第142話 確認五人目 救いと自由
部活は完全に立ち稽古に入った。
未だ池本は台詞が抜けることがあるが、他のみんなはそれぞれの課題と向き合っている。全体的には順調に進行しているのではないだろうか。
それはつまり、俺が愛した日常というやつだった。
ふと思ってしまう。明日なんか来ないで今日がずっと続けばいいのにって。
真剣に稽古して、ちょっとした誰かの失敗に笑い合いながらも懸命に芝居を繰り返していく。
極々ありふれた情景。
こんな中にいると、色んな問題が嘘のようにも思えてくれる。
でも、それはまやかしだとすぐに思い知る。
部活の時間を終えると、この平穏は偽物で本当は一触即発な現状であることを再認識する。
何とも言えない衝撃が走る。
俺の愛した平穏が偽物だと思うと、反吐が出そうだった。
そりゃ、増倉も怒るわな。
こんな状況じゃ腹の底から笑えない。楽しめない。
上っ面もいいところだ。
そんな思いを抱きながら、俺は帰ろうとしていた大槻に話しかけた。
「大槻、ちょっといいか?」
「おうどうした?」
「聞きたいことあってさ、歩いて帰らね?」
「いいぜ。樫田も山路ももう帰ったし」
大槻はすぐに肯定してくれた。
たぶんだが、二人がいないのは樫田が気を利かせてくれたのだろう。
俺たちは下駄箱で中履きを靴に変えて、外に出た。
曇ってはいたが、雨は降っていなかった。
「そういえば、お前らこないだの帰りに先輩たちとラーメン屋行ったんだってな」
「ああ、そうそう美味かったぞ」
「いいなー」
どうやらラーメン屋での一件は知られているらしい。
樫田から聞いたのだろう。
俺は歩きながら、談笑を続ける。
「今度、みんなで行こうぜ」
「……ああ、そうだな。四人で行きたいな」
大槻は笑ってそう答えた。
横に並ぶ大槻の表情が暗く見えたのは気のせいではないのだろう。
なぜか寂しさを覚えながら、俺は本題に入ることにした。
「大槻はさ、山路が辞めることを阻止したいか?」
「それか。津田先輩からの課題ってやつは」
「! そこまで知っているのか」
「ああ、樫田から聞いた」
正面を向きながら大槻はさらっと言う。
ラーメン屋のことを知っているんだ。不思議なことはない。
少しだけ胸が高鳴りながら、俺は再度大槻に聞く。
「どうなんだ?」
「そーさなー」
力なく笑いながら大槻ははぐらかす。
俺が黙っていると歩く速度が少し遅くなった。
静寂がしばらく流れた後、大槻はゆっくりと口を開いた。
「……本音を言うとさ。少し、辞めてもいいんじゃないかって思いもあるんだ」
「……」
「そりゃもちろん辞めたほしくはないし、まだ一緒に劇したいさ……でも、あれから日数経ってさ。もしこっから先、山路が苦しむっていうなら、俺は今を山路の青春の幕引きにしてもいいのかな、とも思うんだ」
これはどうしようもない本心なのだろう。
山路のことを知っている大槻だからこその言葉だった。
気持ちも分かるし、理解もできる。でも、それでも俺は。
「悪い大槻。それでも俺は阻止したい」
「謝んなよ。正しいよお前は」
大槻は表情を変えず、答える。
正しいか。今俺の中にあるものがそんな殊勝なものじゃないことぐらいは分かっていた。
少しだけ憂鬱さを覚える。
「杉野」
「ん?」
何かを改めるように、大槻は俺の名前を呼んだ。
首を少し動かして表情をうかがったが、大槻は変わらず正面を向いていた。
「あの時。ゴールデンウィークのあの時さ。俺はお前に救われた」
「救うって……そんなことはしてない。だいたいみんなと話し合ったのは大槻自身だろ」
事実、俺は何もしていない。
あの一件は大槻がみんなと本気で話し合ったから解決したことだ。
「違うよ杉野。あの時、全てを放り投げようとした俺の気持ちに火を、渇望を抱かせたのはお前だよ」
「だとしても、救うなんて……」
「いいや、あれは救いだった。だって今俺は演劇部の残れて良かったって心の底から思えるんだから」
大槻の足が止まる。そして俺の方を向いた。
俺も歩くのを止め、目を合わせる。
真剣な表情で大槻は「でも」と話を続ける。
「山路は自暴自棄になった俺と違って、考えた末に、覚悟を持って辞めると言っている」
「ああ」
「だから簡単じゃダメだ。消えた心の灯をつけるのは、きっとどこか仰々しいぐらいの言葉が必要だ。俺にはその言葉がない。理由を知っているから臆病になって、気持ちが分かるから同情を抱いている……けど杉野。知らないお前なら、お前だからこそ救える気がする」
「……」
「悪い、勝手なこと言った」
「大槻……」
どう見えたのか、大槻は少し微笑むと俺から視線を外して歩き出した。
俺も続いて横を並んで行く。
まもなく、駅だ。
「勝手なことついでに、もう一つだけ……杉野、お前はもう少し自由でいいと思うぞ」
「自由?」
「ああ、みんなの意志なんて汲もうとするなよ」
大槻の言葉に全身が痺れた。
何か本質的なことを言い当てられた気がした。
「そりゃ、椎名と全国を目指すこととか増倉の怒りとかさ、色々知っているんだろうけどさ、もう全員が賛同することなんてないぜ」
「それは……」
「お、もう駅だな」
俺が答えるのを待たずして、駅の近くまで着く。
大槻は立ち止まり俺の方を見た。どうやらここまでのようだ。
「じゃあ、俺こっちだから」
「ああ、また明日」
「おう、また明日」
そう言って大槻は駅の改札の方へと歩いて行った。
俺は見送りながら、心の中はで大槻の言葉が反芻していた。
全員が賛同することなんてない、か。
嫌に耳に残るということは、どこか驕りがあったのだろう。
急激に自分のことが恥ずかしくなる。
大槻が改札の中に消えてからしばらくして俺は歩き出した。
できれば、静かな場所で一人になりたかった。
家の中でもよかったのだが、なんとなく駅近くの公園へと足を運んでいた。
大槻とゴールデンウィークの話をしたからだろうか。
そんなことを考えていると、すぐにあの公園に辿り着いた。
この時間なら誰もいないだろうと中に入る。
しかし、予想外のことに複数の見知った人影があった。
何で? そう思って踵を返そうか迷っていると目が合った。
見つかった。人影の一人が全速力でこちらにやってくる。
「先輩ぃ! どうしたんですかぁ!」
田島が元気よく聞いてきた。
公園にいたのは、後輩たち三人組だった。