「もしも、ミーシャを連れて行こうとするものが現れたら、ライフル銃で蜂の巣のようにしてやる」


 強い目で、オリガは言った。それは、以前聞いたことがある話だった。


 ――ここは私の領域だ。敵意をもって、我が家に入って来た者は、絶対に許さん。それは、クマも、トラも、オオカミも、追っ手も、すべて等しく変わらない。見つけ次第、ライフルで蜂の巣にしてやる


 その時は、荒ぶるトラのような女だとしか思わなかった。でも今は違う。

 ミハイルはオリガを見て、首を横に振った。


「頼むから、俺のために人を手にかけないでくれ。オーリの手を、血で穢したくない」


 オリガは瞠目していた。ショックを受けているようにも見える。


「ならば、黙って、ミーシャが連れ去られるのを、見ておけというのか?」

「俺だって、ただで連れて行かれるつもりはねえよ」


 しかし、軍人が数名やってきたら――どうなるかわからない。


「母親の実家が捜しているならば、まだいい。いや、よくないか」


 ユスーポフ公爵家に捕まったとしても、待っているのは操り人形の皇帝になる道だ。

 収容所に連れて行かれるのと、辛い点ではそう変わらない。


「私も、ミーシャと一緒に行く」

「それはダメだ」


 一番恐ろしいのは、異国の王族の血を引いているオリガの出生の秘密がバレること。

 きっと、見る人が見たら、オリガの高貴な血筋に気付くだろう。それだけは避けたい。


 目を伏せていたら、オリガの膝にポタリ、ポタリと、水滴が落ちてきていた。

 顔を上げると、オリガは泣いていた。


「なっ、オーリ!」


 オリガは顔を両手で覆い、しゃくりあげながら喋る。


「私は、ミーシャがいなきゃ、生きて、行けない、のに……」


 ミハイルはオリガの肩を抱きしめる。背中をゆっくりと、やさしく撫でた。

 絶対大丈夫とは言えない。どうすればいいのか。

 考えても、答えは出てこなかった。


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