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タイガの森の狩り暮らし〜契約夫婦と東欧ごはん〜  作者: 江本マシメサ


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タイガの森の村の薬師

 ミハイルは朝から、薬師への礼にジャム載せのクッキーを焼く。

 二種類の小麦粉に溶かしバターを入れて、手で練り込む。それに溶き卵を加え、生地がなめらかになったら、棒状にして地下の氷室で一時間ほど寝かせる。

 その後、生地を一口大に切りわけて、深皿のような形を作った。

 皿のようになった生地の底に小麦粉を塗り、コケモモのジャムを載せる。

 あとはかまどで三十分ほど焼くだけ。

 以上で、ジャム載せクッキー『ピチェーニエ』の完成だ。


 手土産が完成したので、身支度を整えて、オリガと二人薬師のもとへ向かう。

 針葉樹林タイガの生い茂る道を歩くこと一時間。


「つーか、民家なんかぜんぜんないじゃないか。本当に村なのか?」

「村だ。だいたい、徒歩一時間間隔に隣人の家がある」

「ありえねえ」


 この辺りは、何度も行き来している商人ですら迷う。

 五つの村の中でも、もっとも迷いやすい場所にあるのだ。


 本日は珍しく快晴。

 風もなく、視界も開けていた。

 途中、いつもと違う光景が広がり、ミハイルは歩みを止めた。


「――んん?」


 ミハイルはわが目を疑う。大気中にキラキラと、光の粒が舞っていたのだ。

 それは、童話に出てくる妖精が纏う鱗粉のよう。

 風のない雪景色の中で、幻想的な輝きを放っていた。

 その様子にただただ圧倒されていた。


「なんだ、ありゃ……」

細氷ダイヤモンドダストだ」


 空気中の水蒸気が急激に冷やされて結晶化したものだと、オリガは説明する。

 風がない、天気が良い日によく見ることができる光景だとも。


「なんつーか、すげえ。物語の世界みたいだ」

「私からしたら、一つの街にさまざまな店が並び、トラのいない森があるという都のほうが、夢物語のようだと思う」


 互いの生まれ育った環境を不思議がる。

 自然豊かな針葉樹林タイガの森に、新しい物がひしめく華やかな都。

 生まれ育った中にあった『普通』を語り合う。

 そんな話をしているうちに、薬師の家に辿り着いた。

 オリガの家よりもずいぶんと小さい、丸太造りの平屋建てである。

 ここも、周囲に民家などない。オリガ同様、孤独な暮らしをしている。

 トントントンと扉を叩くと、返事が聞こえた。

 ほどなくして、扉が開かれる。

 顔を出したのは、眼鏡をかけた、白髪頭に立派な長い髭を蓄えた老人。

 目じりにはしっかりと皺が刻まれているが、肌ツヤは良い。細い目には、叡智の輝きが宿っている。

 見たところ六十代後半から七十代くらいに見えるが、腰も曲がることなく、背筋はピンと伸びていた。

 ミハイルが買ってもらったような、詰襟に丈の長い、腰にベルトを巻く民族衣装をまとっている。


「ああ、オーリ、心配していたのです」


 ミハイルを見るなり、元気そうになってよかったと、細い目をさらに細めて喜んでいた。


「あ、どうぞどうぞ、寒いので、中へ」


 まず、ミハイルは感謝の気持ちだと言って、ピチェーニエを手渡す。薬師は目じりを極限まで下げて、喜んでいた。


「お茶を淹れてくるので、そこでしばしお待ちを」


 居間の長椅子にオリガと二人並んで座り、薬師が戻って来るのを待つ。

 部屋は蔓模様の絨毯が敷かれ、低いテーブルには精緻な雪模様の入ったクロスがかけられている。

 壁には花畑を描いたタペストリーがある、綺麗に整えられた部屋であった。

 とても、男の一人暮らしには見えない。


「老師は奥方の作りだした部屋を、維持しているのだろう」


 オリガの言う通り、よくよく見たら布類は使い込んだ跡がある。

 妻に先立たれて十数年と聞いていた。

 森の奥で、孤独な暮らしをするのはどういうものなのか、ミハイルには想像もできなかった。


「ここは、村人達もよく来る。だから、そこまで悲観的なものでもないだろう」

「そうだけど――」


 ここで、薬師が戻って来る。

 手には、茶器とパンが載った盆を持っていた。


「どうぞ。外は寒かったでしょう、お茶でも飲んで、どうか温まってください」


 ミハイルの前に、手に平大の丸パンと小皿に盛られた塩が出された。

 それから陶器のカップに入ったお茶と、ひと匙のジャム。


 これは先日聞いた『フレープ・ソーリ』。思わず、隣に座るオリガの顔を見た。視線が交わると、こくりと頷く。


 オリガは塩を摘まむと、丸パンにサラサラと振りかける。

 それから、薬師に礼を言って、千切って食べ始めた。

 ミハイルも同様に、パンを食べる。

 お腹は空いていなかったのに、どんどん食べ進めてしまう。白い小麦から作られた丸パンは、香り豊かで美味しかった。

 軽く振りかけてある塩も、生地の甘味を引き立てくれる。

 途中、喉が詰まりそうになって、慌てて紅茶を飲む――が、思いっきり顔を顰め、叫んだ。


「――苦っ!!」


 それは、特製の薬草茶だった。

 体に良い薬草を調合し、味わいや香りがまったく配慮されていない、薬と言ってもいいほどの代物である。

 オリガは知っていたのか、先にジャムを舐めてから飲んでいた。


「げっほ! な、なんだこれ!」

「リンドウの花と秘密の薬草を煎じたお茶です。健胃作用、消化促進、抗炎症作用、血行促進効果などがございます」

「ほぼほぼ薬じゃねえか!」


 威勢のいい言葉に、薬師は穏やかに笑う。

 ミハイルはオリガに軽く膝を叩かれて、ハッとなった。言葉遣いが少々荒かったのだ。


「すまない。俺は、下町育ちで、言葉を知らなくて」

「いえいえ、お気になさらず。私は、このお茶を飲んだお客様の反応を、何よりも楽しみにしておりまして」

「……」


 ミハイルは「クソジジイ!」という言葉を、喉から出る寸前で呑み込んだ。


「しかし、お元気になって良かったです。雪山で倒れていたと聞いて、心配をしていたのですが」


 凍傷もなく、熱も出なかった。

 落下してすぐに、オリガが助けてくれたのがよかったのだろう。


 ミハイルは自らの事情を、薬師にすべて話した。

 若い二人が抱えるには、大きすぎる問題だったからだ。


「――なるほど」


 薬師は長く伸びた白い髭を撫でながら、相槌を打つ。

 ミハイルの事情は、厄介なものだった。


「村長などには、黙っていたほうがいいでしょう」

「私もそう思った」


 現在の青星の村の村長はまだ三十と若く、野心家で、新しいものをどんどん引き入れようとしていた。

 性能が良い銃などを取引で手に入れられるようになったのはよかったが、最近はトラの毛皮の需要が高まっていると言い、トラ狩りに躍起になっていた。


 森の主は、探してまで狩るべきではない。

 そんな周囲の声も聞かずに、トラを狙い続けていた。


「夫の生まれを知ったら、商人や貴族との交渉の材料にしかねない」

「ですね」


 貴族の収容所に関しても今は反対的な姿勢でいるが、向こうが交渉してきたら、態度を変えることなど安易に想像できた。


「オーリ、この話は、私達だけのものに」

「そうしてくれると、大いに助かる」


 ミハイルにも、詳しい話を聞かれたら、適当にはぐらかすようにと説き伏せられた。

 嘘を吐くために、遊牧民の設定を詳しく考えておくのも忘れない。


 薬師と話をしているうちに、ミハイルは気付く。喋りがどうも、都会的だと。それに、眼鏡をかけているのも気になった。

 眼鏡は高価で、貴族と一部の富裕層にしか普及していない。それを、辺境の森に住みながらかけているのは不思議であった。

 ここで、薬師の家名であるウヴァーロフが誰だったか、記憶が甦る。


「あ、ウヴァーロフって、皇帝ツァーリの犬じゃねえか!?」


 ミハイルの伯父、ユスーポフ公爵が何度もぼやいていたのだ。「ウヴァーロフ、皇帝の犬。あいつさえいなければ……!」と。


 それに、ミハイルをここまで連れて来た者も、ウヴァーロフ家の手のかかった者だった。

 しきりに、「ウヴァーロフ様」と、名前が出ていた。

 それを今の今まで忘れていたのだ。

 咄嗟に、何も考えず、思ったことを口にする。


「あんた、その喋りといい、名前といい、貴族だな?」


 ハッと目を見張る薬師。


「私は――」

「そうなんだろう?」


 薬師は眉を下げ、困ったような表情で頷く。


「そうですね。私は、都からやって来た、貴族の末端です」


 どうしてここまでやって来たのか。ミハイルは問い詰める。

 すると、意外な事実が明らかとなった。


「私は、皇帝ツァーリの政治を通して、国の衰退を感じました。都にいたら、豊かな生活などできない。そう思って、妻と話し合い、ここに移り住んだのです」

「どうして――」


 この地を選んだのか。ミハイルは言いかけたがその思いは、わからなくもなかった。


 ここは、景色も、空気も、人の心も美しい。

 都にないものが、たくさんある豊かな土地だった。


「その選択は、間違っていなかったと、実感しています。都に残っていたら私は今頃、平原にある、収容所の中だったでしょうから」


 薬師は皇帝に反感を抱き、二十五年前にここに移り住んできたと話す。


「老骨には、少々厳しい土地ですがね。その代り、人は温かい」


 ミハイルもそう思った。本当に、都になかったものが、ここにはすべて揃っている。

 ある意味、豊かな土地なのだ。


 この件に関しても、口止めされる。

 もちろん、ミハイルもそのつもりであった。


「どうか、オーリと仲良くしてくださいね。少々不器用なところがあって、扱いに困るかもしれませんが。少し前も、お転婆をしてしまって――」

「老師」

「おやおや、このお話は駄目でしたか」


 しみじみした口調で語られようとしていた思い出話に、オリガは待ったをかけた。

 薬師は残念そうに、肩を竦めていた。


 ◇◇◇


 オリガとミハイルは、薬師の家をあとにする。


 先行くオリガを追い駆けようとしたミハイルの肩を、薬師が叩いて引き留めた。


「こちらを」

「ん?」


 手渡されたのは、小さな革袋。中には、三角に包まれた紙がいくつも入っていた。


「なんだこれ?」

「媚薬です」


 とんでもない言葉が聞こえて、ミハイルは手の中のものを地面に落下させる。

 ボスリと、革袋は雪の中に沈んだ。


「おやおや」


 薬師は革袋を拾い、ミハイルの手の中に戻した。


「水によく溶けますので、ささっと、夕食後の紅茶に混入させるのがオススメです」

「いやいや」

「大丈夫ですよ。一晩で効果は切れますから」

「いやいやいや……」


 ミハイルは頑張れと言わんばかりに、背中を押される。


「あの、いや……」

「不安だったら、自分の分にも入れるといいですよ。大丈夫です。恥ずかしいのは最初だけですから。これは、きっかけに過ぎません」

「だから、何言ってんだクソジジイ!」


 ミハイルは叫ぶ。

 同時に、木の上に積もっていた雪がドサリと落ちた。


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