夜の緑星の村にて
畑に行く前に、薬師から教えてもらった小瓶に入った薬を体に付ける。
その様子を、作業から帰って来たチミールがしげしげと眺めていた。
「それはなんですか?」
「虫除けだよ」
成分は薄荷から抽出された精油に、消毒液と精製水を混ぜて作る。
殺虫効果の他に、防臭効果もあるので、森の散策にも最適だ。
今の時季、森の中は虫だらけ。戻ってきたら何ヵ所か刺されて痒い思いを何度もしていた。
薄荷は森で採れるし、消毒液や精製水は馴染の商人が按摩と交換で譲ってくれる。
実質、無料で作った品なのだ。
「へえ、いいですねえ~。私も、畑の虫には参っているのですよ」
先ほども虫にやられたようで、「ほら」と、刺された部位を見せられる。
患部は真っ赤になって腫れていた。
「私、昔から、敏感肌なんですよねえ」
「大変だな」
ミハイルは腰に付けた小型鞄より、瓶を取り出す。
「そちらは?」
「魚腥草から作った痒み止めだ」
これも、教えてもらった薬である。薬師の依頼で、森に自生していた魚腥草を採集する仕事を春にしていたのだ。
薬を作る手伝いもしたので、自然と覚えてしまった。
魚腥草の中にある葉緑素は皮膚の再生を行い、傷などを素早く治す。
虫刺されの他に、切り傷、擦り傷の他に、顔の吹き出物、水虫にも効果がある万能薬なのだ。
ミハイルは作った薬を指先に取り、チミールの赤くなっている患部に塗ってやった。
「ひゃああん!」
「だから、変な声出すなっての!」
「す、すみません、冷たかったもので」
痒み止めは薬師のもとに行ったら処方してもらえる。だが、忙しいチミールは行く暇がない。なので、少しだけわけてあげることにした。
「虫刺され薬もいただけるのでしょうか?」
「いや、これは作るのが面倒だから薬師のじいさんは作ってないらしい」
「ああ、そうですか。残念です」
まず、薄荷を蒸留釜に入れて、精油を作らなければならない。それが、面倒だと言って薬師は作らないのだ。
「だったら、薬師様のところに行っても、いただけないのですね」
しょんぼりしていたので、虫除けも半分わけてあげた。
「いや、そんな、悪いですよお、あ、この、タマネギでも」
「いい、いい。タマネギは家にたくさんある。もらっても、腐らせるだけだ」
「ですか~」
チミールは深々と頭を下げていた。
「在庫がたくさんあるのならば、喜んで交換を申し出るのですが」
「そんなに困っているのか?」
「ええ」
緑星の村の農家だけではない。牧場で働く黒星の村の酪農家や畜産家は家畜に近寄る虫に苦労している。他に、川や湖に行くために森を通る赤星の村の漁師や、配達でさまざまな村を行き来する白星の村の者など、どの村人も虫からの被害に苦労していた。
ここで、オリガは何か閃いたようで、ハッとする。
「どうした?」
「虫除けを作って、自由市で売るのはどうだろう」
「あ! いいな、それ」
夏季は毛皮が売れにくくなる。だが、虫除けや痒み止めの薬であれば、需要があるだろう。
店先には、薬師に認可証を書かせて掲示したら信憑性も増す。
チミールは跳び上がって喜んでいた。
「わあ、嬉しいなあ。だったら、私、いただいたお薬のお礼代わりに、みなさんに宣伝しておきますね」
「チミールのおっさん……ありがとう」
思いがけない需要が発覚した。次の自由市は一ヶ月後なので、のんびり準備をしていこうと、オリガと話して決める。
「オリガ、自由市ってどうやって参加するんだ?」
「確か、村長の家に行って、出店したいと頼みに行っていたような」
「ゲッ……」
村長、マカールとは和解したものの、いまだに打ち解けた仲ではない。
トラ挟みの一件があったので、仕方がない話であったが。
「そーいや村長、結婚したって言っていたな……」
「そうだったな。祝いの品を持って行かなければ……」
正直関わり合いになりたくないというのが本心である。
しかし、自由市の申し込みで行くのであれば、祝いのパンや酒の一つでも持って行かなければならない。
「まあ、仕方ないことだ。この先会わないわけにもいかねえしな」
その言葉に、オリガは頷く。
「どこかで、気持ちの整理を付けなければならなかった」
明日にでも、マカールの家に行こうという話になった。
話がいち段落したところで、チミールの案内で問題の現場に向かった。
夜の畑は一面まっくら。どこが畑で、どこが草むらかということでさえわからない。
虫の鳴き声に、さわさわと重なり合う木々の葉音、肌に触れるひやりとした風、土や草の濃い匂い。
真っ暗闇の中では、視覚以外の感覚しか機能していなかった。
「では、こちらに待機をしていただいて」
「わかった」
指定されたのは、低木が植えてある場所。ここならば、身を潜めやすい。
「一時間か二時間粘って、来ないようでしたら、戻ってください」
「いや、いい。いつものように、眠っていろ」
チミールは今までも猟師が戻るまで、健気に起きていたのだろう。しかし、オリガは首を横に振る。
「来たからには、一晩中かかってでも、仕留める」
「ですが」
「私が受けた仕事だ。好きにさせてもらう」
「わ、わかりました。では、よろしくお願いいたします」
チミールの家の敷地内には、繁忙期に雇った人を泊める小屋がある。そこを好きに使うように言って、申し訳なさそうに帰って行った。
「なんか、チミールのおっさん、人が良すぎて心配になる」
「素晴らしい美点でもあるが、欠点でもあるな」
その会話を最後に、オリガとミハイルは息を潜めて真っ暗闇の畑を見張る。
二時間。じっと待機していたが、獣の気配はない。
「くっしゅん!!」
「ミーシャ、大丈夫か?」
「ああ、悪ぃ」
今晩は特別肌寒い。昼間は暑かったので、ミハイルとオリガは薄着のまま来てしまっていた。
集中力も途切れたころだったので、しばし休憩を取る。
銃を下ろし、地面に尻をついて座った。
小腹も空いたので、持って来ていたサンドイッチを食べる。
寒いので、二人はくっついて座った。パンを食べながら、ミハイルはぼんやりと空を見上げた。すると、眠気が冷めるような、空いっぱいの星が広がっていた。
「わっ、すげえ、オーリ、空を見てみろよ!」
「ん?」
キラキラと夜空で瞬く星。手を伸ばせば届きそうなほどの、宝石のような美しい星空だった。
ミハイルの住んでいた都は工業地帯で、空はいつも曇っていた。なので、このような星空を見ることはできなかった。
隣で空を見上げるオリガも、星に見入っている。そして、ポツリと呟いた。
「本当に、綺麗……」
「なんだよ、初めて見たような言い方みてえだな」
「いや、星空なんて、初めて見た」
当たり前のようにある満天の星。これまでじっくり見ることなどなかったのだと話す。
けれど、改めて見てみたら、ハッとするほど美しい。
「今まで気付かなかったなんて……」
「ま、そんなもんだよな」
近くにあり過ぎると、美しさや本質に気付きにくい。
「なんかさ、ここに来てから俺もいろんなことに気付いたんだけど――」
まずは、母親について。
かつてのミハイルがパン作りをするしか生きる術を知らなかったように、母親も男を頼ることしか生きる術を知らなかった。教えてもらえなかったのだ。
「母親は強かだと決めつけていたけれど、違った。お嬢様育ちで苦労ということを知らなくて……きっと、弱い人だったんだと、思う」
公爵家はミハイルの母親を政治の駒として育てた。その結果なのだろう。
「まあでも、長年下町暮らしをして、俺を他所の男の金で育てたんだから、図々しいことにはかわらねえな」
「ミーシャ……」
オリガは切なげに、ミハイルの名を呼ぶ。
草むらに放り出した手に、指先を重ねてくれた。
互いの手は冷たくなっているのに、どうしてか温かな気持ちになる。
身を寄せ合って座っていたのでオリガのほうを見ると、顔がすぐ目の前にあった。
暗闇に紛れて二時間半。
夜の闇に目も慣れてくる。
じっと、オリガはミハイルを見ていた。
目が合った瞬間、そっと瞼を閉じる。
ミハイルはぐっと、オリガに身を寄せ、頬を包み込むように触れたが――ガサリと、草木をかき分ける音が鳴った。
オリガはカッと目を見開き、すぐに銃を手に取る。一気に戦闘態勢となったその様子は、猛虎そのものであった。
先ほどまでの甘い雰囲気は、一気に消え失せた。
ミハイルは、震える声で問いかける。
「シカか?」
「シカだ」
シカだった。
今度から不定期更新&お昼12時更新になりますm(__)m