第5話
肩まで伸びた髪から滴がぽとぽと床に落ちた。
「もう、またありすね。いいかげんにしなさい。」
母親の不機嫌な声が洗面所から聴こえてくる。
部屋へと逃げたありすは
ドライヤーの設定を「強」へと変え
母親の声が聴こえないようにしてしまう。
白地にブルーの細かいドットがついた
ありすの部屋のカーテンを
初夏の風がふわりと持ち上げて
ありすの髪までやってきた。
薄く開けておいたドアを押しやるようにして
今、リジェが入ってきたのだ。
にゃぉ・・ん。
相変わらず啼き方は、小さな頃そのままの
甘えたまんまのリジェだったが
すっかり大人になったリジェは
近所でもちょっと評判の美しい雌猫に成長していた。
界隈のボス猫他、数匹の雄猫が
絶えずリジェの周りを、
いつもつきまとうようにして歩いていたが
リジェは全く意に介さずといった顔で
ミスティオフホワイトの毛と
ネイビーグリーンの眸を
一番美しく見せることのできる姿態を
まるで心得てでもいるかのように
しなやかに振舞うリジェは
ありすが見ていても、
思わず ほぉ・・とため息を漏らしてしまうほど
官能的で艶かしく
まだキスはおろか、
彼氏の一人もできないありすにとっては
リジェはまさに羨望の的だった。
ありすは高校に入学し
毎日勢い良く自転車で坂道を下り
学校へと向かった。
ここ数年で一気に増えた
この町の人口に応えるようにして
新しくできたばかりの高校に入学したありす。
高校は、
ありすの家とあの海の
ちょうど真ん中あたりにあり
授業中、窓を開けていると
風向きによっては
潮の香りがふいに鼻先をかすめることがあり
ありすはそんな時 必ず あの小さな傷を思い出し
胸の奥がきゅ・・と痛んだ。
映研に入ろうとありすを誘った友達を、
うまく説得して演劇部に入部したのも
映画の撮影場所にもしかすると、
あの海が選ばれるのではないかと
ありすが懸念したからであり
運動部を避けたのも
朝練や放課後などに、海へと走りこむ運動部の姿を
中学生のありすが、時々目にしていたからであり、
あの海に結びつくかもしれないものたちを
できるだけ自分の周りから排除することによって
ありすは、自分とリジェの関係を
無意識に守ろうとしていたのかもしれなかった。
何のために?と 誰かがそれを ありすに問うことはなく
ありすも又、自分自身にそれを問うこともなく。
尤も、ひとつだけ、ありすの思惑が外れたことがある。
それは思ったよりも演劇部の練習はハードであり
発声の為の腹筋運動や柔軟、時には走りこみなど
運動部さながらの厳しいトレーニングが待っていたこと。
それでも、毎日は案外に愉しく忙しく過ぎていき
ありすが海に悩まされることは殆どなく
リジェもまた、
毎日をのんびり優雅に暮らしているようで
ありすはこんな高校生活を、とても気に入っていた。
「ありす、なにやってるの?遅れるわよ!」
階下から母親の声が聴こえる。
8時17分。
「あ、いけない!」
ありすは慌てて
机の上の携帯を掴むと、階段を下りた。
「リジェ、行ってくるね」
自転車に跨ると同時に、
ペダルを踏む足に力を込め、一気に加速する。
あの角の電信柱を越えれば、あとは学校まで
一切ペダルを漕ぐ必要はない。
放っておいても、坂道が
ありすを正門まで運んでくれる。




