春のクマと、夫婦の攻防
クマに生きたまま肉を引きちぎられ、血を啜られ、激しく殴打される。
世にも恐ろしい光景が、目の前で繰り広げられていた。
クマの大きさは成人男性ほど。個体としては、そこまで大きくない。しかし、鋭い牙や骨をも砕く顎、毛皮を一撃で裂く爪など、脅威はいくつも有していた。
イノシシの体は瞬く間に貪り、蹂躙されていく。体の三分の一、腹部から後ろ脚にかけて食べられていたが、それでも生きていた。
抵抗はだんだんと弱まるが、毛皮が裂かれ、露出していた筋肉がビクリ、ビクリと震えていた。
これらは決して、他人事ではない。草木の陰に隠れるミハイルは思う。
もしも、今からの銃撃が失敗すれば、自分達もあのように、嬲られながら食べられてしまう。
ドッ、ドッ、ドッと、心臓が嫌な鼓動を立てていた。
毛穴という毛穴から、汗が噴き出している。
もう、どこが震えているか、わからない。感覚も、鈍くなっていた。
けれど、ただただイノシシが蹂躙されている場面を見続けているわけにはいかない。
戦わなければ。けれど、ひたすら恐ろしかった。
そんな中で、オリガは低い声で作戦を囁く。
「先に、ミーシャが撃て。次に、私が撃つ」
オリガはなるべく物音を立てないように、射撃準備を行う。
「ミーシャ、大丈夫か?」
ぜんぜん大丈夫ではない。けれど、オリガの震える指先を見て、我に返る。
冷静に見えるオリガも、ミハイルと同じく怖いのだ。なのに、果敢に挑もうとしている。
自分もしっかりしなければと、背中にあった散弾銃を手に取り、すぐに撃てるよう一発目を装填する。先台を操作するカチャリという音が、妙に大きく感じられて、胸がドクンと激しく鼓動を打った。
姿勢は片膝を突き、立てた膝に肘を置いて銃を構える。すぐに動けるよう、尻は地面に付けない。
クマまでの距離は、十メートルあるかないか。
指先だけではなく、膝も震えていた。銃身がぶれているのがわかる。
腹を括らなければ。わかっているのに、銃を向けた先にある惨状が壮絶で、恐怖を覚えてしまう。
横にいたオリガは低い声で言う。
「撃ったら、銃を捨てて走れ。全力で、だ」
「え?」
「クマはすぐには死なない。銃が当たったとしても、こちらへ迫って来るだろう」
ここで、罠猟以外でクマを獲らないわけを理解する。
ぐらぐらと、視界が歪んだ。
信じられない世界だった。
だが、これが針葉樹林の森なのだ。
混乱状態になり、夢か現かわからなくなる。
しっかりしなければと言い聞かせるが、体が、心が、言うことを聞かない。
オリガは銃を構えるミハイルの異変に気付き、ぐっと接近する。そして、耳元でそっと囁いた。
「ミハイル・イヴァーノヴィチ、お前ならば、できる」
「!」
その瞬間、不思議と震えは収まった。
風の音も、鳥の囀りも、クマが肉を食べる咀嚼音も、何も聞こえなくなった。
ぐらぐら歪んでいた視界がクリアになり、クマの首元だけが見えた。
オリガも隣で銃を構える。
準備は整ったようだ。
目と目を合わせ、頷く。
ミハイルはありったけの勇気を振り絞り、銃の引き金を引いた。
オリガは二番目に撃つと言ったが、銃声はミハイルのものとほぼ同時だった。
ドドンと、二発の銃声が鳴り響く。
空薬莢が銃から排出されて孤を描いて飛んでいく様子を、視界の端に捉える。
奇跡が起こった。
ミハイルの撃ったものは首元に着弾。オリガの弾は頭に当たった。
クマの動きが止まり、食べていた肉塊を咳き込むようにして吐き出していた。
グラリと、体も傾く。
射撃は大成功。しかし、喜んでいる暇はない。
ミハイルとオリガは銃をその場に置き、全力疾走する。犬達もあとに続いた。
罠は沢を望む斜面にある。逃げる先は、斜面の上。
緩やかな登りではあるが、走るとなれば辛い。
けれど、一心不乱に走る。
あとに続く犬が吠えだした。クマがあとを追って来ていた。
手負いのクマは大変危険だ。その凶暴さは、母グマや大グマに次ぐ。
ミハイルとオリガは息を切らしながら走っていた。
クマはどんどん猛追してくる。
傷つき、食事を邪魔された怒りからあげた雄叫びは、森の木々を、芽吹いた若葉を震えさせた。
この体力は長くは続かない。急所を撃たれて出血し、命の灯も小さくなりつつある。
なのに、なのに、クマはミハイルとオリガにどんどん接近していた。
途中で、オリガは犬に指示を出す。
クマに噛み付くように命じた。
勇敢な犬達は小回りを利かせ、クマの後ろに回り込み、足に噛み付いたが、その攻撃も止めを刺すことには至らなかった。
元気な犬達は振り返ったクマを翻弄させる。
その間に、距離を稼ぐ。
だが――。
「うっ!!」
突然オリガが転び、苦悶の声をあげた。
「オリガ、どうした!?」
「私はいい。先に行け」
「何言ってんだよ!!」
ミハイルはしゃがみ込んで抱き起こそうと腰を支え、ぐっと腕を引いたが、ガチャンという音と共に、オリガの表情が苦しみ一色となる。
「は? なんだ、これ……?」
オリガの足に、獣の歯のような金具が食い込んでいたのだ。
それは地面に繋がっており、シャラリと鎖の音が鳴る。
「こ、これは、トラ挟み、だ。トラを捕まえるための、罠で――」
オリガが息も絶え絶えの状態で答える。
「オリガの、仕掛けた罠じゃない、よな……。まさか、『輝ける黄金のトラを射止める会』の?」
「だろう、な」
オリガはいいから先に行けと言う。ミハイルはぶんぶんと、首を横に振った。
すぐさま、足を喰らうように食い込ませているトラ挟みを取ろうと両手で掴んだ。
けれど、ビクともしない。
犬の吠える鳴き声がどんどん近くなる。
視界の端に、クマの姿が映った。余計に焦り、手に汗を掻いてしまいトラ挟みを掴みたいのに滑ってしまう。
「ミーシャ、行け、私はいいから、行くんだ!」
オリガの声には応えない。
今度は剣鉈を取り出し、地面と繋がった鎖を絶とうとする。
刃を打ち付けるように鎖にぶつけるが、簡単に切れる物でもない。
「ミーシャ、ミハイル、頼む、私はいいんだ……」
懇願するような声。聞き入れるわけにはいかない。
クマはすぐそこまで迫っていた。
「お願い、お願いだから……ミーシャ!!」
震える声でオリガは叫んだ。
ミハイルは剣鉈を振り上げながら言う。
「そんなの、聞けるか!!」
一ヵ所、鎖が錆びていた。そこを狙って、渾身の力を振り絞り、剣鉈を打ち付ける。
すると、鎖を絶つことに成功した。
ミハイルはオリガを横抱きにして、わき目もふらずに走り始める。
クマとの距離は、三メートルも離れていなかった。
オリガを抱えて走るなど、無謀なこと。
でも、一人で逃げるなんて、絶対にできない。
ミハイルはただただ、走り抜けた。しかし――。
蔓に足を引っかけ、オリガ共々転倒してしまった。
慌てて起き上がって背後を振り返ると、血塗れのクマと目が合った。
ミハイルは諦めない。
ベルトに差してあったナイフを引き抜き、切っ先をクマに向ける。
以前、クマは先端恐怖症であると聞いたことがあった。
しかし、手負いのクマに怖いものはない。すぐに大きな手で払われてしまった。
「ミーシャ、伏せろ!!」
鋭い、オリガの声。
ミハイルはすぐさま、地面に伏せる。
その瞬間、オリガはベルトに装備していた短銃を撃った。
弾は眉間を貫き――荒ぶる巨体を傾かせる。二発目、三発目と続け様に頭に打ち込まれると、ついに仰向けになって倒れた。
しかしまだ息があるようで、転がった姿勢のまま手足をジタバタと動かしている。
すかさず、ミハイルは飛ばされたナイフを手にとって、刃を心臓部分に沈めた。
脂肪と筋肉があるからか、なかなか思うように入って行かない。拳で柄を何度か打った。
ぱたりと、手足が動かなくなる。血に染まった鋭い牙が覗く口から、だらりと長い舌が垂れ下がった。
こうして、ようやくクマは息絶えた。
喜んでいる暇はない。
クマから離れて、オリガの足にあるトラ挟みを取る。大人二人がかりでようやく外れた。
証拠として、オリガの血に濡れた罠は持ち帰る。
「クソ、あいつ、絶対に許さねえ……!」
悪態をつきながらも、情けないことに泣けてくる。
皆、生きていた。オリガも、犬も、ミハイル自身も。
オリガの体を抱きしめ、もう一度、抱え上げる。
まだ、喜べない。罠で負傷した足の治療をしなければ。
◇◇◇
その後、無事に帰宅を果たし、オリガの足の応急処置をしたあと、薬師のもとに向かって、家に連れて行く。
厚い革靴を履いていたので傷は思っていたよりも浅く、少し縫う程度だった。
「しかし、クマですか」
薬師の呟きにミハイルとオリガは神妙な顔つきになる。
ついていなかった。この一言に尽きる。
「それよりも許せねえのは、『輝ける黄金のトラを射止める会』の罠だ。あの辺りは、オリガの狩猟区域なのに……!」
抗議しなくては。声を荒げるミハイルに、オリガは待ったをかける。
「ミーシャ、奴に喧嘩を売らないほうがいい」
「でも、あいつは断りもなく罠を仕掛けて――」
薬師も、ミハイルの肩に手を添えて、首を横に振った。
オリガは冷静な声で語る。
個人の狩猟区域とは、暗黙の了解の上に成り立つもので、実際にそこの土地がオリガの物というわけではないこと。
それから、村長に喧嘩を売ったら、村を追い出される可能性もあるので、何も言わないほうがいいということ。
「私達は生きていた。奇跡のようなことだろう。怒らずに、喜ぼう」
「……」
腑に落ちなかったが、オリガや薬師がそう言うのであれば、従うしかない。
これもまた、針葉樹林の森に住むということなのだろう。
そう、自らに言い聞かせた。




