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タイガの森の狩り暮らし〜契約夫婦と東欧ごはん〜  作者: 江本マシメサ


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主婦、オリガ

 朝――ミハイルは肌寒さを感じて目覚める。

 いつもオリガはくっついて眠っているのに、今日は壁際に寄り、背中を向けている。

 欠伸をしつつ首を傾げていたら、昨晩のことについて思い出す。


 ――オーリは本当、可愛いなあ


 自らの発言である。

 ミハイルは顔を真っ赤にさせながら、頭を抱え込んだ。


 基本、酔った時の記憶はしっかりと残っている。

 昨晩、もしも途中で眠っていなかったらどうなっていたのか。

 酔った勢いでオリガを押し倒すことなど、あってはならないこと。

 一人前になってからきちんと求婚してと、ミハイルの中では順番が決まっていた。

 なので、その日まで我慢である。


 オリガはたぶん、怒っているのだろう。

 ミハイルは向けられた背中に、一人平伏した。


 朝食はブルヌイと、先日購入した黒いイクラを塩分少なめに漬けたもの。

 今日は手の平よりも大きなブルヌイを焼いた。それを二枚重ねて上からスメタナをかけ、黒いイクラを載せて、庭に生えていたディルを添える。

 昨日の残りのスープも温めて、深皿に装った。

 ここで、家畜の世話をしていたオリガが台所兼食堂に戻って来る。


「おはよう、オリガ」

「おはようございます」


 オリガはなぜか敬語だった。ミハイルは緊張から、背筋がピンと伸びる。

 朝食を見たオリガは、「美味しそうですね」と呟く。

 いつも通りの会話なのに――敬語である。

 気まずかった。このまま一日過ごすのは辛いので、昨晩のことを早々に謝る。


「オリガ、昨日はすまなかった」

「……」


 しようもない冗談を言う薬師に向けるような、冷ややかなオリガの視線がミハイルに突き刺さる。

 慌てて弁解を始めた。


「あ、いや、昨日のは、酔った勢いとかじゃなくって、普段からしたいと考えていたことで……。ああいうの、誰にでもしたいというわけでもないし、軽い気持ちでしたわけじゃねえから。か、可愛いとかも、嘘じゃねえし……って、何言ってんだ!」


 しどろもどろと、昨晩の行動の説明をしていたが、羞恥心が高まってその場に蹲る。


 今はまだ、一人前ではない。

 生活に慣れて、しっかりオリガとの暮らしを支えられるようになったらきちんとしたい。と、今思う、素直な気持ちを伝えた。


「わかった。その日まで、待っている……」


 オリガの寛大な返答を聞いて、ミハイルは立ち直ることができた。


 なんとかわかってもらえた。

 ミハイルは額の汗をテーブルにあった手巾で拭う。


「だが、ミーシャ。一つだけ、願いがある」

「なんだ?」


 ミハイルは乾いた喉を潤すために、搾りたての牛乳を飲みながらオリガの話を聞く。


「私のことは、普段からオーリと呼んでほしい」


 想定外のお願いに、ミハイルは動揺して口の中の牛乳を噴き出しそうになる。

 なんとか飲み込んで、息を吐く。


「いつ、呼んでくれるのかなと思っていた」

「や、それは……」

「呼ぶのが嫌なのかと」

「嫌じゃない!」


 きっぱりと否定する。

 オリガのことをオーリと呼ばなかった理由は、照れくさかったからの一言である。


「だったら――」


 ちらりと、期待の眼差しが向けられた。

 オリガのために、覚悟を決めなければならない。恥ずかしいとか照れるとか、思っている場合ではなかった。

 ミハイルは大きく息を吸い込んで、吐く。

 腹を括り、オリガの名を呼んだ。


「……オーリ、冷めないうちに、食え」


 そう言うと、オリガは花が綻ぶような、美しい笑みを浮かべる。

 こんなにも喜んでくれるのならば、もっと早くから呼んであげればよかったと思う。


 今度からは照れないできちんと気持ちを伝えていこう。

 ミハイルは決意を固めたのだった。


 ◇◇◇


 ミハイルは犬と馬の散歩に出かけた。

 本日も、朝からパンを焼き、スープを作っている。仕事の早さにはいつも感心しきりであった。


 一人家に残ったオリガは、張り切って台所に立っていた。これから保存食作りを行うのだ。


 まず、キャベツの(クヴァーシナヤ)発酵漬け(カプースタ)から。

 これは、食卓にはなくてはならないものだ。スープの風味付けと具にも使う。

 今までは瓶にキャベツ、ニンジン、酢、塩、砂糖を入れて漬けるという作り方で、酸味が弱く食感のない残念なものだった。薬師の奥方が作っていた発酵漬けはもっと酸味があって、キャベツにも歯ごたえがあったのに、どうしてこうなったのかと首を捻るばかりある。

 もっと美味しくするのはどうすればいいのか。

 その答えは『気まぐれ猫』の女性達が教えてくれた。


 オリガの作り方――正確には父親のレシピだが――は大いに間違っていた。


 まず、野菜を漬ける汁は別に作らなければならない。

 熱湯と砂糖、塩、酢を鍋に入れてひと煮立ちさせて、冷ます。


 このひと手間が大事だった。


 キャベツとニンジンは味が染み込みやすいよう、千切りにして混ぜ、煮沸消毒した瓶に詰める。

 最後に、漬け汁を入れて、瓶の蓋を密封せずに常温で保管。二、三日したら食べられる。

 乳白発酵が進み、白くなってきたら保冷庫で保管しなければならない。

 まったく今までのレシピとは違った。

 オリガは煮沸消毒すら知らなかった。洗うだけではダメだった事実を知る。基本的なことすら知らず、深く落ち込んだ。しかし、『気まぐれ猫』の奥方達は仕方がないと励ましてくれた。これらの技術は母から娘へと教わるものである。父子家庭で育ったオリガは知らなくて当たり前だったらしい。


 今回、婦人会の女性達はオリガを温かく迎え入れてくれた。

 結婚生活の戸惑いなどを吐露すると、よくある話だと誰もが頷いていた。それを聞いて、安堵する。女性として不完全だからこういうことを感じるのだと、思い込んでいたのだ。

 たくさん話を聞いた。どれも、生活に役立つことばかりで、勉強になる。

 家の中で何をしたらいいかわからないオリガであったが、少しずつやるべきことを学んだ。


 トラ挟みによる怪我は快方に向かい、一ヶ月経ったころには痛みなどもなくなっていた。

 傷痕は残った。けれど、足の甲なので気にしていない。

 本人よりも、ミハイルのほうが気にしていた。

 怒りは一ヶ月経っても変わらないようで、たまにオリガの足をじっと見ては、怖い顔をしている。


 『輝ける黄金のトラを射止める会』は『キタキツネの会』の抗議を受け入れ、罠の設置場所を森の地図に書き込んだものを全家庭に配って歩いた。

 オリガの家にはマカールが直接持って来た。

 ミハイルとの仲は険悪で、受け取る時は一触即発な雰囲気だった。


 地図によれば、もう一ヵ所、オリガの狩猟区域に罠が設置してあることが発覚する。


 それから半月後、オリガの怪我が完治したので、二人で森に出かける。

 森の中で薬草や香草、キノコを採集した。二時間ほどで籠の中がいっぱいになった。


 お昼時になり、森の中で食事を取る。

 今日、作ったのはキャベツの発酵漬けとハムのパン挟み。


「あの、ミーシャ、中の発酵漬けは、新しいレシピで作ったものなんだ」

「へえ、そうなんだ」


 本日の弁当はオリガが作った。

 さっそく、先日作ったキャベツの発酵漬けを使ってみたのだ。

 ミハイルがパンを頬張るのを、オリガはドキドキしながら見守る。

 もぐもぐと咀嚼し、たくさん口の中に詰め込み過ぎて喉に詰まったのか、胸をドンドンと叩いていた。

 オリガは慌てて茶の入った水筒を差し出す。

 ごくごくと飲んでいる間、ミハイルの背中を優しく撫でた。


「ぷはっ。オーリ、ありがとう」

「一気に詰め込むから」

「いや、なんか美味そうで、つい……」


 味はどうだったのか。オリガはじっとミハイルを見つめ、反応を求める。


「あ、これ、キャベツとニンジンがシャキシャキしていて、ほど良い酸味があって、すげー美味かった」

「そうか……よかった」


 キャベツの発酵漬けは大成功だった。

 他にもいろんな料理を習ったので、挑戦してみたい。オリガはもっと、ミハイルに喜んでほしいと考えていた。


 さわさわと木々の葉が揺れる。

 吹く風は暖かい。すっかり、針葉樹林(タイガ)の森は春一色であった。


 吸い込む空気も美味しい。

 暖かな季節を謳歌する。


 食後、のんびりしていると、ミハイルがぼそりと呟くように言った。


「そーいや、この近くにもトラ挟みがあるって書いてあったな」

「そういえば」


 一応、場所を把握しておいたほうがいいのではという話になった。

 ミハイルはだんだんと怒りの形相を浮かべ、大股で森を進む。

 まだ、マカールのことを許していない様子だった。


「クソ、なんか、腹立つから、トラ挟みに木の枝かなんか挟めて、罠を発動させてやる!」

「しかし、それは――」

「いいだろ、これくらい」


 罠の設置場所に近付いていると、どこからか叫び声が聞こえる。

 気のせいかと思い、耳を澄ませた。


「ん……?」

「オーリ、どうかしたか?」

「いや、誰かの声が……」


 木々が複雑に生い茂った斜面を下りると、ごつごつした岩場になり、崖のように段々になっている。

 そこから、声が聞こえてきていた。


「おーい、おーーい、誰かいないか!!」


 男の声である。

 オリガとミハイルは顔を見合わせて頷く。

 歩調を合わせて岩場に近付き、同時に男の姿を覗き込む。


 岩場の一段下がった場所にいたのは、左足がトラ挟みにかかってしまった村長、マカールであった。


 焦った表情で、助けを求めていた。


 再度、オリガとミハイルは顔を見合わせる。

 鏡に映ったかのように、二人は険しい顔をしていた。


「オリガ・アンドレーエヴナ、ミハイル・イヴァーノヴィチ!」


 マカールは夫婦の姿に気付き、助けろと手を差し出す。


「わ、罠の場所をきちんと把握していなくて、かかってしまった。外そうとしたが、外れん。助けてくれ!」


 ミハイルは真顔でオリガに問いかける。


「おい、オーリ。どうする?」

「どうしようか?」


 夫婦はもがくマカールを、ただただじっと見下ろしていた。


「私は以前、罠にかかって、とても痛かった」

「……」

「しかも、クマに襲われている最中だったから、絶望した。死ぬかと思った」

「……」

「さて、どうしたものか」

「そ、それは、お、俺の仕かけた罠じゃない!!」


 ミハイルは「そういう問題ではない」とマカールの主張を切って捨てた。


「俺はどうしても、気が収まらねえ。だから、助けなくてもいいな」


 夫婦は見つめ合い、頷く。

 それから、踵を返した。


「おい、馬鹿、何言っているんだ!! 助けろと言っているだろう!?」


 ミハイルとオリガは、サクサクと来た道を進んで行く。


「助けてくれ!」


 ガチャガチャともがきながら叫んでいる。


「助けてください!」


 言葉は丁寧になったが、誠意は伝わってこない。


「頼む! 助けてくれ! 頼むから!」


 最後は悲鳴のような叫びであった。

 ミハイルは怒りの形相のまま、ピクリとも反応を示さない。


「オリガ・アンドレーエヴナ、すまなかった!! 本当に、申し訳ないと思っている!! ミハイル・イヴァーノヴィチも、申し訳なかった!! 今までのことは、すべて俺が悪い!! ずっと、羨ましかったんだ!! もう、お前の大切な存在(もの)は狙わない!! 近いうちに身を固める、から……。それから、トラ挟みも、すべて撤去する。約束だ。だから、だから――」


 誠心誠意の謝罪を耳にしたミハイルは、やっと歩みを止めた。

 それからオリガのほうを真っすぐに見る。


「なあ、あいつ、助けてもいいか?」


 オリガは頷く。

 最初から、見捨てるつもりなどなかったのだ。


 こうして、マカールはミハイルの手によって、救出された。

 自身の行いを反省し、何度もオリガに謝っていた。ミハイルにも同様に。

 その後、森全体のトラ挟みは回収される。


 やっと、針葉樹林(タイガ)の森だけでなく、村にも平穏が訪れたのだった。


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