第134話 バランスの崩壊
「うわ、降ってんじゃん」
下駄箱で靴を履き替えていると、大槻が気づいた。
教室にいるときは暗くて分からなかったが、どうやら雨らしい。
「僕はバスで帰るよ―。樫田はー?」
「俺は歩きかな。ちょっと考えたいことあるし」
「じゃあ、俺もバスだな。杉野はどうする?」
「……俺も歩こうかな」
この雨なら自転車で帰れなくもなかったが、俺は歩くことにした。
外に出ると雨が降っているとき特有の陰湿な感じがあった。
どこか、今の俺たちの雰囲気のようだった。
「女子たち待つ?」
「いや、バス逃したら面倒だろう。二人は先に行ってもいいぞ。な? 杉野」
「そうだな。女子たちには俺たちから説明しとくわ」
女子たちとは下駄箱の場所が違う。
校門に近いのは俺たちの方だから、帰り道で必ずここを通る。
「……なんか話したら連絡くれ」
「おう、分かった」
大槻は樫田にそう言い残すと、傘をさして雨の中に入っていった。
「よし! じゃあ行こうぜ山路」
「うん。行こうかー。じゃあね杉野、樫田」
山路も大槻に続き雨の中へと入っていく。
俺と樫田は軽く手を挙げて、二人を見送った。
二人はすぐに見えなくなり、雨の音だけが残った。
……俺の気分が晴れないのは、この雨のせいではないのだろうな。
「はぁ」
自然に、重い溜息が出た。
俺の横に立ちながら、樫田が話しかけてくる。
「その溜息は山路のことか? それとも女子たちか? ああ、コバセンに言われた次の集まるタイミングのことか?」
「……全部」
「問題はどれも同じだけどな」
俺の答えに、樫田は遠くを見ながら答えた。
そうなんだけどさ。と口の中で呟く。
分かっている。結局は山路が辞めることが問題の発端だってことは。
俺もなんとなく遠くを見る。
さっきまでの話し合いで疲れているのか、脳が回らない。
雨の音が、少し強くなった気がした。
「なあ、杉野」
「ん?」
変わらず、外を見ながら樫田が俺の名前を呼んだ。
俺は視線だけを樫田に向けた。
「いつだったか、俺がギリギリのバランスで部活をしているって話したこと、覚えているか?」
「……ああ、あの日もこんな雨だったな」
あれは一年生が入ってきた日だった。
疲れているはずの脳が、すぐに思い出す。
あの時は、大槻が夏村に告白するだのなんだのが話の主だったけどな。
「今、バランスは崩壊したと言っていいだろう」
「……」
「あれから約一ヶ月。大槻が告白したりオーディションがあったり、いくつか問題はあった。それらはお前のお陰で解決してきたが、今回ばかりはそうはいかないかもな」
「別に、俺のお陰じゃ……」
「いいや、杉野。お前の尽力あってこそだよ」
樫田は何を思っていたのか、微笑みながら言った。
言い方こそ優しかったが、その言葉には異論を認める気のない絶対的な意志を感じさせた。
ゆっくりと樫田はこちらを向き、目が合う。
「例え山路が辞めることを撤廃して部活に残ったとしても、崩壊したバランスは元には戻らない」
「そんなことは……」
「あるさ。少なくともお前らが全国を目指すことについては、賽が投げられた」
「! それは」
「話には出ていないが、みんな思うところはあるだろうな」
何とも言えない気分になった。
樫田の言っていることは正しい。今はタイミングがなくて話していないが、きっとみんな心のどこかでそのことを思っているだろう。
そして、それはつまり――。
「杉野。お前は今、椎名側の立ち位置であることを忘れるな」
「……そんなつもりはないんだけどな」
そう言いながらも、頭では理解していた。
俺自身は日和見だと思っている行動でも、周りから見たらそうじゃないのだろう。
その意図がなくても、俺の言葉の裏に椎名が、全国を目指すことがよぎる。
今までとは言葉に感じる想いが違う。そういうことだろう。
「ちょっと、説教くさかったか?」
「いや、ありがとう」
俺は礼を言う。これはきっと樫田なりの注意、いや迷っている俺に対する助言なのだろう。
樫田は俺の答えに満足そうに笑った。
「にしても、女子遅……ん? ちょっとすまん」
樫田がポケットからスマホを取り出した。
どうやら、誰かから連絡が来たらしい。
「もしもし……いや、杉野と俺で待っているけど…………おう、そっか。りょうかい。じゃあ先帰らせてもらうわ…………ああ、じゃあな」
樫田は通話を終えると、肩を落として力を抜いた。
「女子からか?」
「ああ夏村から。もし残っているようなら先に帰っててくれって」
「そっか……」
「しゃーない。帰ろうぜ」
気分を変えるかのように、樫田は笑って傘をさす。
俺も続いて傘をさして、外へと出た。
きっと女子たちだけで何か話しているのだろう。
気にはなるが安易に触れてはいけない気がした。
樫田と並んで校門のところまでやってきた。
うちの高校はすぐ近くがバス停の止まり場所になっている。
そちらの方を見たが、もう二人の姿はなかった。
俺と同じことを思ったのか、歩きながら樫田が言う。
「大槻と山路も帰ったみたいだな」
「そうだな……そういえばさ」
「ん?」
「あ、いや、なんてことないんだけどさ。さっきの話し合い樫田が進行役しなかったのは何でなのかなって……」
軽い話題程度のつもりで聞いた。
しかし、樫田は真剣な表情になった。
何かマズいことだっただろうか。
「それについてか。正直俺は俺で悩んでいてな」
「悩んでいる?」
「ああ、演出家としての立場もあるから、今までみたいに中立ってわけにもいかなくなったからな」
「ああ、なるほど」
「かといって、俺が進行しないと話がまとまらない時もあるしな」
自惚れではない。俺からしても樫田が話を進めないとまとまらないときはあると思う。
でもそうか、確かに樫田は演出家として、今までみたいに完全中立というわけにもいかないのか。
「まぁ、さっきは杉野のお陰で話が正しい方向に進んだし、別に俺が進行しなくてもいいだろ」
「あれは……たまたまだよ。落としどころとか考えてなかったし」
「それでも、話の持っていく方向は悪くなかった」
どこか嬉しそうに樫田は俺を見た。
俺はなんとなく照れくさくなって前を向いた。
「でも、問題は残ったままだけどな」
「……そうだな。何か考えとかあるか?」
「さっぱりだよ」
全く何も浮かんでいない。困り果てていると言っていいだろう。
俺の言葉を聞いて樫田は、にやりと笑った。
そして「じゃあ」と前置きして言った。
「アドバイス貰いに行くか?」