XNUMX(60)ダーウィン ~(61)パイプイス
(60)ダーウィン
俺は泥だらけのアリスの頭を抱えてこう言った。
「キミは少しも汚れていない。命の危険がある時に拾った物を食べたって、人間の魂は少しもけがれはしないんだ、俺は中東の取材中にもっと酷い・・本当のゴミみたいな物を食べながら何とか生き抜いた。腹は壊したけど精神はより強くなった。同じように生きる為に体を売ったって魂はけがれはしないよ。スラム街で子供の為に内臓を売った貧困の家庭を取材した事がある。文字通り体を売ったという事になるけど、彼らは気高く生きていた。家族の絆はより強くなっただろう。唯一、人間の魂が汚れるとしたら、それは強い立場の者が弱い者を傷つける時だ。世の中にはお金や権力を持っていてもそれに満足せず、平気で人を傷つける人間達がいる。何もそれは国家レベルだけの話じゃない。学校や、家庭、会社でも、自分の立場を利用して弱者や困っている人を平気で追い込むような事をする人間が沢山いる。しかもそういう人間達はほとんどの場合、相手が悪いとか、相手の為を思って等という言い訳をする。客観的な視点を持っていない上に他責思考で考えるからだ。彼らのような人間達がいる限り、戦争は終わらない。彼らは気づかないから成長もない。キミを傷つけてきたそういう人間達は魂が汚れてしまっている。そして気づかない限りこれからももっと汚れていくだろう。しかしキミはそうじゃない。今はただ経験を通して成長しようとしているだけなんだ。今回は魂のトレーニング・メニューが少しきつかっただけで、乗り越えたらキミはもっと強くなっているだろう。その内、この世界を思い通りに出来るほどに。」
アリスはシャワーに入っている。俺は少し眠った方が良いと思ったが、本人が何とか立ち上がれるからどうしてもと言うので、それを承諾した。「泥まみれの上に、涙と鼻水だらけになっちゃったからさ、急いでキレイにして貴方が出かけるまでには出てくるよ」と彼は言った。肩を抱えながら風呂場に向かう時「足元がフラついているけど大丈夫か?」と言うと、アリスが「心配なら一緒に入る?」と言うので、俺は「そんな事が言えるなら大丈夫そうだ」と答えて、彼の回復に少しホッとした。
汚れていただけでなく、穴だらけの靴下とアウターは捨てる事にした。そのアウターの代わりに俺のおさがり(バブワーのビューフォート)を譲ると言うと、彼はどこにそんな元気が残っていたのかと思うほど喜んだ。俺は着替えを用意して、アリスの脱いだ物を洗濯機に突っ込んだ。見るつもりはなかったが下着は女性物を上下着けていて、グレーでスポーティーな形のXNUMXの物だった。XNUMXは下着も手掛けているのか、となぜか感心してしまった。
俺は寝室を片付け、キッチンに戻って残りのコーヒーを飲んだ。さっきアリスの話の中に出てきた(売春元締めの蛇顔の男)というのは、ドラゴンの事で間違いないだろう。眼鏡の側近はおそらくニシムラで、携帯を粉々にしたプロレスラーのような男はヒラタだ。アリスは副園長とドラゴンが話していたと言った。(幸運の世界)が経営する孤児院が(新日本連合)と繋がっているなら、園側が幸運の世界の命令で子供を小児売春へ斡旋していると見て間違いないだろう。客はほとんどが上国民で会員制のようになっているはずだ。それは宗教団体、暴力団どちらにとっても表に出ない上、手堅く効率のいい収入源になる。悪魔と鬼の利害が一致し、秘密裏に手を組んでいるようなものだ。俺のジャーナリスト魂に火が着きそうになったが、時計を見ると沢口明菜と待ち合わせている新幹線に乗るには、あと15分で出なければならなかった。・・しかし、今のアリスを置いて行けるだろうか?ドラゴンは足を洗わせるような言い方をしていたらしいが、ヤクザが金ズルをそう簡単に手放すとは思えない・・アリスが孤児院で生活しているなら(目に見える場所にいるからいつでもまた仕事をさせられる)という考えがあっての事ではないだろうか?・・もし今アリスが行方不明だと知ったら、新日本連合も孤児院・・というか幸運の世界も、行方を捜し出そうとするのではないだろうか?
俺の心はアリスをこの家に住まわせる方向に動いていた。病気を抱えた未成年というだけでなく、今は身の危険も感じる状態だ。親もいない彼には親戚のあてもないはず、一体どこに身を隠せばいいのだ?・・・いっそ二人で警察に行ってみるか?・・いや、警察に行ったところで園に戻されるだけだろう・・違う県の施設に入居させる?・・無理だ・・宗教団体の情報網を舐めてはいけない、ただでさえアリスは目立つのだから、すぐに居場所が見つかってしまう・・ああ、こんな時にセーラがいてくれたら・・・やはり、置いてはいけない。・・どうなるかは分からないが彼を匿いながら二人で新たな生活を構築してみるべきかも知れない・・・しかし、そうなると当然マツシタの捜索を続けるのは難しくなる・・俺の旅もここで一旦終わりになるだろう・・地元にも帰らないなら、向こうにいるはずのセーラにも会えなくなる・・・ああ、そうだ、だったらすぐに沢口明菜に断りの電話を入れなければ・・・有力な情報と特別なチカラを持った少女・・・沢口明菜は超売れっ子女優だ、このタイミングを外せばきっと二度と会う事はないだろう・・仕方ない・・・ここまでだ・・俺は携帯を掴んで電話をかけた。
「ダメだよ」
振り向くと髪をタオルで拭きながらアリスがキッチンに入ってきた。そして横から手を伸ばしてきて俺の電話をオフにした。
「ダメだよ、ボクの為に何かを犠牲にするなんて。」
アリスは俺の正面に回り込んで椅子に座った。
「何か大事な事をしているんでしょう?ボクの為にそれを止めないで欲しい」
「どうしてそう思うんだ?」と俺は携帯をテーブルに置いて訊いた。
「実はボクには、ちょっと特別なチカラがあってね」
「お前もか」
「えっ?」
「いや、何でもない。教えてくれるかな」
「・・うん、あのね、ボクは一度肌を合わせた人なら何を考えているか大体分かるんだ・・と言っても、何から何まで分かるわけじゃないよ。例えばその人が、今お腹が空いて何か食べたいと思ってる・・とかは分かるけど、(ココニに行って、手包みカツカレーのチーズトッピング2辛を食べようとしてる)とは、分からない。そんな感じ」
「なるほど・・・細部ではなくて、意識がどういう方向に向いているか分かるという感じなのか・・」
「うん、でも触れれば触れるほど精度は上がるんだ。ああ、この事を話すのは貴方で二人目だなぁ。これはね、ボクがやってた仕事にはとても役に立つチカラだったよ、初めてのお客さんだと最初は分からないけど、会ってる間にその人が何をしたいか、されたいかが手に取るように分かっていくんだ。二回目以降には話す必要もないぐらいにね。お蔭でボクには沢山のリピーターが付いたよ、例えば大手電気メーカーのパナソニーの二代目社長、松尾牛太郎さんとかもボクの熱心な顧客だったんだ」
「おお、それはまた随分ビックネームだな、松尾社長はどんな事を希望してたんだ?・・あ、いや、いい、聞きたくない」
「ふふふ、牛ちゃんは面倒な人だったよ、酷い時は週に3回ぐらいボクを指名していたからね、後半はもうストーカーみたいになって、日中問わずボクを追いかけまわしていた、流石に元締めさんに言って、出禁にして貰ったけどね、だって他のお客さんが取れなくなるから。牛ちゃん、大分ヤクザさん達にきつく締められたんだと思う。ボクに会えなくなって相当ヘコんでたんじゃないかなぁ」
確かにパナソニーは数年前から極端に業績が悪化してテレビとHDプレイヤーの生産事業から撤退し、地方にある工場も全て閉鎖した。それにアリスが関係しているかも知れないなんて・・こいつはもしかすると、とんでもない大物になるかも知れないぞ。アリスは濡れ髪を拭きながら続ける。
「だから今、貴方がボクの為に何か大事な計画を中止しようとしてる事が分かるんだ。そんな事はしなくていいよ、そんな事をして貰ってもボクは全然嬉しくない。貴方の足手まといになるぐらいならボクは死んだ方がマシだ。」
アリスは真っ直ぐな瞳で俺を見つめた。色素のない眼球の奥には、どこまでも果てしなく空間が広がっているように見えた。
「そうか・・しかし、キミは自分の身が危険な事は分かってるかな?」
「そうなの?・・ああ、うん・・そうか、もしかしたらそうかも知れないね。でもここに来た事は誰も知らないよ、多分ボクの携帯にはGPSが仕込まれてあっただろうけど、それも破壊されちゃったし」
俺はさっき引き出しから持ってきた封筒をテーブルの上に置いた。
「ここに少しお金がある。20万だ。本当はもっと渡したいところなんだが、これから金のかかりそうな人と行動するから俺も少し必要なんだ、大した額じゃないけど帰って来るまでなら持つだろう。俺がいない間、好きなように使えばいい。」
「えっ・・そんな、悪いよ」
「いや、悪くない。俺がそうしたいんだ。早ければ一週間、長ければひと月ぐらいは戻ってこないが、何とかこれでやりくりしてくれ。そして俺がいない間は、なるべくここを出ない方がいい。最小限の、食料品を買うとかそのぐらいの外出で我慢してくれ。暇ならゲーム機でも何でも買っていい。そういう物の中古を扱う店なら駅前にある。あ、でも出る時は必ず帽子を被ったりマスクをしたりして変装をするように。髪の毛を染めるのもいいかも知れないな」
「・・もしかして、ボクをここに住まわせようとしてくれてる?」
「ああ、それ以外ないだろう?」
アリスは顔をタオルに埋めて「ごめんね・・・ありがとう・・貴方はやっぱりダーウィンじゃなかった・・」と言った。
「どういう意味だい?」そう訊くとアリスは、タオルに顔を埋めたまま「・・ダーウィンってクジャクが嫌いなんだって・・進化に必要ない、あんな目立つ羽を持ったまま、自然界でずっと生き残っているから・・無駄な存在だって・・本当だったら絶滅するはずなのにって・・・」と言った。
「キミは・・目立つ事でずっと辛い経験をしてきたんだな・・」
アリスは頷いた。
「俺はクジャクが嫌いじゃないし、進化論も信じていない。キミはしばらくここに住んで、ゆっくり羽を伸ばせばいい」
「うん・・本当にありがとう。」
「こちらこそ、ありがとう。俺は危うく自分の人生を止めてしまう所だった。目が覚めたよ。キミのチカラについても、今までの人生についてももっと知りたいけど、そろそろ出発しなければならないんだ。時間におくれたら、場合によってはヤクザよりも恐ろしい人と待ち合わせしてるんでね」
「うふふ、そうなんだ」
「何かあったら俺の携帯に電話をかけてくれ。仕事部屋にFAX付きの電話がある。番号は・・」
「覚えているから大丈夫」
「そうか・・家電も着替えも好きに使ってくれていい。下着はどこかで買ってきてくれ。料理が出来ないなら出前を取ればいいし、冷蔵庫の横に近所でデリバリーが出来る店のチラシがまとめてある」
「ねぇ、ボクは園では料理長だったんだよ?忘れてない?大体の物は作れるよ」
「ああ、そうだった・・しかし頻繁にスーパーやコンビニに行くのは危険だ」
「うん、わかったよ」
「ここで生活しているうちに出てきた疑問は遠慮なく電話で訊いてくれ。仕事部屋にあるノートパソコンならパスワードもないし、重要なデータもないから勝手に使っていい。そこから俺の携帯にメールする事も可能だ」
「了解っ」と言ってアリスは敬礼のポーズを取った。つい最近も誰かが同じ事をしていた気がする。
「それじゃ、そろそろ出るよ」
俺は立ち上がってセーラが置いていった合鍵をアリスに渡し、モッズコートを羽織って、大きな旅行用リュックを担いだ。アリスは玄関で見送ってくれた。
(61)パイプイス
待ち合わせをした東京駅で、俺は沢口明菜を見つける事が出来なかった。彼女が携帯に送ってきた目印となる看板の写真、その近くに彼女と思われる人物はいなかったのだ。とりあえず指定席券売り場で切符を受け取ってからもう一度待ち合わせ場所に戻ってみても、やはり彼女は来ていない。平日とはいえ、それなりの人混みがある東京駅を右往左往していると、俺の裏腿を軽くこづいて「老眼かよ」と言う者がいた。振り返ってその姿を見た俺は、思わず「なるほど!」と言って感心してしまった。沢口明菜はこちらが想像もしていなかった擬態をしていたのだ。
服装は白のキャップにミラーサングラスとマスクをして、派手な柄のマウンテンパーカーを着ていた。そして、小さめの旅行トランクを引きながら、なんと板まで持って、見事なまでに(冬休みにスノーボードをしに行く大学生)を演じていたのだ!俺はてっきり家に訪ねて来た時のような、全身真っ黒の格好だと思っていたから、間抜けにも何度も彼女の前を通り過ぎていたのだ。
「ね?これならバレないっしょ?」と言って、マスクをズラした沢口明菜は舌をペロっと出した。
全くその通りだ。昼間に黒づくめの格好でサングラスをしていたらそれこそ、「私はお忍びの芸能人です」と言っているようなものだ。そこをあえて派手目のアウターで、服自体が目的を持って着ている物だと主張することによって、逆に匿名性を生み出していたのだ。人はある種のユニホームを着た人間を見ると「そういう人だ」と概要を捉えるだけで、中身までわざわざ確認しようとはしない。例えば、街で制服を着た警察官を見ても「警察官だ」とは思っても「どういう顔の人だろう?」とは中々思わないものだ。彼女は今、世間の目からは(有名女優)ではなく、(素人スノーボーダー)に見えている。これは完璧な作戦だ。幸い俺も本物のモッズコート(フードの付いたヘビーアウター)を着ていて、雪山対策をしているようにも見えなくはないから、一緒に居てもそれほど不自然ではない。
「ところで、その板はどうしたんだ?」と俺が訊くと、彼女は「えっ、普通に買ったし、向こう着いたら捨てればよくない?アタシやった事ねーから笑」と言った。この子のプロ意識、自分を客観視出来る自己プロデュース能力は相当の物かも知れない。問題は、我々の行先があまりウインタースポーツの盛んな土地ではないという事だが・・・とにかくそんなわけで、オレ達は周りの人々に特に不審がられる事もなくホームから乗車し、無事にグランクラスの特大荷物スペース付き座席につく事が出来た。
沢口明菜は席に座るなり、窓の窪みに頭を乗せて眠り出した。もしも俺が彼女と同じ年頃の彼氏だったら「おい、俺との旅行で初っ端から居眠りかよ!」と怒り出すところだろうが、15年以上多く経験を積んできた人間からすれば、全く説明がなくとも、彼女がこの旅の為に休暇を取ろうと事務所にかけあったり、過密スケジュールを休む分まで前もってこなしてきたり、その間に変装を準備したであろう事が容易に想像できる。だから俺は、移動中に彼女の(チカラ)や人となりを聞きたいとは思っていたが、とりあえず何も言わずに寝かせておく事にした。
最高級の特別車両でも年末の帰省客で座席は全て埋まっていた。だがそこはグランクラス、席間も広く取られているから窮屈な感じはしない。乗り込む際に一応乗り合わせる客達の雰囲気もざっと見ておいたが、この車両だけやはり余裕のある中高年が多かった。家族連れも少しはいたが、小さい子供や学生ぐらいの年齢は見かけなかった。俺は少し安心して、自分のバックから出しておいた水筒の紅茶を一杯飲んだ。・・今頃アリスは家でくつろげているだろうか?、きっとあの時は遠慮して俺が出かけるまで眠るのを我慢していたのだろうが、流石にシャワーにも入ったし、もう眠っているかも知れない・・・しかし、あれだけ困難な人生を生きてきて、よくあそこまで性格が曲がらずに成長できたものだ。普通だったらもっと酷い犯罪やクスリ等に手を染めていてもおかしくない・・きっと魂その物に不純物が少ないのだろう、あの透明な肌のように。・・時々アリスのように何にでもなれる可能性のある子が、何にもなれないような状況にいるのを目にすると、どうしようもなく腹が立ってくる。行政はどうしているんだとか、政治が悪いんだとか、国のせいにするのは簡単だが、その前に誰もが目の前の人間に少しでも手を貸そうとすれば、おのずと世界は少しずつ良くなっていくはずなのに。・・これは理想論なのだろうか?だが、貧乏人は被害者意識で自分の事しか考えられず、中流は目の前の生活が忙しすぎて、周りに目がいかない。金持ちはいつでも利己的でわがままだ。結局のところ、ほとんどの人間は自分の事しか考えていない、それは国政の問題じゃなく、個人の想像力欠如の問題だ。世界中を回って色んな国の色んな状況を目にしても、結局はそれに行き着く。人類は実際には全く進化していないのだ。・・ああ、こういう事を考えると腹の虫が治まらなくなってくる・・腹と言えば・・そうだ、朝からコーヒー以外口にしていなかった・・おにぎりはアリスに食べさせて残りも置いてきてしまったし・・・俺は昼食を取ろうかと思ったが、やっぱり沢口明菜が起きてからにする事にした。隣で俺だけがメシを食っている事に気づいて起きた彼女に、何を言われるか分からない。頭は良いが、彼女はどこに地雷を持っているか分からないタイプの人間だ。それに、そもそも俺達はまだお互いの事を何も知らない。関係の始まりはどういう形であれ、まずはペースを合わせるようにした方がいい。そうだ、俺も少し眠ろう・・・そう考えてリクライニングを倒そうとしたが、グランクラスとはいえ一応後ろの人に断りを入れておいた方が良いだろうと思い、俺はふり向いて後部座席の人に挨拶をした。
「すいません」
「はい」
そこにはスーツを着たサラリーマン風の男性が二人座っていた。片方は白髪で五十代後半、もう一人は二十代半ばぐらいで眼鏡をかけている、歳の差がある組み合わせだ。上司と部下の出張だろうか?少なくともここにいる他の乗客とは違う雰囲気だ。
「リクライニングを倒していいですか?」と俺が言うと、真後ろにいた若い方の男が「もちろん、構いませんよ。でもこんなに広いんですから、わざわざ声がけなんてしなくていいのに」と言って微笑んだ。俺はその声に聴き覚えがあった。男はこう続けた。
「せっかくですから良かったら、寝る前に少しお話しませんか?」
俺は体中に緊張が走るのを感じた。「あんた・・・」
「やっと会えましたね、以前お電話差し上げた、神奈川県警の宮元です。」
「・・何で、警察がこんなところに・・」
「いやぁービックリしましたよ、あっ、その前にこちらは僕の上司の若島津さんです。あ、こういう時はいらないのか、すいませんね、ゆとり世代なもので。」
スパン!
若島津という中年の男が、畳んで持っていたスポーツ新聞で素早く宮元の頭をはたいた。
「痛いなもう。ホント昭和の男なんだから・・・」
スパーン。
「もう、止めて下さいよ、そのうちこういう事が大問題になるようになりますよ、とにかく話を進めますね。多分そちらもビックリしたと思いますが、これ・・貴方の後ろに我々が座ってるのは半分偶然なんです。」と宮元は言った。
「そんなバカな」と俺は横を向いたまま答えた。「あなた方は俺を着けていたんじゃないですか?家を出る時から。」そう言ってから俺は、もしかしてアリスが玄関前に倒れていた事も見られていたのではないかと思い、ゾッとした。
「いえいえ、さすがに我々も容疑者でもない人の家を張るほど暇ではありませんよ」
俺はその言葉を聞いてホッとした。理由は何であれ、泥だらけの未成年を家に抱えて連れて行くのを警察に見られるのは良くない。宮元は続ける。
「私達は一般的に池上セーラという名で知られている女性を追って、これからT県に行くんです。」
なんだって!もうそこまで捜査が進んでいるのか・・俺は焦りを隠して「へー、そうなんですか」とだけ答えた。
「その為に新幹線乗り場に来たら、なんと、貴方がいるじゃないですか!しかも切符を買ってからもホームに入らず何故かウロウロしている。それで我々は、もしかしたら池上セーラと待ち合わせて一緒に地元にでも帰るんじゃないかと思いましてね、慌てて切符売り場に行って(警察です、さっきの男性はどの車両の切符を買いましたか?そこに近い車両の切符に換えてください)と、お願いしたんですよ。そうしたら売り場のおばちゃんが(丁度キャンセルが出たので換えられますよ)と言うので二つ返事で交換して貰ったらビックリしました、グランクラスじゃないですか!こんな高いシート経費で落ちませんよ!そんなわけで差額を自腹で出したこちらの若島津警部は今、ご機嫌ナナメなわけです」
スパーン。
「いてっ、もう!三回は暴行罪に値しますよっ・・とはいえ、若島津警部が自腹を切った甲斐は充分にありました。なにせ貴方の真後ろの席だったんですから。はい、だからこの状況は本当に半分は偶然なんです・・しかしですねぇ・・・」
宮元は座席から大きく体を傾けて、こちらに首を伸ばしてきた。
「その横にいる方は池上セーラさんには見えませんねぇ・・」
「えっ・・」
困った。事件性はなくともお忍びで沢口明菜を連れて地元に帰るというのは、余りにもセンセーショナル過ぎる。それを出発早々警察に知られて、理由を根掘り葉掘り訊かれたくはない・・どうすれば・・・するといつの間にか起きていた沢口明菜が俺の耳元で素早く「姪」と言った。その一言で俺の頭はジャーナリストとしての機能をフル回転で発揮し出した。
「ああ、私の横にいるのは姪っ子です。兄の子なんですが、大学生で東京に住んでいるので今回は一緒に帰省する事にしたんです。おじさんとして見栄を張ってこんな豪華な席を取ってしまいましたよ、あはははは」
「なるほど・・・姪っ子さん、スノーボードするんですね」と言って、宮元は座席の方に体を戻した。
「ええ、この子けっこう上手いんですよ」と俺が言うと、沢口明菜はまた小声で「やったことねーって」と言った。
「そうなんですか・・ちなみに向こうで池上セーラと会う予定はあるんですか?」と宮元が後ろから言った。
「いえ、本当に自分は彼女の居場所は知りませんし連絡も取っていません。もしわかったら教えて下さい。旧友が心配していたと伝えて貰えたら幸いです」と俺が答えると「旧友ねえ」と宮元が言った。
あと二時間半以上、真後ろに警察がいる状況で座っていなければいけないのかと思うと、ふかふかの豪華なシートも、冷たいパイプ椅子のように感じた。




