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(83)ほったらかしになって宙に浮いてしまっている
懐かしいタイル張りの浴室のカンカンと音のする湯舟に浸かり、俺は左脳の赴くままに考えを巡らせた。
・・実家に帰って来て、コタツの中に猫がいる確率は半々・・まるで量子力学でいう「シュレーディンガーの猫」みたいだ。いくらなんでも俺が長旅で疲れていたせいで見間違いをしたわけでもないだろう。・・架空の猫を飼う・・今度は村上春樹のエッセイ本のタイトルのようだ・・とにかく母親が痴呆症になっていなければいいが。・・・なっていたとしてもあまり自分とは関係ないことのように思えてしまう、それはきっと俺が薄情な次男坊だからだ。しかし重症化していって介護が必要にでもなったら、独り身の兄貴に全てを任せるわけにもいかない・・・ああ、気づけば俺もそんな事を考えなければならない年齢か・・いつまでも一人で自由に生きていくわけにもいかないのか・・・兄貴が結婚していたら話は変わっていたが・・あの感じでは今後もまずないだろう。悪いけど田舎のスナックで働いている外国人に片思いをしても、あまり先があるようには思えない。・・せめてあの女性が帰国するまで、兄貴が楽しく過ごせればいいが・・・ん?・・そこで俺の頭にその情景の短いフラッシュバックが起きる。
ドアの隙間から店内を覗いた時、兄貴はこっちを見ていなかったが、女性店員の方は一瞬だが俺の方を向いた。あの黒人女性・・どこかで・・・いや、俺はあの顔に見覚えがある!・・そうだ、さっきは兄貴にバレないように退散する事しか考えられず、その一瞬で何かを読み取るほどの余裕はなかったが、思い出したぞ・・あの店員は、絶対に俺が知っている人物だ!・・そして彼女の顔にはなぜか、複雑な表情が浮かんでいた・・例えば(どうしてアナタはここへ来てしまったの?)というような・・・そう、なぜか俺を非難するような表情をしていた・・・誰なんだ、あの人は?・・著名人?・・んん・・もしかして海外の仕事で会っているとか・・・いや、それは流石に偶然過ぎるだろう・・だが何か重要な関係性だったような気がする・・・どうして思い出せないんだ?・・・とにかく、セーラがいないとしても、俺はまた彼女の実家に行かなくてはならない。
風呂から上がると脱衣所に色褪せたオヤジのパジャマが置かれていた。多分母親が用意しておいてくれたのだろうが、俺はそれを着る気にはなれなず、自分で用意した旅行用のスウェットを着て居間に戻った。母親は定位置に座り、テレビを見ていた。猫は・・なし。
「母さん」
「わぁ、びっくりした何よ」
「これありがとう、俺には小さいみたいだ」そう言って俺はパジャマを返した。
「あらそう。」
「親父の部屋で寝ていいんだよね?」
「そうよ、押し入れに布団も入ってるから適当に使って。一応こないだ干しておいたから」
「ありがとう。それじゃ・・」俺が部屋を出ると、母親が「あっちょっと」と言って引き留めてきた。
「変なこと訊くけど、あんた最近こっちに帰って来てないわよね?」
「ないよ。昼間も言ったけど、8年振りぐらいだから。どうして?」
「実を言うとね、今みたいに、あんたに後ろから声を掛けられた事があったのよ、ひと月ぐらい前かしら?」
「なんだよそれ。そんなはずないだろう?」
「そうよねぇ?・・でもテレビ見てた時にね、後ろから(母さん)ってあんたの声がしたのよ、ホントに。それで振り返ったけど、誰もいなくて」
・・・まずいな、いよいよ本気で痴呆症の可能性を疑わなければならない、と俺は思った。
「気のせいよね?ごめん、引き留めて。ゆっくり寝て」そう言って母親は、苦笑いをしながらリモコンでテレビのチャンネルを変えた。
・・・しかし、そう言われると確かに、俺自身も最近ここへ来てテレビを見ている母親の姿を確認したような気もする・・・ん?・・なんだ?・・猫の件にしろ、実はおかしいのは俺の方なのか・・・?
少々湿気っぽい父親の部屋で、俺は眠る前に読めそうな本を本棚から物色していた。もしかしたら父親の書籍コレクションをまじまじと見るのはこれが初めてかも知れない。血縁者であっても他人の本棚を漁るのは少し気が引ける。それは本というものがその人のパーソナルな部分に深く関わっているからだろう。言わば本棚は個人の人格を形成する外界にある脳ミソなのだ。
父親の本棚にはもちろん漫画もなく、雑誌はフライフィッシングの物だけ、小説ですらほとんど置いていなかった。あったのは、しおりが途中に挟んであった川端康成の「雪国」とレイモンド・カーヴァーの短編集「頼むから静かにしてくれ」だけ。他はほとんど仕事関係の専門書だった。映写技師の息子なのに、映画もドラマもほとんど見なかった親父らしい。しかし意外だったのが心理学者のウォルター・ピッツ、フランク・ローゼンブラット、神経生理学者であり外科医でもあるウォーレン・マカロックの著書が数冊あった事だ。これらの本は普通、田舎で町工場を営んでいるような高卒の人間が読む物ではなく、それどころか普通に生活している多くの人間が一人の作者名も知らずに一生を終えていくという類の専門書だ。この三人の名前を聞いてハッとするのは、あくまでごく一部の人々・・・そう、AI(人工知能)に本格的な関わり方をしていなければ、まず存在を知らない名前なのだ。
・・親父がAI?・・・あの、自分の周囲3メートルで起こっている事にしか興味がない親父が?・・ネジ1本の簡単な計算も母親や事務のおばさんにやらせる、あの親父が?・・・俺にはどうしてもそれらが上手く繋がらなかった。
睡眠前の読書を諦め、俺は布団に入って今日という一日について考える事にした。時刻はまだ11時を少し回ったところだ、都会にいる時には日を跨ぐ前に布団に入る事など体調不良以外ではまずない。田舎と都会では実際に時間の進むスピードが違うはずだ。我々にそれを測定する技術がないだけで。
まず始まりは沢口明菜との高級な電車旅。そして後ろの座席にいた二人の気の毒な刑事、それから母親と存在の軽過ぎる猫、慣れ親しんだ道で初めて見かけた美味くて安いラーメン屋、兄貴とスナックの黒人女性、ウリ坊おばさんの民宿、さらには、明日から沢口明菜とそこに宿泊する事になるかも知れないということ。・・・出来事は盛沢山だが、なぜか一貫していない。関東で一心不乱に動いていた時には何か大義のような物があって、一つの流れに沿っていた。しかしこっちに戻って来てからは、目に見えない力に勝手に泳がされているような感覚がするのだ。いや、人の人生がすべからくそうであるとしても、不自然な波によって本流から遠ざかるように、沖に流されていくような・・・うむ、やはり何かがおかしい・・さっき別れたばかりの沢口明菜と大事な話をしなければならなかった気がするのだが、それすらも今ははっきり思い出せない・・・ああ、彼女は今ごろ、ノアールに似たホテルの部屋で上手く眠れているだろうか?・・だが俺には、どうしてあげる事も出来ない・・・きっと自分が感じている疲労よりも俺は疲れているのだろう、だから全てが保留のままほったらかしになって宙に浮いてしまっているのだ。
玄関の方で物音がした。どうやら兄貴が帰ってきたようだ。足を擦るように歩く例の音が廊下から聞こえる。・・・その音は俺の眠る部屋の横で止まった。
「カズ、起きてるか?」
まるで影絵のように障子越しに兄貴のシルエットが見える。
「・・ああ」
俺は寝たふりをしようかとも思ったが、枕元のブックライトがまだ点いていたので仕方なく返答した。
「お前今日、店に来ただろう」
ん?・・そうか、セーラの母親が伝えたんだな・・。
「ああ」
「もう行くなよ」
全くむちゃくちゃだな・・他の客を寄せ付けないつもりか?。
「ああ・・そもそも店には行くつもりがなかったんだ」
「あそこの娘さんなら帰ってないぞ」
「そうか・・・なぁ兄貴」
「なんだ?」
「うちって猫いるよな?」
「猫?・・なんだそりゃ」
「・・いや、いい。」
「それからな、お前早く東京戻った方がいいぞ」
「どうして?」
「オレみたいになっちまうぞ」
「え?」
「とにかく、早く帰れよ」
そう言うと兄貴の影は見えなくなった。数年ぶりに帰省してもこんなに家族から歓迎されないものなのかと、俺は布団の中で自虐的な笑みを浮かべた。しかし兄貴にしては饒舌だった。これもスナックと飲めない酒と、あの女性のお陰かも知れない。
田舎の夜は都会とは違い、恐ろしいほど早く静かに更けていく。なんて事のない日本家屋の部屋の隅から、黒い手が伸びてくるような錯覚を起こすほどに。
(84)極端な静けさは時に神経を刺激する。
沢口明菜はベッドの上でスマートフォンを握り<和のダイアリー>を更新しようとしていた。
しかし今日という日の出来事の多さに、どこから書き始めたらいいのだろうかと、細い指で画面を握りしめたまま数十分間ほど静止し続けていた。
・・・ドラマにも出たし、CMにも出たし、バラエティー番組にも、日本で一番有名なファッション雑誌にも出た。映画やグラビアの撮影で色んな国に行って、観光地らしい所は大抵見て回った。男性アイドルグループが沢山集まる秘密の飲み会にも参加したし、企業のお偉いさん達と食べたことのない高級料理を沢山食べて、お酒も沢山飲んだ。・・でもどれも刺激はその時だけ。まるでサイダー。喉から下に通過する一瞬が楽しいだけだった。・・・虐められてた子供の頃に嚙み締めた歯ぐきから血が滲むほどなりたかった芸能人になって、実際にやってみて分かったこの仕事の閉鎖感や退屈さを、この一、二年で逆に死ぬほど味わった。そこで出てきた当然の結論。<有名になったからって一体なんだっていうの?>
アタシは何かを0から生み出しているわけではないし、言われた事をそつなくこなしているだけ。毎日違う現場で、違う人達に会っても、着せ替え人形の仕事は所詮、着せ替え。本質は変わらない。どれだけ生まれた場所から離れられたとしても、やってる事は結局一緒。そして、どうやらその到達地点が近いっていう事も大体わかってる。アタシが去っても代わりがすぐに出てくる事も・・・。
XNUMXのブランドアンバサダーになって顔が知れ始めた頃、青山の会員制クラブで、世界的に売れている韓国アイドルグループの男数人とラッパーのクレ、大手アイドル事務所Jzの中田たちと飲んだ時、当然のように回ってきた大麻と、よく分からない吸引式の物を吸ってみて、気持ち悪くなっただけでアタシは結局そういう物にもハマらなかった。男たちのジョーダンはもっと吐き気がするほど面白くなかったし、その後数人に強姦されちゃったけど、全員顔がいいだけで(整形だけどね)ヘタクソで早漏で最悪だった。だから最後のやつ(誰だったか覚えてないけど)の時は、興奮しているフリをして上に乗っかって顔面にゲロをぶち撒けてやった。・・・とにかく、芸能界に入ってアタシが興奮した事なんて一度もない。いつだって興奮しているフリをしているだけ・・・でも・・アタシは今、心底興奮している!!
だって、このリゾート・オハラっていうホテル・・・そしてこの部屋・・・本当に信じられない!・・昼間チェックインした時は薄暗くてノアールにそっくりだったのに、さっき帰って来たら内装から何から真っ白になっていて、全く違うホテルになってるんだもん!・・一体どうなってるの!?すごく怖い・・でもそれと同じぐらいすっごく面白い!!カズと別れてへこんだ気持ちで中に入って気絶するほどびっくりした。外観は全然変わってなかったのに、ロビーも働いてる人もバカみたいに明るい雰囲気で「おかえりなさい」なんて言ってきて・・えっ?えっ?アタシ、入る建物間違えた!?と思ったら、すぐにフロントの人が「お預かりしていた鍵です。お食事お済みでなければ特別ディナーをお持ちしますのでフロントまでお気軽にお申しつけください」なんて言って、さっきと同じ369のキーを渡してくれて・・・廊下だって明るくなってたし、部屋に入ったら中も一面真っ白で、ベッドも無機質なノアールの物とは違ってて、天蓋も付いててお姫様が眠るやつみたいだし・・とにかく全てがまるでドラキュラ城からサンリオピューロランドぐらいに変わっちゃってるんだもん!!・・ホントにこれってどういう事なの?・・アタシの頭がおかしくなったの??・・・ああ、カズに話したい・・今すぐ電話したい・・でも、もう今日はやめた方がいいよね?一日中アタシのわがままに付き合わせちゃったし、またすぐ連絡したら嫌われちゃうよね?・・それに今さら汚い民宿じゃなくて、この部屋でいいなんて、言えない・・・。でも、アタシわかった。普通に生きていたってエキサイティングな事はいくらでもあるんだって、何もわざわざ面倒くさい芸能人になんてならなくても良かったんだって!!
沢口明菜は今自分に起きている不思議な出来事と、それに準ずる思いの丈を秘密のブログに書き綴ろうと思っていたのだが、肉体は想像よりも消耗していたようで、いつの間にかスマートフォンを握ったまま半ば気絶するようにベッドカバーの上で眠りに落ちていた。打ったつもりの<和のダイアリー>は数字のタイトルだけで、一文字も進んでいなかった。
極端な静けさは時に神経を刺激する。沢口明菜は異常なほど音のしない空間に自分がいる事に驚いて目を覚ました。部屋の中は真っ暗でどこにいるのか理解するまでに数十秒かかった。ああ、そうか、都会ならホテルの中でもタウンノイズは多少聴こえるけど、それが田舎になるとこんなにも静かになるのか、と彼女は納得した。・・・でもおかしい。普段から寝落ちする癖はあるけど、部屋の電気を消した記憶はない。一体どれぐらい眠ってしまったのだろう?・・・時間を確認したかったが握っていたはずの携帯電話は見つからず、仕方なく上半身を起こしてベッドから立ち上がろうとした・・・だがその時、部屋の隅の暗闇の中に何者かの気配を感じた。
「だれ!」と沢口明菜は反射的に声をあげた。・・・返答はない。背すじに寒気が走る。
沢口明菜は安心したくて何か握る物をと、ベッドの上を手探りでさがし、枕を見つけて抱きかかえた。ユニットバスに向かう方の角辺りに人の形をした影が見えるような気がする・・・気のせいなのだろうか、静寂が幻想を作り上げているだけだろうか?・・その希望的観測を裏切るように暗闇の中から一本の手が伸びてきた。
「きゃーーーーっ!!」と沢口明菜は悲鳴を上げた。成人男性の腕だ。もちろんそれは伸縮するわけではなく、ただ腰の高さ程度に振り上げられている。何かを欲するように。
沢口明菜は「いやーーーっ!」と叫びながら枕をその方向に向けて投げつけた。すると暗闇の中に吸い込まれるように枕は静かに落下した。すぐにでもベッドから飛び降りて、部屋から逃げ出したかったが、いかんせん暗過ぎて動く事が出来なかった。この闇の中は(あっちのテリトリー)だ、と沢口明菜は直感的に気づいていた。・・震えながら、でも目を逸らせずにいるとその腕は意外にも、床に落ちたであろう枕を拾い、優しくベッドの方に投げ返してきた。沢口明菜は思わず「えっ」と声を出した。そこに悪意を全く感じなかったからだ。
そして暗闇の中から「・・そんなに怖がらなくてもいいだろう?」という小さな声が聞こえた。
「えっ?」と沢口明菜はもう一度声をあげた。なぜならそれがよく知っている声だったからだ。
「もしかして・・・」
やはり手の形にも見覚えがある。
「・・・テッちゃんなの?」
しばらくの沈黙のあと、暗闇の中から「そうだよ」という返答があった。
沢口明菜は固まったまま部屋の隅を見続けていた。暗闇の中から差し出されている一本の腕。かろうじて見える柄のシャツとジャケット、その趣味の悪い色合わせ・・それは間違いなくマツシタの腕だった。
「・・どうして、ここにいるの?」と沢口明菜は返してもらった枕を抱え直して訊いた。
「明菜に頼みごとがあってね」と、そのマツシタの影は答えた。
「電気つけていい?それにもっとこっちにおいでよ、顔も見たいし」と沢口明菜は恐る恐る言った。
「すまん、それは無理なんだ。」
「どうして?」
「オレは今この中、(この深さの闇の中)からしかお前とコミュニケート出来ない。」
「えっ?・・・じゃあ・・やっぱり、死んでるの?」
「ああ、ここでのオレは完全に死んでいる。」
「ってことは、幽霊なの?」
「人によってはそういう風に捉えるのかも知れない。だが、オレはそれほど単純な存在じゃない。というより、世界中の人々は根本的にそういう事について多くの勘違いをしているからな。それを理解するには明菜のように勘と頭のいい子でもそれなりに時間がかかる」
この回りくどい言い方、間違いない、やっぱりテッちゃんだ、と沢口明菜は思った。
「じゃあアタシに用ってなに?大事なこと?」
「ああ、とても重要なことだ、頼めるかな?」
「条件による」と沢口明菜は言った。
その影は笑っているように揺れて「こんな腕しか見えない存在に条件を出してくるところが、胆の座った明菜のいいところだ」と言った。
「腕だけあれば十分なことだよ」
「なんだ、それは?」
「頭を撫でて」
「ん?」
「昔みたいに・・二人でいた時みたいに(明菜は最高だ、明菜はえらい、明菜はかわいい)って言いながら頭を撫でてよ。枕を投げ返してきたんだから、それぐらい出来るでしょ?」
暗闇の中から思案する雰囲気が感じられた。そして「ああ、出来るかも知れない。」とマツシタの影は言った。
「じゃあとりあえず、アタシに何を頼みたいの?」
「非常に重要なことだ。まず・・・」
「あ、待って。テッちゃん、アタシの携帯知らない?今何時か知りたいし」
「携帯はここにはない」
「えっ?」
「でもなくなったわけではないから、安心してくれ。とにかくここに明菜の携帯はない。そして時間だが、それは気にしなくていい。」
「え、でも明日の朝カズと待ち合わせてるから早く起きないといけないんだけど。もう結構遅い時間だよね?」
「そうか・・カズにも会ってるんだな・・・」
マツシタの影の声のトーンに、沢口明菜は郷愁のような何かを感じた。
「うん・・友達なんでしょ?」
「ああ、むこうがそう思っているかは分からないけどな」
「思ってるよ」
「とにかく、時間は気にしなくていい。そんな物は存在しない、明菜が9時だと思えば9時だ」
「?どういうこと?」
「聞きたいか?」
「ううん、めんどい。じゃあまぁスマホは諦めるとして・・・」
「用事は単純だ。この部屋を出てエレベーターに乗り741号室に行ってくれ」
「わかった。えっ?でもここって5階建てだよね?7階なんてなくない?」
「ある。行けばわかる」
「あっそ。」
「741号室についたら部屋のベルを鳴らしてくれ。そうすれば明菜が今忘れてしまっている大事なことを思い出せるだろう」
「えっ?アタシなんか忘れてたっけ?デートの約束?」
そのジョーダンを無視してマツシタの影は「頼めるか?」と言った。
「うん、やってみるよ。ああ、興奮するーー」
沢口明菜は目が慣れてきたのでベッドから降りて、部屋の隅の深淵に近づいた。しかし「それ以上は近づくな」とマツシタの片腕に静止された。
「ちぇっ」と沢口明菜は舌打ちをした。けれど1.5メートルほど離れた暗闇からは慣れ親しんだマツシタの加齢臭がした。
沢口明菜は頭を差し出して「ん」と言った。マツシタの影は右腕を伸ばし、沢口明菜の頭に手を乗せて「明菜は最高だ、明菜はえらい、明菜はかわいい、明菜なら何でも出来る」と撫でながら言った。沢口明菜は目に涙が浮かんでくるのを我慢して「あったりめーよ」と言った。
「じゃあ行ってくるね、てか、ここに帰って来たらまだいる?」
「いや」
「もう会えない?」
「わからない」
「そっか。じゃあね」
「ああ、カズによろしく」
「うん、元気でね・・っていうのは変か」
その言葉を聞いて、影はまた揺れた。
沢口明菜は薄暗い部屋の中をゆっくり出入口の方へと向かった。確認出来ないが、どうやら自分は帰ってきたままの服装をしているらしかった。そして心なしか、部屋の雰囲気やレイアウトが違っているような気がしたが、それもはっきりとは分からなかった。後ろを振り向いてもう一度マツシタの腕を見たかったが、すでにさっきまであった気配を背後には感じられなかった。足先を頼りに、スリッパを履き、ドアを開けると室内よりも廊下の方が幾分明るかった。赤い絨毯、青黒い壁、無駄に高い天井、小さな間接証明、そこは自分がいたはずのリゾート・オハラではなく、ホテル・ノアールの廊下だった。




