オリガの『狩り』
ラゥ・ハオはオリガの接近に気付いていない。
毛皮が並ぶ店を嬉しそうな表情で覗き込んでいる。
部下は二人。交易品の入った包みを抱えていた。
オリガは周囲の様子を探り、慎重に行動する。
もちろん、人混みの中で刃を抜き、襲うことはしない。
今日は楽しい自由市だ。
関係ない人々を騒ぎに巻き込もうとは、考えてもいなかった。
オリガは天幕の裏に回り込む。
向かい合った位置に立つが、相手は買い物に夢中で気付いていない。
ラゥ・ハオが進んだら、オリガも進む。
その様子は、野生のトラの狩りのようでもあった。
店から店へ移るごとに、ラゥ・ハオの部下達の腕の中は毛皮でいっぱいになる。
自身の交易品と毛皮の交換を、順調に行っている。しかし、最後の店に辿り着いた頃には、手持ちの品も尽きてしまったようだ。
部下に馬のある場所へと戻るよう命じたのか、散り散りになる。ラゥ・ハオは、まだ自由市を見て回るようだった。
ミハイルを抱えたまま、特に問題もなく歩き続けている。大した力持ちだと思うのと同時に、もう少しミハエルを太らせなければと考える。
――ここでぼんやりしている場合ではない。
部下がいなくなった今こそ、最大の狙い時であった。
オリガは動き出す。
速足から駆け足へ、ラゥ・ハオが天幕と天幕の間を通った瞬間に、急接近してナイフを引き抜く。
シャキンと、刃と鞘が擦れ合う音が鳴った。しかし、それもこの喧騒の中ではかき消される。
オリガは迷うことなく、ナイフを握る腕を振りかぶり――ラゥ・ハオの首に切っ先を突き付ける。
そして、低い声で命じた。
「――止まれ。大声をあげず、黙ってこちらに来い」
オリガの言葉にラゥ・ハオの顔は引き攣り、重々しく頷いた。
オリガとラゥ・ハオは、人混みを避け、閑散としているほうへと向かった。
静かな場所へと歩いて行く。
「……オリガ、ネエ、ソノ物騒なノ、しまってクレナイ? ゾワゾワするヨ」
「黙れ、盗人」
オリガはナイフの切っ先をラゥ・ハオの首に向けたまま。
約百名の部族を率いる遊牧民の長の額には、脂汗がじんわりと浮かんでいた。
二人は村を離れ、牛や羊を放牧してある平原に出てくる。
本日は晴天。風は凪いでいた。
白い雲は青空に浮かんでゆっくりと漂っている。
牛は草を食み、羊はメェと鳴く。平和な光景が広がっていた。
オリガはどうしてこんな日に、人に向かってナイフを突きつけているのかと悲しくなった。
ラゥ・ハオは一瞬の隙を読み取ったのか、ミハイルを抱えたままオリガの体を突き飛ばして走り始めた。
しかし――逃げた瞬間に響く銃声。
オリガはベルトに差してあった短銃で、得意の早撃ちを披露した。
銃弾はラゥ・ハオの足首に掠めたのだ。
ミハイルごと、転倒するラゥ・ハオ。
毛皮に包まれたミハイルは、少し離れた位置に転がって行った。
続けてオリガは背中からくるりとライフルを回し、手元へと持ってくる。
素早く遊底を操作して、初弾を膨張室に押し込んだ。
銃身を体にぐっと当てて、安全装置を外す。引き金に指先を引っかけ、オリガはまっすぐに構える。
ここまで、十数秒だった。
ラゥ・ハオが起き上がり、背後を振り返った瞬間には、ライフルの発射準備が終わっていたのである。
逃げの姿勢を取ったので、オリガは叫んだ。
「ラゥ・ハオ、動いたら脳天を撃つ!」
「!」
ラゥ・ハオは両手を挙げ、降参の姿勢を取っていた。
一度話し合おうと、提案してくる。
「では、夫から離れてもらおうか。変な行動をしたら、その瞬間に撃つからな。さっきは、わざと外してやったんだ」
銃の腕を体感したラゥ・ハオは、コクコクと頷きつつ、ミハイルから離れていった。
逆に、オリガはライフルの銃口を相手に向けつつ、ミハイルのほうへと近付いていく。
視界にしっかりと敵の姿を捉えつつ、確認をする。少し乱暴であったが、毛皮に包まれたミハイルを足先で転がした。幸い、コロリと転がって全身が露わとなったミハイルの体に、外傷はない。
もぞりと動いているのを見て、単に眠っているだけだとわかった。
オリガは再度、ラゥ・ハオをジロリと睨みつけた。
「質問に答えろ」
「ナンデモ」
「なぜ、夫を連れ去った?」
「美シイダカラ、国ノ、皇帝に献上スルタメ、ダヨ」
オリガの家に、大量の交易品を置いてきたではないかと、必死の形相で主張する。
「交渉をせずに、勝手に持ち出すのは盗人のすることだ」
「ゴメン、ゴメン! 絶対なる至宝、ダッテ、思ったカラ」
「お前の命を引き換えでも、応じなかった」
「酷イナ」
家族とは、かけがえのない存在である。
物々交換で、ミハイルの代わりが見つかるとは思っていなかった。
「悪カッタ、本当ニ」
ラゥ・ハオは地面の上に膝を折り曲げて座り、頭を地面につけた。
誠心誠意の謝罪の姿勢を見せる。
「何をシタラ、許シテクレルのか」
「二度と、私と夫の目の前に顔を出すな」
「エエ、ソンナ!」
ラゥ・ハオはオリガを青星の村一番の狩人だと評価していた。
ぜひとも、この先も付き合いたいと主張している。
「盗人と取引など、ごめんだ」
「お願イ! 今日ダッテ、欲シイ毛皮、あまりナカッタ!」
何度も何度も、平伏していた。
家にある交易品はあげるので、どうにかこの先も取引をしてほしいと頼み込まれる。
「オリガノ、コトヲ、嫁にスルトカ、この先一生、言わない! その黒髪の男も、欲シガラナイ!」
どうか、友人として、また、取引相手としての付き合いをと懇願された。
オリガはどうしようか、考える。
相手は異国の遊牧民。気まぐれで、誓った約束を違えないという保証はどこにもなかった。
「もう、シナイ、絶対に。草原の誇り高き神の名にカケテ!」
神の名を口にした時の約束事は絶対である。
遊牧民であるラゥ・ハオも深い信仰心があり、偽りの言葉ではないことは確かだと、渋々認めるしかなかった。
やっとここで、オリガはライフルを下ろす。
ラゥ・ハオは嬉しそうな表情を浮かべたが、オリガの表情が硬かったので、しゅんとなる。
「ダ、ダメ?」
「……」
オリガは腕を組み、眉間に皺を寄せていた。
さながら、娘は嫁にやらないと怒り狂う、頑固親父のようである。
縁を絶ちたくないラゥ・ハオは、頭を抱えた――が、名案を思い付いた。
「ソ、ソウダ! 二人の、結婚祝い、馬、二頭、あげる!」
なんと、一族の至宝である馬を、二頭もオリガとミハイルに捧げるというのだ。
これは、保身から出た言葉ではない。
馬は一族の宝。大事に大事に育て、誰にも譲らなかった存在だ。
それを差し出そうというのは、誠意の気持ちを示すのと同義である。
「モウ、これ以上の宝ハ……」
「いいだろう」
「エ?」
「お前の馬をいただく」
「!」
ラゥ・ハオは立ち上がり、歓喜に震える。
そして、オリガに抱きつきに来ようとしたので、再度ライフル銃を構えて威嚇した。
それでも近寄ろうとしたので、オリガは引き金を引く。
パン! と乾いた音が鳴り、ラゥ・ハオの頬のすぐ横を銃弾が通過していった。
弾が掠めた頬からは、血が滲む。
ラゥ・ハオは腰を抜かし、その場に尻もちをついた。震える声で、オリガに声をかける。
「――エ、仲直り、シナイノ?」
「私とミハイルには近づくな」
「ト、友達ナノニ!?」
オリガの発言に愕然としていたが、自業自得だと思ってそのままにしておいた。
気を許したら、どこまでもつけあがる性格だと、わかっていたのだ。
◇◇◇
「……ん、なん……?」
ここで、ミハイルが目覚める。
しばらくパチパチと瞬きをしていたが、上からオリガに覗き込まれて、意識がはっきりする。
勢いよく起き上がり、果ての見えない平原に目を丸くしていた。
遠くには放牧された牛の姿が見える。羊もいた。
狩猟に出かけていたはずのオリガもいる。
わけがわからなくなり、叫んだ。
「こ、ここどこだよ!! それよりも、クッソ寒いな!!」
元気よく叫ぶミハイルの前にオリガはしゃがみ込み、ぎゅっと体を抱きしめる。
「わっ、あんた、なん……!?」
むぎゅっと、やわらかい体が押し付けられて、ミハイルは赤面した。
オリガは震える声で、耳元で囁く。
「――よかった、無事で」
「は!?」
視界の端に、ラゥ・ハオが映る。
目が合うと、気まずげな笑みを返していた。
ここで、頭の中が僅かに整理される。
今までオリガの家にいて、遊牧民の男の暴飲暴食に付き合っていた。なぜ、屋外の見慣れぬ場所にいる?
考えてもわからないので、聞いてみた。
「俺、なんでここにいるんだ?」
「ラゥ・ハオが、お前を薬で眠らせて連れ去ったのだ」
「は!?」
呑気な様子で、ラゥ・ハオはヒラヒラと手を振る。
驚くべきことに、遊牧民の男はミハイルを自国の皇帝に献上しようとしていたのだ。
「はあ!? 男に男を献上って、ばっかじゃねえの?」
「そうとしか言えない」
ラゥ・ハオはミハイルにも平伏の姿勢を取り、誠心誠意謝罪をした。
「ま、まあ、別にいいけれど」
あっさりと、ミハイルはラゥ・ハオを許した。
「優シイ……オリガと違ッテ、スゴク、優シイ」
別に優しくしたつもりはない。この先付き合うこともないだろうから、どうでもいい返答をしただけだ。
それにしてもと、疑問に思う。
オリガはいったい何をしたのか。気になったので問いかけた。
「奴を、蜂の巣にしようと思った」
「……」
そう語る視線は、猛虎そのもの。
トラなど見たことないが、ミハイルは確信した。
怒りを露わにする様子に、全身鳥肌が立つ。
この答えは、他人事ではない。
絶対にオリガを怒らせてはいけないと、胸に刻み込んだミハイルであった。




