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明日の天気はきっと晴れ  作者: FRIDAY
第三話 花笑ちゃんの参観日
29/38

29.花笑ちゃんの参観日、なのです。

 まつげさんが運転席で、加賀さんが助手席、後部に僕、水戸さん、木鈴さん、最上さんと、結構な人数だけれども、まつげさんの軍用(と見紛みまがう)車両は余裕で収容してくれた。いや、冗談じゃなくこれから演習にでも向かうような気分になってしまいそう。

 車はやっぱり、早かった――道を間違えることもなく、法定速度は遵守しつつの最高速度で花笑ちゃんの通う高校にたどり着き、参観日ということで来校者用に開放された駐車場へ乗り込み、運よく一台分だけ空いていたスペースに頭から突っ込むと、一斉に慌ただしく降り立って玄関へ向かう。諸所に立つ案内掲示に従ってずんずんと生徒玄関に入り、スリッパに履き替える。


「あれ、スリッパ足りませんよ」僕以外が全員履いたところで片足分しか残ってない。なぜ。

「それじゃー仕方ないですねー、ユーヤさんは片足だけでー」

 何たる仕打ち。両足揃って一足なのだから、奇数になることはないはずで、つまりこのやもめは逃亡されたか不倫されたかのどちらかなわけだけれど、辺りを探している暇も惜しいので右足にだけつっかけて皆のあとを追う。


 既に授業が始まっていて、廊下は教室から聞こえてくるかすかな声と、立ち話中の保護者のさざめきしかない。


「来校者の方はこちらにお名前をお願いします」

 生徒玄関から廊下に出たところで、パイプ机に『受付』という札を下げたおねーさんが、抑えた声ながらにこやかに呼びかけてくる。多分、事務員の人だろう。はいはい、とぞろぞろそこに集まったら、囲まれたおねーさんはちょっと驚いた表情になって、

「えっと……皆さん、保護者の方ですか?」

 そりゃあ、まあ、戸惑うだろう。大学生四人、大学院生ひとり、専門学校生ひとりなわけだが、兄妹と言うには取り合わせが不可解過ぎる。加賀さんだけは、小学生の妹とか言っても通りそうだけれど……痛っ。


 ともあれ、代表してまつげさんが頷く。

「まあ、そんな感じです」

「生徒さんのお名前を確認させていただいてもよろしいですか?」

 行って差し出してくるのは、一見するに全校生徒の名簿だ。名前の横にボックスがあって、多くの名前にチェックが入っているから、自分の子のところに同様にチェックを入れろということだろう。


 と、そこではたとまつげさんが止まる。

「しまった、花笑ちゃんって何組だったっけ」

 まさか一組からしらみ潰しに探すわけにもいかない。どうやらクラスは十組まであるようだし……と、困ったところで「あ、あの」と恐る恐る手を上げた水戸さんが、

「よ、四組だったかと……」

 お、とまつげさんが名簿をぱらぱらとめくり、すらすらと確認していく。そしてすぐに「あった」と勢いよくチェックを入れた。ザシュッ。

「ナイスですねー水戸さんー。よく知っていましたねー」

「き、昨日プリントを整理したときに何度か見ていて、たまたま覚えていたので……」

 照れくさそうにはにかむ水戸さん。そういえば僕も何度も見かけた気がするけれど、日付を確認する方に気が寄っていて全く思い出せなかった。さすが水戸さん。


「では、保護者の方のお名前をこちらに……」

 と、おねーさんが言いかけたところでふと止まる。それから、ええと、と僕らの顔を順繰りに見回した。そして、やはりまつげさんに視線を戻して、

「代表の方だけで構いませんので、お名前をお願いします」

「ああ、はいはい。えっと、ここね。松下まつした……」


 さらさらとまつげさんが自分の名前を記入する。それを確認して、はい、とおねーさんはまた笑顔に戻った。

「一年四組は右手つき当りの階段を上がっていただきまして三階、左から五つ目の教室になります。既に授業が始まっておりますので、廊下ではお静かにお願いします」

「はい、ありがとう」


 校内の案内図を受け取って、すぐにまつげさんが聞いた通りの道を歩き出す。僕らもそのあとにぞろぞろと続く。高校に入るのは随分久し振りで、しかし自分の通っていない他校なものだから、懐かしいような新鮮なような不思議な気持ちになりつつ、思いのほか長い廊下をぱたぱたと歩いていく。いや、ぱたぱたと音がしているのは皆で、僕だけはスッぱたみたいな妙な足音で、正直ちょっとかかとが痛い。


 若者たちが集団で、それも結構焦燥感のある顔をして行進している様はやはり異様なようで、すれ違う他の保護者らから妙なものを見たという顔をされるが、気にしてなんかいられない。やや息を切らしつつも階段を上り切り、左手に教室を数える。四組なのに五つ目なのかとちょっと不思議に思っていたが、ひとつめはどうやら空き教室だった。順番に一組、二組、三組、四組。


「ここね」

 まつげさんが足を止めたのは一年四組の教室、その後方の戸の前だ。いい? と目配せするまつげさんに、皆が頷きを返し、まつげさんを先頭にそろそろと教室へ入っていく。


 格子状に並べられた机と椅子、そこを空席なく埋めて授業を受けている生徒。高校を卒業してからというもの久しく見なくなった光景だ。クラスは、多分全部で四十人くらい。結構多い。そして教室最後方にはやはり既に保護者が立ち並んで、自分の子たちの授業風景を観ている。中にはお父さんらしき男の人もいてちょっと感心した。その並びに、親というには年齢も人数もそぐわない一行がいそいそと並ぶ。どうやらまだ授業が始まってからそれほど経ってもいないようだ。ほっと一息ついたところでようやく黒板を見る。中年の温和そうな女性教師が教鞭を執っている教科は。

 化学だった。

「……ぐぉ」


 思わず喉の奥から妙な音が出た。握り潰された蛙のようなその音を聞きつけたらしい隣のオバサマが怪訝けげんな視線を向けてくるけど、愛想笑いで誤魔化す。

 どうやら僕が全く歯の立たない教科のようだけれど、花笑ちゃんは……いた。


 窓際から二列目、前から三列目。

 そこに、やや俯き気味に座っている。


 僕のいる場所からでは横顔程度しか、しかも陰になってしまっていて表情はよく見えないのだけれど、それでも、普段の花笑ちゃんを知っているせいか、その様子は明らかにいつもとは違って見えた。少なくとも、あの無邪気な天真爛漫さは鳴りを潜めていた。


 花笑ちゃんは、昨日まで加賀さんに絞られていたことからもわかる通り、化学は決して得意科目ではない。だから……だろうか。


 さすがに高校生にもなると、参観日で発するような子はほとんどいない。悪ぶっている子もいないし、皆淡々と先生の話を聞いている。だから……だろうか。


 それとも、花笑ちゃんはゆうやけ荘ではあんなにはしゃぐ明るい子だけれど、僕たちが知らないだけで実は学校では普通いつもこんな風……なんだろうか。


 それとも。

 今日が、参観日だから、だろうか。


 あれこれと思うところはあるものの、はっきりとしたことはわからない。僕は決して、人の機微を斟酌しんしゃくできるアンテナは持ち合わせていない。わかるのは、少なくとも花笑ちゃんは、僕たちがやって来たことに気付いてはいない、ということだけだ。僕たちの侵入によって保護者陣がわずかにざわめいたけれども、花笑ちゃんは一瞥いちべつを送ることもなく、ただひたすらに机の上に広げた教科書とノートへじっと視線を注いでいる。


 ところで僕らの侵入に気付いているのは、保護者陣だけではない。当然、教室最前方で授業を展開している先生も気が付いていて、やってきた僕らの珍奇な組み合わせに目を丸くしていたけれども、そこで突然、何かを思いついたかのように手を打った。


「そうだ、折角今日は参観日なんだし、保護者の皆さんにも一緒に答えを考えてもらいましょうか」

 ……一体何を言い出しているんですかこの先生は。


 わかるわけないじゃないですかと全力でこの教室を飛び出したくなるが、しかしそんなことができるわけもない。突然の無茶振りにざわめきが走り、生徒たちはにやにやと笑みながら自分の親へ振り返る。


 そんな中、花笑ちゃんだけは微動だにしなかった――いや。

 わずかに、さらに身を小さくした。俯き気味だった顔が、さらに下がる。

 自分の両親が、来ているはずがないから。先生のサプライズショーも、面白みなんて全くないから。


 その小さな背中に、僕は何とかして皆で来たんだよということを伝えたく思う。授業が終われば声をかけることもできるけれども、できることなら授業中に気付いてもらいたい。


 どうすればいい。


 でも、方法なんて思いつかない……ましてや科目は化学だ。僕では全く太刀打ちできないジャンルである。いや、待てよ。別に僕でなくてもいいのか。他の誰でもいいからアピールすれば、花笑ちゃんに気付いてもらえる――そう思って横を見ると、まつげさんは青い顔をしていて、水戸さんはそわそわとせわしなく手指を絡み合わせながら視線を泳がせているし、最上さんと木鈴さんはそれぞれ目と耳を塞いでいた。

 文系は全滅。


「か、加賀さん! お願いします!」

 唯一残った頼みの綱は、理系筆頭の加賀さんだけだ。抑えた声で言う僕に、加賀さんも心得たものでその可愛い胸を張って(痛っ)大きく頷く。

「任せてくださいー、このわたしに化学で怖いものはありませんからー」


 よかった、と僕は安心する。見た目小学生の加賀さんに先生が回答権をくれるのかという一抹の不安はないこともないが、とにかくこれで花笑ちゃんに気付いてはもらえる。


 僕たちは、来たんだよって。


 そうしている間にも、先生が板書を全て消して、新しい問題を書いていく。

「きっと保護者の皆さんも一度はやったことがあると思いますから、昔を思い出してくださいね」

 そんなことを言いながら黒板に書き上げられたのは、長い問題文と、三つの小問だった。


 ……うん。


 俯瞰して、僕は鼻息を吹く。

 さっぱりわからん。


「――はい、それではさっそく解いてもらいましょうか。結構難しいですから、よく考えてくださいね。わかる人いますか?」

 先生が教室を、主に保護者の方を一望する。いや、そんなこと言われても、マジでさっぱりわからないですよ。


 しかし、僕は恐れない。なぜなら僕には強い味方がいるからだ。

 よし、どんとこい。どんな問題にも答えてやるぜ(加賀さんが)!


 と、完全に他力本願で意気込む中、保護者を見渡していた先生の視線がふと止まった。それからにっこりと笑い、

「あ、解けますか? では前まで来て、どうぞ」

 と手で黒板前までを示しているんだけれど、ねえ、何だか先生の視線、僕に向けられているような。


「何しているんですかーユーヤさん、あなたの出番ですよー」

 と、しれっと促してくるのは加賀さんだ。ええ、何で? これは加賀さんの出番なんじゃないの? さっきそう打ち合わせたんじゃないの? というかどうして先生は僕一択なの?


「それはー、だってほら、ユーヤさんが手を上げてるからー」

 え、と見ると確かに、僕の左手が控えめに上がっている。加賀さんの手によって支えられて。


「――何ですとっ」

 しまった嵌められたっ!


 何で手を上げさせられていることに気が付かなかったのと自分を責めるところでもあるが(本当に)、とにかく抗議しなければならないのだけれど、他の保護者らの期待の目、生徒たちの好奇の視線を一身に浴びて、僕は観念せざるを得ないことを悟った。

「ああ、もう……」

 なるようになるしか。


 足を引きずるようにして黒板まで向かうのがせめてもの抵抗だった。教室の端を迂回していく途中で、ふと見ると花笑ちゃんが顔を上げ、こちらをじっと見ていた。


 驚きに目を見開いて、あ、という形に口を開いて。


 やった、気付いてくれた、という喜びも一瞬、すぐに己に課せられたミッションがのしかかってくる。どうぞ、と渡されたチョークを持って、改めて黒板を見る。


 ……うーむ。


 食酢中の酢酸の定量……見たことは、あるかもしれない。えっと、0.10mol/Lシュウ酸水溶液10.00mLを……指示薬を加えて……未知濃度の水酸化ナトリウム水溶液で滴定したところ、20.00mL加えたところで変色。ほう。次に食酢5.00mLを……希釈……水酸化ナトリウム水溶液……え、これがまだ問いじゃないの?


 水酸化ナトリウム水溶液のモル濃度は。

 希釈前の食酢中の酢酸のモル濃度は。

 希釈前の食酢の質量パーセント濃度は。


 ……ふむぅ。


 たっぷり五分は固まっていただろう、僕はゆっくりと振り返って、僕に注目している全員の誰ともなしに、そっと、


「……全然わかりません」


 ぷ、と誰かが噴き出す音がした。それを皮切りに、他の誰かも笑い出して、伝染し、とうとう教室にいた全員が爆笑しだしてしまった。ていうかまつげさんも加賀さんも実に楽しそうに笑っているし、水戸さんも控えめだけど口元を押さえて震えていて、いや、助けて下さいよ。とんだ公開処刑ですよ。背中から額から冷や汗止まりませんよ。

 あれ、でも、と僕は視線を移す。皆が笑っている、ということは。


 花笑ちゃんも、笑っていた。


 本当に、心底面白そうに、楽しそうに。見ているこっちまで思わず笑顔になってしまいそうな、それこそまさに花のような笑顔で、気持ちよさそうに。


 その笑顔のお陰で、半泣きだった僕も少しだけ救われた。危うく決壊しかけた涙腺を引き締める。で、出てきて恥かいた甲斐はあったぜ。加賀さんも、まさかこれを狙っていたとは思わないけれど……ただ笑いたかっただけとも思いたくないけれど。


 しかしお手上げはお手上げだ。僕が高校一年生のときって、こんな問題と戦ってたのか。いや、当時だって絶対に解けてはいなかったと思うけれど、挑む勇気だけは敬意を表するところだ。


 さて、ひとしきり笑い転げたところで(非常に居心地が悪い)、先生がそれではと再び教室を見回す。


「お兄さんを助けてくれる人は、いるかな?」

 本当に、助けてください。誰でもいいので。しかし、こんな問題、高校生に解けてもいいのかね。答えどころか、何が訊かれているのかもよくわからないぞ。濃度って。モルって何だっけ。質量パーセント濃度って日本語? 辞書はどこ? 翻訳機は?


 と、打ちのめされている僕を救うべく手を上げる勇者は、思いのほか早いうちに現れた。それも、「はいはーい! 私! 私が解きます!」と極めて元気よく、聞いたことのある声で。


 というか花笑ちゃんだった。

 え、花笑ちゃんってばこれが解けるの!?


 驚愕する僕をよそに、ではどうぞと導かれた花笑ちゃんが、僕の前に立つ。

「す、凄いね、これ解けるんだ……」

 チョークを手渡しながら、本気で震えている僕に、花笑ちゃんはそっとはにかんだ。


「ユーヤさん、その……ありがとうございます」

「え?」


 近くに先生がいることや、そもそも教室の注目を集めていることもあって花笑ちゃんの言葉は小声で、だから思わず訊き返してしまったのだけれども、花笑ちゃんは二度は言わず、僕から受け取ったチョークを握りしめて勢いよく黒板の前に立った。

「では解きますよー!」


 カッカッカッカッ。


 打音心地よくチョークを黒板に滑らせる。すらすらと、淀みなく次々と計算していく。

 す、すげえ。

 何をどんな計算しているのかはさっぱりわからないんだけれど、花笑ちゃんがそんな摩訶不思議な計算をしているという現実がすげえ。

 魂消たまげるぜ。


「――こう、こう、こう、っと。できました!」

 僕が茫洋ぼうようと佇んでいたのとほとんど同じくらいの時間だけで、見事三問とも解き切ってみせた花笑ちゃんは、溌剌はつらつと皆へ向かってポーズを決めた。おお、と皆から贈られる拍手。


「よくできました。それでは答え合わせをしてみましょうね」

 言下に先生が赤チョークに持ち替えて、花笑ちゃんのやや悪筆な回答を解説交じりに答え合わせしていく。

 拳を握って見守る僕と花笑ちゃんの目の前で、一問目に丸が、二問目にもまた丸がかかり、三問目に至ったところで、


「――惜しい! 花笑さん惜しいですよー、ちょっとだけ違うんですねーこれ」

「何ですってー!」


 本当に惜しそうにしていながら情け容赦なくバツを刻み込む先生。固唾かたずを呑んでいた僕と花笑ちゃんは思わず頭を抱えてガッデムと叫んだ。


「どこが!? どこが違うんですか!?」

「さて、どこだろうねえ」


 よく見直してごらん、と言われて目を皿のようにして確認する花笑ちゃんだが、どうやらミスが見つからなかったようだ。そっと僕の方へ視線を移して、


「……わかります?」

「いや、最初っから全く解けなかったんだからね僕は」


 結局何が求まっているのかもよくわかっていない僕に、検算なんてできるわけがない。

「えー……」

「誰かに助けてもらいましょうか」


 困り切った花笑ちゃんに、先生がにこやかに言う。先生としてはそれは、わかる人がいるかどうかを例によって訊いてみようというつもりだったのだろうけれど、ここしばらくずっとある人物からつきっきりで教えてもらっていた花笑ちゃんとしては、こういうときに助けを求めるのはひとりしかいない。

「か、加賀さーん……」


 花笑ちゃんの呼びかけた方向に、思わず視線が集まる。その先にいるのはまつげさん――ではなく、その前。

 加賀さんだ。


「仕方ないですねー」

 言って、すたすたと歩きだした加賀さんの姿に、先生だけでなく生徒たち、保護者陣も目を丸くする。そりゃあ、小学生の女の子が高校化学の授業に肩で風切って助太刀に入るのだから、まあ驚くだろう。


「と、解けます? これ」

 戸惑いを隠せない先生からチョークを受け取りつつ、加賀さんは飄々ひょうひょうと頷く。

「理学部ですからー」


 加賀さんの実年齢を知らない先生には理学部が他の単語に聞こえたかもしれない。はい? と訊き返す先生に構わず、加賀さんは黒板を見上げた。

「……届きませんねー」


 さすがに教壇の上に立ってもまだ加賀さんにとっては黒板は高い。ふむ、と頷いた加賀さんは、当然のように、

「ユーヤさんー」

「あ、はい」


 僕も当然のように、黒板の前に四つん這いになる。そうして土台となった僕の背に、加賀さんはスリッパのまま「せめてスリッパは脱いで」「脱いでとか、相変わらずユーヤさんは破廉恥ですねー」とにかくスリッパは脱いでくれた。でも風評被害はやめてください。


 そうして高さを得た加賀さんは、これまた難なく花笑ちゃんの間違いを正していく。それも、先生みたいな解説付きで。もっとも台座として踏みしだかれている僕には黒板が見えないし、解説だけを聞いてもさっぱり日本語に聞こえていないのだけれど。おお、というどよめきから、どうやら加賀さんの解説が明快だったのだろうと察せられる程度だ。


「あ、ありがとうございました、正解です」

 動揺を隠しきれない先生。やはり加賀さんの年齢を誤解しているようだ。加賀さんを下して立ち上がった僕からそっと視線を逸らしたけれど、動揺の原因が迷いなく幼女に踏まれることに甘んじた僕に原因があるとは思いたくない。僕は健全である。適当な椅子を持ってくればいいのにとかそんな野暮なことは言わない。

 とにかく、と先生はひとつ手を打って注目を集めた。


「最後にちょっと間違えてしまいましたが、よく頑張りましたね、花笑さん。ちゃんと勉強していることがわかったので、この間の補修課題は今日までの分で終わりとします」

「え、ほんとですかぁ!?」


 つまり、ずっと続いていた化学祭りは終わりということだ。余程嬉しいらしく、花笑ちゃんは飛び上がって喜んでいる。

「これで終わり! 今日で終わり! もう化学はやらなくていい!」

「じゃなくて! ちゃんとこれからも勉強してくださいよ。そんなこと言って次の中間試験で赤点取ったら、さらに倍の課題を出しますからね」

「うわあ、それは勘弁……」

 喜びも束の間、しゅんとうなだれる花笑ちゃん。けれど嬉しいものは嬉しいらしく、にこにこが止まらない。


「それじゃあ、この問題はここまで。おふたりも、ご協力ありがとうございました」

 いえ、と僕は手を振る。僕のしたことと言えば、身を削って笑いを取ったくらいだからね……では、と僕と加賀さんは後ろに、花笑ちゃんは自分の席に戻っていく。そうして授業が再開され、ときどきまた保護者にも回答を促されたりしたけれど、思っていた以上に和気藹々あいあいと進行していった。どうやら僕の公開処刑辺りから授業の空気もいい意味で緩んでくれたようで、淡々としていた生徒たちが結構積極的に発言したり、自分の親にも恥をかかせようと頑張ったりしていた。若い子って凄いな。


 でも、何よりも、花笑ちゃんの背筋が伸びていることが、嬉しかった。

 ちゃんと顔を上げて、我先にと手を上げる。既に一度前に出ているから当てられることはあまりなかったけれど、花笑ちゃんの気持ちの変化はよく伝わってきた。

 それは、化学がわかるようになったから、だけではないだろう。


 皆が、観ているから。

 皆が来てくれて、観てくれているから、頑張る。

 ――それはきっと、初めてのことだから。


「……ああ」

 小さく、人知れず吐息する。

 来てよかった、と本当にそう思う。田中さんに、御礼をしないといけないな。

 お陰で、僕は後悔することなく――義を、尽せたんだと思う。


 花笑ちゃんの笑顔を見て、本当にそう思う。


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